人間の集団性が本格化してきたのは、数十万年前のネアンデルタール人のころからである。
彼らは、物理的な空間だけでなく、たがいの身体のあいだの空間に音声を投げ入れ合うという行為、すなわち「言語」を発達させることによって、さらに密集してもたがいの身体の「孤立性=完結性」を共有し確保してゆける集団性をつくっていった。
人間はたがいの身体のあいだの空間を祝福し合う文化を持ったことによって、さらに高度な集団性を身につけていった。
キャッチボールをしたりトランプや将棋をすることだって、たがいの身体のあいだの「空間」を共有し祝福し合う文化にほかならない。それが人間の関係性の本質だともいえる。貨幣だって、たがいの身体のあいだに置かれ、その「空間」共有し祝福してゆく道具として生まれてきた。
その「空間」が「ある」ということが大事なのだ。その「ある」を確かめてゆくのが生き物の根源的な空間意識であり、そういう意識がことのほか切実なのが人間である。
その「空間がある」ということを確かめることがそのまま空間のありようを計測するはたらきになっているのが、人間だけでなく生き物の普遍的な空間意識なのだ。
人は、この世界の空間が「ある」か「ない」かと問う。「ある」と認識して生きはじめる。
あなたと私の身体のあいだに「空間がある」ということを共有し祝福してゆく行為としてわれわれは、おしゃべりをしたりトランプゲームをしたりしている。
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生き物の身体は、この世界の「空間」との関係の中に置かれている。
意識は、空間意識として発生する。
われわれは、この生のはじめに、一匹の精子として発生したとしよう。
身体がぴくっと動く。
それが、空間と出会った最初の体験だ。
それは、動いてから空間に気づいたのか。
そうじゃない、空間に対する反応として身体が動いたのだ。
「反応する」という現象がなければ、生き物の身体は動かない。
われわれの身体は、母親の体から産み落とされるまで、空間に反応しながら動いてきた。そうして今でも、空間に反応しながら動いている。
はじめに「空間」がある。そのあとに身体運動が起きる。これが、生き物であることの与件である。
したがって、身体運動によって空間に気づくということは、原理的にありえない。
(意識のはたらきにおいて)身体運動が空間を生成するということもあり得ない。
1キロ歩けば、その身体運動によって1キロという「距離=空間」が生成されたことになる。しかしそれはたんなる客観的な事実であり、よほど疲れていないかぎり、そのとき身体のことなど忘れて歩いていることの方が多い。だから、その歩くという身体運動で生成されたはずの「距離=空間」に対する意識もほとんどない。
近くのコンビニに行って帰ってきたとき、意識は、家とコンビニとの距離を、歩くという身体運動によってイメージすることはできない。
歩いたことなど、歩いているときも歩いた後も忘れてしまっている。覚えているのは、歩きながら見たまわりの景色だけである。その覚えている景色の連なりによって、われわれはコンビニとの距離=空間を回想する。
つまりそのときわれわれは、それらの景色に対する「反応」として歩いていたのだ。
10メートル歩いて、10メートル歩いた、と実感することなどない。そういう無意識が根源にはたらいていることもない。
意識のはたらきについて考えるとき、大事なことは、身体運動が空間を生成することではなく、身体運動が空間を生成することの不可能性なのだ。
意識にとって身体運動は、「空間を生成する」ことではなく、「空間に反応する」ことなのだ。それはもう、われわれが一匹の精子だったときからそうやってきたことだ。
身体運動によって生成される空間などというものはない。
家とコンビニとの距離は、コンビニを思い浮かべればだいたい感じる。いいかえれば、身体運動が空間を生成しないから、そういうかたちでしかコンビニとの距離を想起できない。
われわれの意識は、コンビニを思い浮かべただけでたちまち距離=空間を感じるようなはたらきを持っている。
そのとき意識は、コンビニとの距離=空間をひとつの完結した世界として想起している。それは、目の前のコップを見てコップとの距離を感じるのと同じはたらきである。
意識はつねに「いまここ」を完結した世界としてとらえている。
目の前のコップとの距離を感じるのに、コップを取る身体運動なんか仮想しない。「いまここ」で完結したこの世界として距離を感じている。完結した世界としてとらえるから、何の手続きもなく、たちまち感じることができるのだ。
われわれは、そういう感じ方を、胎内でトレーニングしてきた。胎児にとって胎内世界は、無限の広がりを持っていると同時に完結した空間でもある。
意識にとって空間は、つねに「いまここ」で完結している。
われわれにとって生きている一瞬一瞬が、「いまここ」として完結している。
だから、コンビニから家に帰ってくれば、コンビニからワープしてきたような心地になっている。途中の身体運動なんか覚えていない。
だから人は、家を出て駅の前まで来たときなどに、家の鍵を閉めてきたかとか、ガスの元栓を閉めてきたかというようなことが気になってしまう。そういう身体運動は空間を生成しないから、記憶に残らないのである。
そのとき、ベッドから駅までワープしてきたような心地になっている。ワープしてきたが、家と駅との距離=空間ははっきり感じていて、「ここまで来て家まで戻るのはいやだなあ」と思う。
意識のはたらきにおいては、身体運動は空間を生成しない……このことが大事なのだ。身体運動は身体を忘れてしまうことだから、身体運動で空間が生成することなど感じようもない。
意識にとって世界=空間は、つねに「いまここ」で完結している。
身体運動をしながらも、身体運動のことなど忘れている。そうして、「いまここ」のこの瞬間に対する反応として身体運動が起きている。
たとえば、台所の主婦がまな板の上のネギやキュウリを刻むとき、身体運動なんか意識していない。それでも素早く規則正しく包丁を動かせるのは、瞬間瞬間の「いまここ」が完結しているからである。
