人間は身体の「孤立性=完結性」をことのほか切実に持っている。これが直立二足歩行の起源において獲得された空間意識だ。
そしてその「孤立性=完結性」は、集団の中ではじめて確認される。人間はそれを確認したいからこそ、それが確認できるかどうかの限界まで集団を大きくしてしまう。そして限界になっても、言葉や法律や貨幣やトランプゲームなどの「文化」を生み出してその限界を克服してゆこうとする。
身体の「孤立性=完結性」の危機を生きようとするのが人間だ。なぜならそこにおいてこそ、もっとも豊かで深い「孤立性=完結性」を汲み上げることができるからだ。いや、イワシの群れだって、そのようにして際限もなく大きくなってきたのだ。
動物はみな、テリトリーの意識が強い。これだって、おそらく身体の「孤立性=完結性」から生まれてくる意識なのだろう。
つまりそのとき動物は、テリトリーの輪郭をみずからの身体の輪郭として描いている。
生き物における身体の輪郭に対する意識は、そのような広がりを持ちつつ完結している。それは、生き物にとっての身体の輪郭が、「非存在の空間のパースペクティブ」として認識されているからだ。
その身体の輪郭は、身体の外側であると同時に身体と接する外界の内側でもあるところの「異次元=非存在」の空間に描かれており、そういうかたちで完結していると同時に無限の広がりを持っている。
「身体の外側で外界の内側」という場所は、あり得るだろうか。現実にはあり得ない。現実には、身体の外側は外界であり、外界の内側は身体なのだからあるはずがない。そのあるはずがない非現実の境界だからこそ、「絶対」なのだ。その境界は、1ミリたりとも変更できない。そういう「絶対という完結性」の意識を生き物は持っている。
生き物は、そういう「絶対という完結性」で世界を描く。
猿や犬やライオンは、その「絶対という完結性」を持った世界としてテリトリーを描いているが、人間やイワシはそれをみずからの身体として描いている。
チンパンジーは、隣接する二つの群れのテリトリーの境界に、どちらも自分たちのテリトリーだと主張して譲らない「オーバーラップゾーン」という重なり合った地帯がある。そこではよく殺し合いが起きる。それほどにチンパンジーテリトリー意識は強い。どちらも妥協しない。だから、知能が高くても大きな群れを持つことができない。
人間なら、そうなったらひとつの群れになってしまう。
チンパンジーの仲間であったはずの原初の人類は、そんなテリトリー意識を放棄し、みずからの身体を絶対的なテリトリーとして描くことによって二本の足で立ち上がっていった。
人類は、「身体」という最小限の世界で「絶対という完結性」を持つことによって、無際限に膨張した群れを持つことが可能になっていった。それはきっと、イワシの場合だって同じだろう。
テリトリー意識の強い猿や犬やライオンは、人間ほどには絶対的な「身体の輪郭」の意識は持っていない。それはつまり、人間ほどには他者の身体とのあいだの空間に対する切実さは持っていないということだ。
しかしイワシは、人間に匹敵できるかそれ以上の切実さを持っている。
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他者の身体とのあいだの「空間」を共有し確保してゆこうとする意識が、人間もイワシもことのほか切実である。
だから原初の人類は、テリトリーに対する意識もそうした身体意識=空間意識を延長し、チンパンジーとは逆に、他の群れのテリトリーとのあいだにも、どちらのテリトリーでもない空間(=緩衝地帯)をつくらないと落ち着けなかったというか、みずからのテリトリーの「孤立性=完結性」を確認できなかった。まあ、チンパンジーに対抗できない弱い猿であったということもある。
原初の人類は、「オーバーラップゾーン」をつくるどころか、隣接することすらできなかった。そういう習性を持っていたから、どんどん拡散してアフリカの外に出てゆき、とうとう地球の隅々まで住み着いてゆくことになった。
しかし現在の地球上の人類のテリトリー(=国家)は、チンパンジー並みかあるいはそれ以上に熾烈なテリトリー争いをしている。
人と人の関係だって、支配や教育や家族関係など、「共生」とか「コミュニケーション」というような美名のもとに極めて不自然な干渉し合う関係をつくっている。
近代以前の町や村は、たがいに「空間=緩衝地帯」をつくって、それぞれが「孤立性=完結性」を守りながら独自の文化をつくっていた。
日本列島は山が多い。山は、村と村の「空間=緩衝地帯」であり、神や魔物が棲む場所であり、共同体の掟から逃れたものたちが暮らすところでもあった。山が信仰の対象になっていったのは、そのようにして村の「孤立性=完結性」を約束してくれる場所だったからだ。
人間は、最小限の身体という空間で完結していると同時に、無際限に大きな集団をつくることもできる。この二律背反の中に、人間的なストレスも快楽もある。
人と人は、身体の「孤立性=完結性」を確保し共有してゆく行為として、たがいの身体のあいだの「空間」をつくって祝福し合おうとする。
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今や人間は、地球規模の集団意識を持つようになってきている。「世界平和」だとか「グローバル資本主義」とか「地球を守れ」とか、そんな言葉が世界中で飛び交うようになった。
その原動力になったのが「貨幣」だろう。
言葉は、まだまだ地域ごとに完結している要素を持っている。
やっぱり「貨幣」だ。円だろうとドルだろうとユーロだろうと、お金さえ持っていれば世界中を旅することができる。
未開人の貝殻の貨幣ではちょっと無理かもしれないが、ひとまず世界中の人間が貨幣に対する信頼と信仰を共有している。
お金で人生が豊かになったり、人生を滅ぼしたり、そういう世の中だから、人間は経済の問題で動いているかのような考え方をするようになってきた。
「種族維持の本能」とか「個体維持の本能」ということ自体が、すでに「経済=下部構造決定論」の発想だ。
