このブログでは前回、われわれは「身体は勝手に動く」という直感を持ってしまいがちだがそれは違う、と書いた。
そして、意識が発生することも身体が動くことも「空間がある」ということが前提になっている、といったのだが、それは「直感」以前の問題だ。
「空間がある」ということは意識のはたらきの前提である、といったのだ。
僕は、「空間の中にわれわれの身体がある」などとはいっていない。「この身体の中に空間がある」といっているのだ。そしてこの空間意識は、宇宙でさえ「この身体において完結している」という無限の広がりを持っている、といったのだ。
しかし、そうではない、という人もいる。
根源的な意識においては、最初に空間があるのではなく、身体運動によって空間が生成しているんだってさ。
ばかばかしい。
たとえば、京都の疎水べりの「哲学の道」を「1キロ」散歩するとしよう。
いい景色だった。歩き終えてわれわれは、身体運動が生成したはずの「1キロ」の空間=距離を実感しているかといえば、そんなことはほとんど忘れている。いくつかの景色の記憶が残っているだけである。哲学者が哲学の思索に夢中になっていたのなら、景色の記憶すらあいまいだろう。
意識の根源においては、その1キロを歩いた身体のことは忘れられている。身体を意識しないでここまで歩いてきたのだ。
であればそのとき、ただもう、あちらからこちらにワープしてきたような感触があるだけだろう。
ちょいと近所のスーパーやコンビニに行って帰ってきたときだって、その「歩く」という身体運動なんか記憶していない。これが、根源的な身体運動に対する意識だ。
人間にとって(気持ちよく)「歩く」ことは身体を忘れてしまう行為だから、意識において、歩いたという身体運動による距離=空間は生成しないのである。
「1キロを移動した」という感触はある。しかしその「身体運動」が1キロを生成したということは観念でわかるだけであって、無意識どころか表層的な実感ですらない。
このときわれわれは、この「1キロ」を、「身体運動」で認識しているのではない。「いまここ」の実在感と、すでに記憶になってしまった歩きはじめたときの「いまここ」の実在感の薄さとの差異として感じているだけである。あるいは、その途中の景色の記憶のいくつかをたぐり寄せながらなんとなくその距離を感じているだけである。
ラソンランナーの身体運動が距離=空間を生成すると自覚するなら、二度とマラソンなんかするものかと思うことだろう。ゴールしたランナーは、身体運動が生成したその気が遠くなるような距離=空間のことなど忘れて、スタート地点からここにワープしてきたという心地を覚えるのだ。その「ときめき」が忘れられなくてまた走ろうと思う。
意識の根源を問おうとするなら、この「ときめき」こそ問題にされなければならない。そのとき意識の根源の作用としては、その42・195キロは、みずからの身体の内側の輪郭をなぞるようなタッチで実感されているのだ。
「他者の身体と運動共鳴する」ということだって、ちゃんちゃらおかしいのだ。
だから僕は、原初の人類は、誰もが自分勝手に二本の足で立ち上がっていった、といったのだ。人間の身体的な快楽は、そういう身体(が消えてゆくこと)の「孤立性=完結性」にあるのであって、身体の物性をまさぐる「運動共鳴」にあるのではない。
「身体運動によって空間が生成する」だなんて、そんなものは根源的な意識のはたらきでもなんでもなく、ただの算数のお勉強の問題なのですよ。鈍くさい運動オンチのただの観念的なゲームにすぎない。
空間は、生成しない。あらかじめ存在するのだ。「生成」といえば聞こえはいいが、ようするに人間は空間を「生産(=労働)」しているという、いかにも資本主義的な「下部構造決定論」の思考にすぎない。
もしも「あのブログ」とこのブログを読み比べている方がおられるならと思って、ひとまず書いてみました。このブログはくだらない、と思われるのなら、さっさと見限っていただいてけっこうです。
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話題を変えよう。
貨幣というものが現代人の思考に大きな影響を及ぼしているのは確かなことだろう。
僕はお金の話をするのが苦手だが、お金のことと無縁に生きているわけではないし、避けがたく毎日何かしら考えている。
しかしいまどきの大人たちは、50年前の大人たちよりずっと平気で金の話をするようになっているような気がするし、子供だって当たり前のようにそんな話をする世の中になっている。
むかしの人の方が外見はずっとオヤジくさくもオバサンくさくもジジくさくもババくさくもあったのだろうが、人と人の関係はいまよりもっと無邪気だった。今の人間の方が大人ぶって金の話ばかりしている。
金の話をするのも鬱陶しいが、その想像力のない話題も口ぶりも、鬱陶しいだけじゃなく、なんだかみすぼらしい。恰好だけは若いが、いうことがジジくさくババくさくオヤジくさくオバサンくさい。
