生き物の身体は、先験的に空間との関係の中に置かれて存在している。この関係を携えて意識が発生する。
意識がなくても身体は動くか?つまりわれわれの身体は、意識とは無縁に動く仕組みを持っているのか?
そういう仕組みを持っているように感じられる。身体が動いてから空間を感じる……というような。
では、身体が動いてから意識が発生するのか。
そうではない。身体が動く前から空間に対する意識ははたらいている。空間に対する意識を前提として持っているから身体が動く。それが意識であれ無意識であれ前意識であれ、そういう「前提」をわれわれは持っている。
われわれが身体の動きに意識がともなっていないように感じるのは、そのとき身体に対する意識が消えていっているからである。そのとき身体は空間に溶けていっているように感じられる。
だから、生き物の身体は自律的に動いている、などという考え方が生まれてくる。
しかしそんなのは、嘘だ。
体なんか勝手に動いているじゃないか、と考えるのは、じつは鈍くさい運動オンチの思考なのだ。
空間に対する「反応」として身体が動く。
身体を動かすことは身体(の物性)に対する意識が消えてゆくことだから、どうしても身体が勝手に動く仕組みがあるように感じられるが、その身体意識を消しているのは空間意識である。
空間意識を携えて動きはじめるから、身体(の物性)に対する意識が消えてゆくのだ。
意識が消えてゆくこともまた、意識のはたらきなのである。
われわれは、意識とともに身体を動かしていている。アメーバだって意識はある。
われわれの未来は、決定されているわけではないし、予測できるものでもない。
アメーバの身体に餌となる他の微生物が接近遭遇していることは、あらかじめ決定されていたことではない。そのときアメーバは、餌が接近遭遇していると「反応」している。
この「反応」という現象を、われわれは「意識」と呼んでいる。
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われわれの体の中に毒素が入ってくれば、体はそれを排出する。その「反応」を意識と呼べるか。
呼べなくもないが、しかしそれは、あらかじめ決定されている宇宙の仕組みだともいえる。
ただ、排出しようとするはたらきの強さの度合いは、微妙に意識のはたらきと関係している。意識のはたらきが弱っていると、排出のはたらきも弱くなる。
戦争で負傷した兵士を治療した医者によると、意識のはたらきの盛んなものは死ぬはずなのになかなか死ななかったり、逆に意識のはたらきが弱ってしまっていると、死なないはずなのにかんたんに死んでしまったりするそうだ。
そういうとき、「生命力がある」とか、「生きようとする意欲があるからかんたんに死なない」などという言い方がよくなされる。そんなことをいったって、この世界に「反応」する意識のはたらきが衰弱してしまっている人間は、どんなに「生きたい!」とか「生きさせてくれ!」とわめき散らしても、あんがいあっさりと死んでしまうものだ。
それは、生きようとする意欲の問題ではない。意識がどれだけ豊かにこの世界に「反応」しているかという問題なのだ。われわれはそれを、「ホメオスタシス(恒常性)」と呼んでいる。
では、脳死の患者がまだ生きているのはどういうことか。それは、現代の医療技術が意識のはたらきを代替しているからだろう。生命維持装置を外せば、たちまち死ぬ。
つまり、手術をすることはいったん生命維持の力を弱らせることであり、それに耐えられるかどうかという問題だ。手術のあとに脳死になるのなら、それは生き続けさせることができる。
いや、専門的なことはよくわからないのだが、手術中に死んでしまうことは、最先端の病院でも起こっている。その人のホメオスタシスの能力は、医者にもわからない。
とにかく、生き物の体が動くことは、たんなる宇宙の仕組みか。われわれは体を動かした結果として、この世界に空間があると知るのか。
じゃあ、なぜ体は動くのか。なんの理由も因果関係もなく動くのか。そうではないだろう。意識があろうとなかろうと、空間に対する「反応」として動きはじめるのだ。
床の間の壺は、この「反応」を持っていない。
身体が自分から自律的に動きはじめるということなどあり得ない。「反応」として動きはじめるのだ。それはもう、アメーバだろうと一匹の精子だろうと、そうやって動きはじめるのだ。
身体が動くということは、この世界の空間に対する「反応」なのだ。
生き物はこの「反応」というはたらきを持っているから、体の毒素を排出するということが起きる。「反応」もなしに身体=命がはたらくのなら、われわれの体の熱は上がりっぱなしだろう。ただ「勝手に動く」という仕組みでわれわれは生きていられるだろうか。
まず「反応」という現象が起きるのだ。
坂道に置かれた石ころが転がりはじめるのは、みずからの置かれた状況に対する「反応」だろう。ただ勝手に転がりはじめるのではない。
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これはもう、人生観の問題かもしれない。
自律的に生きてきた人は、自律的な動きがあると思えるのだろう。そうやって人は、人生の成功者への道を歩みもするし、鈍くさい運動オンチにもなってゆく。
まず「予測」して動きはじめるのか、「反応」して動きはじめるのか……人の生き方にはそういう流儀の違いがあるし、個人の中でもそのふたつの使い分けはなされている。