ピアニストがどんなに猛スピードで指を動かしても、その一音一音は完結した世界として表現されている。そのときピアニストは、頭の中の音(=空間)のイメージに反応しながら指を動かしている。べつに、指の動き(身体運動)を仮想(予測)しているわけではない。「予測」するのではなく、「反応」しているのだ。
瞬間瞬間が完結していること、そしてその完結した世界=空間に反応してゆくことによって身体運動が成り立っている。つまり、このことが家事や音楽の名人芸を生み出す人間の可能性であり、「生きられる意識」のかたちなのだ。
身体運動は空間を生成しない。はじめに空間があり、その空間を瞬間瞬間そのつど完結した世界として反応してゆくことこそ人間の可能性であり、「生きられる意識」なのだ。
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根源的な意識にとっての身体の輪郭は、現実の身体の輪郭の外側であると同時に、身体と接する現実の空間の内側でもあるところの「非存在の空間」で認識されている。その「非存在」の身体の輪郭は、無限の広がりを持っていると同時に、いっさいの現実から孤立し完結している。
意識は、「いまここ」の空間を完結した世界として認識するはたらきを持っている。
意識にとっては、その「いまここ」すら、過去と未来の境界であるところの完結した「非存在」の瞬間なのだ。意識は、そういう「非存在」の「いまここ」を、孤立し完結した瞬間としてとらえるはたらきを持っているから、家事やピアニストの名人芸が生まれてくる。
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生まれたばかりの一匹の精子が動き出そうとする瞬間、身体と外界とのあいだに「非存在」の輪郭が発生する。同時に、この輪郭によって、身体の孤立性が発生する。つまり、身体が身体になった瞬間である。この「輪郭」がなければ、身体は身体ですらない。身体が身体であるためには、外界との境界=輪郭を持っていなければならない。
外界と一体化していれば、動き出す契機は発生しない。境界=輪郭が生まれて、孤立した存在であることの居心地の悪さ(のようなもの)が生まれ、それが動き出す契機になる。つまり、身体独自のはたらきが生まれる。外界から切り離された瞬間。外界から切り離される、というかたちで身体は動きはじめるのではないだろうか。
一匹の精子の身体のはじまりは、外界(環境)に溶けているものであったはずだ。それがあるとき外界(環境)から切り離されて、身体になり、動きはじめるのではないだろうか。
すべての生き物は、最初は外界(環境)に溶けているものであったはずだ。その状態から切り離されて身体になったのだから、先験的な外界=空間との関係を持っていないはずがない。
意識があろうとなかろうと、生き物は、存在の根源において、すでに「空間」との関係を持っている。
切り離された瞬間、空間との関係が発生する。
何はともあれ身体はもともと外界=空間そのものだったのだから、身体とは根源において「空間」であると意識するほかない対象であるのかもしれない。
そして外界から切り離されるという原体験は、やがて意識が身体の「孤立性=完結性」としてはたらくようになってゆく根拠になり得るのではないだろうか。その「孤立性=完結性」が、「非存在の輪郭」をイメージさせるのかもしれない。
つまり、われわれの身体意識や空間意識は、生きるのに都合がいいようにつくられてきたものではなく、その発生から現在に至る過程において、避けがたくそうなるほかない必然性とともに形成されてきたのではないだろうか。
この世界はそういう身体意識や空間意識を持った生き物が生き残れるようになっているだけのことであって、生きるのに都合がいいように自分の意識のはたらき方をつくってゆくということなどできるはずがない。
生きるのに都合がいいから、「はじめに空間がある」と思うのではない。われわれは、生き物としてそう思うほかないような過程で一匹の精子から人間という生き物になってきたのだ。
生き物に、生き延びようとする本能などはたらいていない。たまたまわれわれ現在の生き物が生きられる環境に置かれてあるというだけのこと。
われわれは、この意識で生きるしかない。違う環境になったら、またそれに合わせて意識のはたらき方をつくり替えてゆくということなどできない。そうなればその環境に適合した生き物があらわれてくるのであり、われわれはもう滅びてゆくしかないのだ。
「はじめに空間がある」と思うのはただの直感であり生きるためのたんなる思い込みにすぎない、はじめに身体運動がある……だってさ。そんないい方をされると、むかむかする。
人間の脳神経は、他者の身体運動を模倣し合うのではない、身体の空間とのかかわり方を模倣し合うのだ。身体を動かすことは身体が空間に溶けてゆくことだから、人間においては、原理的に身体運動を模倣することは不可能なのだ、このことはラカンの「鏡像段階」批判として先に書いたのだが、「はじめに空間がある」というかたちで発生してきた生き物としてはもう、そういうかたちの共鳴=連携の仕方しかできないのだし、人間はことにそういう空間意識が切実で、だから猿にはできない高度な連携プレーができる。
人と一緒に歩くことは、歩くという「身体運動」を響かせ合っていることではなく、たがいに身体のことを忘れて、景色をめでたり言葉を交わし合ったり、そういう「空間とのかかわり」を共有してゆく行為にほかならない。つまり、身体を響かせ合っているのではなく、身体を消し合っているのだ。
一緒に歩いていて「あのサクラきれいだね」と語り合うことは、意識においてたがいの身体が消えている瞬間なのだ。
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ほんとうは「貨幣の発生」について書こうと思ったのだが、どんどん横道にそれてしまった。
お金は、われわれを生きやすくするものであると同時に生きにくくしている元凶でもある。人間はなぜかくもそれにこだわってしまうのか。それは人と人のあいだの「空間」を止揚するアイテムだからだ……というようなことを書きたかったのだが。
とにかく、「身体運動」よりも「空間がある」ということの方が先験的なのだ。だからわれわれは、お金に執着し、お金にわずらわされて生きてゆかねばならない。
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