「自分はこのままじゃいけない」と思って生きているのが若者だとすれば、人は、金を稼げるようになると、その気持ちをさっさと放棄してしまう。僕にも覚えがあるが、その気持ちを「これでいいんだ」という方向にシフトして、自己正当化ばかりするようになってゆく。
貨幣には、そういう魔力があるのかもしれない。
子供までオヤジくさくオバサンくさくさせてしまう。
そうして現代の知識人たちの社会学も進化論も人類学も、この世界は「金=経済」で動いている、と言いたげなマルクス的「下部構造決定論」の思考にどっぷり浸ってしまっている。世の中全体がそういう思考になってしまっているらしい。
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前々回のこのブログでは、「イワシが大きな群れをつくって回遊する習性になった契機は、餌の問題でも種族維持の本能でもない、すなわち「経済」の問題ではない、と書いた。こんなことをいってもいまの世の中では通用しないということはわかっているが、僕自身の人生の問題として、「下部構造(経済)決定論」で思考する歴史はもうそろそろ清算するべきだ、と考えている。そんなパラダイムで進化論や人類学を考えてもつじつまが合わないことばかり出てくる。それで金の世の中や社会学は成り立つのかもしれないが、歴史の真実には届かない。
誰かが、金の世の中になったのは戦後のここ数十年だけの話だ、といっていたけど、まったくその通りかもしれない。
むかしの人はそんな「下部構造(経済)決定論」にどっぷりつかった思考はしなかったし、おまえらみたいにジジくさくもババくさくもなかったし、大人という人種であることを正当化して若者の行く手をむやみに阻止しにかかるということもしなかった。
「世の中はこれじゃあいけない」とえらそげにいうばかりで、「自分はこれじゃあいけない」という思考がないんだよね。
とりあえず大人たちが「下部構造(経済)決定論」の思考に凝り固まって「自分はこれじゃあいけない」という思いを放棄しているかぎり、若者の行く手はますます険しくなるばかりだろう。
人は僕のことを「おまえは若者が好きなんだなあ」という。そうじゃないんだよ。大人が嫌いなだけだ。
つまり彼らは、僕を若者が好きなことにして自分たちが嫌われていないことにしたいらしいが、そうはいかない。彼らのその「いい社会をつくる」という発想自体が気にくわない。そんなことは「自分はこのままでいい」というおまえらが考えることじゃない。そんなおまえらが考えても、おまえらの都合のいい世の中になるだけじゃないか。
おまえらは、もうすぐ死ぬんだぞ。絶滅危惧種なんだぞ。絶滅危惧種のニッチを確保して新しく成長してくる種のニッチをふさいでしまっていいのか。
エコロジー」とか「生物多様性」とかいったって、おまえらのその厚かましい自己正当化の根性が見え見えなんだよ。
むかしの大人は、生き物の自然として、もっとスムーズに「ニッチを明け渡す」ということをしていた。
大人だけじゃない。この地球上の絶滅危惧種を保護することが正しいかどうかはわからない。
僕自身は、「保護」を叫ぶことより、滅びてゆくことに対する敬意を持つことの方がもっと大事ではないかと思っている。それが、老人介護の原点でもあるのだろうし。
新しい社会は、「自分はこのままじゃいけない」と焦っている若者に託した方がまだましな展望が開ける。
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生き物が棲み分けしたりしてそれぞれが自分の「空間」を持っていることを「ニッチ」というのだが、これだって食料確保という以前に、自分の棲む環境を「完結した世界」として認識してしまう空間意識の問題だろう。
イワナとヤマメは、同じように川の冷水域に棲み食性も似ているが、ちゃんと棲み分けている。彼らが棲み分けているのは、餌のためでも体質のためでもない。ただもう、ともに自分のテリトリーに自足し、「世界の完結性」を意識しているからだろう。それ以外の理由は見当たらない。
彼らはどのように自分は「イワナだ」「ヤマメだ」と自覚しているのか。
イワナは、イワナと一緒に暮らして育ってきたからだ。自分の姿を知っているわけではない。
だから、イワナの生息域にヤマメの稚魚を放流すれば、混血種があらわれてくる。彼らにとっては、「一緒に暮らして育ってきた」ということが種の自覚であり、生物学的な種の意識はない。
もともと同じ種だったのが、棲み分けているうちに、身体の形質に微妙な違いがでてきたのだろう。
彼らは、それほど広い地域をうろつきまわることはしない。それで自然に二つの生息域ができていったのだろう。
イワナとヤマメには、相手のテリトリーに進出してゆこうとする意欲はないらしい。それほどに自分のテリトリーに自足し、完結しているという意識を持っている。
それは、生物学的な種の自覚ではない。この生は「いまここ」で完結している、という空間意識なのだ。