しかし、「予測する」ということ自体が、何かに対するひとつの「反応」だろう。そういう生き方・考え方をすることだって、たとえば、親にそうしつけられたとか、親を反面教師にしたとか、何かそういう原体験があるのだろう。
何もかも「予測する」とか「自律的に動く」という流儀で生きていることがそんなに楽しいのか。うまく生きてゆければ、そりゃあ楽しいだろう。しかしそれと、生きてあることを味わいつくす、すなわちこの世界に豊かに「反応」する、ということとは、また別の問題だ。
生きることは、「反応」という現象なのだ。
そうやってわれわれは、この生を味わっている。
「反応」という命のはたらきなしに生き物が生きていられるわけもないだろう。
自律的に勝手に動いてしまう身体などというものはない。アメーバや一匹の精子だって、この世界の空間に「反応」しているのだ。
機械と生き物の違いは自律的に動くシステムを持っているかどうかということにある……などという。冗談じゃない。生き物だろうと機械だろうと、さまざまな「反応」ということが組み合わさって動いているのだ。
したがって、「身体が動くことによって空間を知る」などということはあり得ない。
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人間は、「空間がある」ということを前提にした方が生きることや体を動かすことに効率がよいからひとまずそういうことにして生きている……という人がいる。
そうじゃないのだ。
効率がいいからそういう意識のはたらき方になってゆくのではない。まったく非効率な意識のはたらき方だってある。この世界に合わせてそういう意識のはたらき方をつくっているのではない。意識のはたらき方は、先験的に持たされてしまっているのだ。
この世界の生き物は、「空間がある」という前提から生きはじめるようにできている。それが効率がいいからではなく、そういうふうにしか生きられないのだ。その生き方とこの地球環境がたまたまうまく調和しているから生き残ってきただけのこと。
この世界は、そういう意識のはたらき方を持っている生き物が生き残れるようになっているだけのこと。
意識が生きるのに都合がいいようにつくられてゆくのなら、僕がバカ女に惚れてしまうということもなかっただろうし、この世に滅びる種もいないだろう。意識の根源のはたらき方は先験的に持たされてもう変えようがないから、トキやオオカミは滅びてゆくしかなかったのだ。
新しい環境になれば、古い環境に適合した種は滅びてゆくしかないし、そこで空席になったニッチに新しい環境に適合した種があらわれてくる。新しい種があらわれてくることの邪魔をしながらすでに生きられなくなっている古い種を無理やり生き延びさせることが、そんなに素晴らしいことか。
そうやって誰もが、生きそこなった自分の人生を正当化しようとしているだけじゃないか。大人は、みんなそうだ。
動機が不純なんだよ。
トキはなぜ、カラスを押しのけて人間集落の残飯あさりをするということをしなかったのだろう。
何はともあれ日本列島のトキは、トキであることの尊厳と必然性にしたがって滅びていったのだ。
根源的な空間意識は変えようがないし、根源的な空間意識がある。
生き物の意識は、空間に対する「反応」として発生し、そこから生きはじめる、そこから動きはじめる。動いてから空間を知るのではない。
「反応」という心的現象をともなわない身体の動きなどはない。
効率がよかろうと悪かろうと、生き物は「空間がある」ということを先験的に知っているから、「空間がある」という前提で空間に「反応」しているのだ。
彼らは、どうしてそんな経済効率の上に成り立った発想ばかりするのかなあ。
生き物の「進化」を経済効率で語ると、どんどんつじつまが合わなくなってゆく。
効率が悪くても、そう「反応」すればそう「動く」のであり、「反応」するから動くのだ。
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われわれの命の仕組みは、じつによくできていると同時に、じつに理不尽でもある。
マグロやカツオはなぜ死ぬまで泳ぎ続けねばならないのか。これが、効率のいい生命戦略か。イワシは、単独で泳いでいれば誰からもつかまえられない身体能力を持っているのに、なぜあんな大集団で泳ぎ続けねばならないのか。まったく、理不尽ではないか。彼らは、行き当たりばったりに「いまここ」に「反応」しながら生きてきた結果として、あんな習性になってしまったのだ、僕みたいにさ。
この生を予定調和で語られても困る。
僕のようにへまばかりして生きてきたダメ人間には、生き物が効率よく生きようとする意識のはたらきを持っているといわれても、信じられないのですよ。
人間であろうとイワシであろうと、みんな「こう生きるしかない」というものを抱えているじゃないか。
それが核兵器のせいか原発のせいかどうかは知らないが、人間はまたいつか「絶滅の危機」に遭遇するのだろう。われわれは、そういう危機を生きるのが好きな生き物なんだよね。
そういう危機を生きるのが好きな生き物だから、原発反対を叫ぶ声も大きくなってくる。
誰も、人間が、効率の悪いことや危険なことをしたがらない生き物だとは思っていないんだよね。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
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