そしてどうしてそういう意識を持つかといえば、卵の中という「無限で完結した世界」を体験してきたからだろう。生き物のテリトリー意識は、根源的にはそこから発している。
生き物の種は、どんどん分かれて進化してゆく。それは、みずからの環境に「世界の完結性」を意識してしまうからだ。
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数十万年前の地球で、ヨーロッパのネアンデルタール人とアフリカのホモ・サピエンスに分かれていったのも、まあこのような経過だったのだろう。彼らは、イワナとヤマメのように棲み分けて数十万年のあいだ、たがいに相手のテリトリーに進出してゆこうとしなかった。そのようにして、両者はかなり違う形質になっていった。
生き物の自然として考えるなら、それは、4万年前にアフリカのホモ・サピエンスが大挙してヨーロッパに移住していったということもあり得ないということだ。
アフリカのホモ・サピエンスは、ネアンデルタールよりももっとみずからの環境に自足している人種だった。彼らもまたアフリカのサバンナを「完結した世界」として暮らしていたにちがいないし、ピグミー族やマサイ族など、今だってそうやって暮らしている原住民がたくさんいる。
置換説の研究者たちのいう「アフリカのホモ・サピエンスが大挙してヨーロッパに移住していった」という説だって、ようするに「身体運動によって空間が生成する」というのとおなじ思考なのだ。どいつもこいつも、そんな、現在のグローバル資本主義に毒されたような発想ばかりしている。つまりさ、人間の活動領域は、イワナやヤマメと違ってどんどん広がってゆくのが自然なのだ、と彼らはいっているわけですよ。
狭い町や村の固有の文化なんかどんどん壊してゆけばいい、壊してゆくのが人間の自然であり人間の「生きられる意識」だ、といっているわけですよ。
貨幣は、その身体運動によって空間を生成し、グローバル化してゆく……これが人間の自然であり歴史の必然なのだ、と彼らはいっているわけですよ。
とすれば、僕がいま考えている「身体空間の<孤立性=完結性>」ということは、まったく逆向きの発想だということになる。いったいどちらが人間の、そして生き物の自然なのか。
「身体運動によって空間が生成する」といっているかぎり、グローバル資本主義もわが世の春だ。
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金の世の中になってしまったから、そういう考え方がはびこる。
バブルのころに40歳代で社会人としての絶頂期を過ごした団塊世代の周囲や、そのころに青春真っただ中だったアラフォー世代は、どうしてもそうした「下部構造決定論」的な思考から抜け出せない。
僕としては、彼らに対して気に入らないことはいくらでもある。
彼らの消費意欲がいまだに盛んなことは、とりあえず問うまい。しかし彼らと共闘する知識人たちの、人と人の連帯や共生関係を広げてゆこうとする「ネットワーク論」や「コミュニケーション論」はもう行き詰ってきている。その論理は、かんたんに現在のグローバル資本主義の論理に回収されてしまう。
というか、彼らは、現代社会に反抗しているように見えて、しっかり寄生しているのだ。
その「ネットワーク論」や「コミュニケーション論」という名の「連帯=共生論」は、けっきょく現在の高度資本主義と結託する「下部構造決定論」でしかない。
そうだ、現代人は、貨幣に対する信仰によって連帯し共生している。連帯し共生することが、人と人の関係の本質だと思っている。
「身体の運動共鳴」ということだって同じ、ようするにみんな「連帯」したいのだろう
団塊世代やアラフォー世代のダンスパーティみたいにさ、その「運動共鳴」が理想の人間関係のつもりなんだろう。しかしそれによっては、「仲良くする」ことはできても、他者に「ときめく」ということは起きてこない。
そんなところに空間意識の根源のかたちがあるわけでもないし、人と人の関係の根源があるわけでもない。
彼らを批判し尽くすことはかんたんじゃないし、いいたいことはいくらでもあるのだけれど、とりあえず、なんだか知らないが、団塊世代だけでなく40代のバブル世代だって「連帯=共生」という言葉が好きなんだってね。そんな言葉でこの社会の新しい展望を切り拓くんだってさ。
何言ってるんだか……。
こっちは、人間の集団性の根源のかたちとして身体の「孤立性=完結性」の問題に分け入ろうとしているときにさ、「ネットワーク」だとか「コミュニケーション」だとか「身体の運動共鳴」だとか、うんざりなんだよね。
こっちはもう、さびしく置いてけぼりですよ。
でも、団塊ジュニア以後の現代の若者たちは、この身体の「孤立性=完結性」の地平に立って他者との関係を模索し始めていると僕としては思うわけですよ。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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