生き物に、そんな本能があるものか。
生き物は、滅びたくないのではない。滅びるか滅びないかのぎりぎりのところに立とうとする傾向を持っている。だから「生物多様性」ということが成り立つ。生き物は、みんながぎりぎりのところで生きている。滅びるのがいやだったら、そんなところには立たない。
生き物にとって身体の物性を忘れて生きているのがいちばん快適な状態なのだから、身体の物性を消してしまおうとする衝動を持っている。つまりそれは、滅びてゆこうとする衝動だ。
滅びてゆこうとすることが生きるいとなみになっている。だから、避けがたくぎりぎりのところに立ってしまう。そうやって、生物多様性が成り立っている。
生き物には、「滅びるまい」とする本能なんかそなわっていない。
生物多様性ということを考えるなら、ただ絶滅危惧種を保護すればそれでいいというようなものではない。
エコロジーだなんだと叫んでも、彼らの考えることや心が清らかだとは、僕はぜんぜん思わない。頭の中が金の世の中に毒されているからそういう発想をするのであり、「保護する」ということ自体が「経済」という物差しの思考にすぎない。
どうして「生き延びる」ということを価値にできるのか。滅びようとすることが生きるいとなみであり、「生きられる意識」なのだ。
人間はもともと、滅びてゆくことに敬意を持っている存在なのだ。それが人間であることの自然であり、だから「死んだら仏になる」というし、そういう心情から人類史における葬送儀礼がはじまった。
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いったい人間はいつから、そんな経済的な物差しでしか発想できないようになってしまったのか。
まあ僕としては、それが近代社会の大きな過ちだと思っている。
「貨幣」というのは、もともとそんなものではなかったはずだ。つまり現代社会はひとまず、「労働」によって「貨幣」を得る、というシステムというか合意の上に成り立っている。
しかし「貨幣」はもともと「遊び」の道具だったのではないだろうか。
原始人は、小さな貝殻が好きだった。7万年前ごろには、すでにそれらをつなげて首飾りをつくっていた。
その習慣はアフリカのホモ・サピエンスからはじまったといわれていたのだが、ヨーロッパのネアンデルタールもそんなものをつくっていたことが最近わかったらしい。
どちらが先かということは、この際どうでもいい。
とにかく、原始人はみな小さな貝殻が好きだったのだ。
川の貝殻は薄くて壊れやすいし、あまり光沢もない。
海の貝殻の方が厚みがあって丈夫で、虹のような光沢を持っていたりする。
ネアンデルタールは主に山間地で暮らしていたから、海の貝殻は貴重だった。
海の貝殻が手に入りにくかったから、象牙でビーズの玉をつくることなども考えだされていった。
おそらく、美しい光沢を放つ小さな海の貝殻は、貴重品のような価値を持っていたのだろう。
首飾りの起源はともかく、貨幣の起源がアフリカにあるということはあるまい。古代文明が生まれてきたヨーロッパから中近東にかけての「コーカソイド」と呼ばれる人種のところからはじまったにちがいない。
だとすれば、ネアンデルタールにとって小さな海の貝殻は貴重品だったということがその源流になっているのかもしれない、と考えられなくもない。
もしも最初の貨幣が小さな海の貝殻だったとすれば、それは海の貝殻が手に入りにくい内陸の地から生まれてきたことになる。
中国の都市も最初は内陸地にあったから、やはり海の貝殻が貨幣になったといわれている。
貝殻の首飾りはそれが手に入りやすい海辺の地域から生まれてきたのだろうが、それが貨幣になるためには、手に入りにくい地域でなければならない。
山間地で暮らすネアンデルタールがはじめて海の貝殻を手にしたときのときめき、それが、大きな意味での貨幣の起源だったのかもしれない。
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一般的には、貨幣は物々交換に代わるものとして生まれてきた、といわれている。
しかし、どうして物々交換が先だといえるのか。
リンゴ10個とカツオ一匹が同じ価値だということは、「貨幣」という概念というか価値意識を持っていないと決められないのではないだろうか。
物々交換というのは、あんがい新しい形式ではないかと思える。
海の民にとってリンゴは、もらえばうれしいけど、どうしても必要なものではない。山の民にとってのカツオも、同じだ。
集落と集落が女を交換するというのとはわけが違う。
最初は、贈り物をする、という形式があっただけではないのか。
原始人は、贈り物をする習慣はあっても、物々交換(=交易)はしていなかったのではないだろうか。
隣の集落に嫁に行くのに家畜1頭を連れてゆく、というのはけっこう原始的な行為にちがいない。
海の貝殻だって、一宿一飯の恩義か何か知らないが、とにかく贈り物として山の民にもたらされたのだろう。
原始人が物々交換をしていた、とかんたんにいってもらっては困る。
それは、貨幣の発生以後に生まれてきた行為ではないだろうか。
原始集落は、基本的には自給自足である。物々交換が生まれてくる必然性はない。しかし、贈り物はしていただろう。
人間の集落と集落のあいだには、猿のテリトリーと違って、どちらのテリトリーでもない緩衝地帯がある。これは、たがいに自給自足をしていなければ成り立たない。
しかし、猿の時代からずっと女を交換するという行為だけはしてきたから、集落どうしの付き合いはあった。
隣の集落の祭りに贈り物を持って参加しにゆくとか、そういうことはあったにちがいない。
物々交換ではない。「贈り物」をするのが原始人の流儀だったのではないだろうか。
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とにかく海の貝殻は、海の民からの贈り物としてもたらされた。
あるとき海の民と山の民がどこかで出会った。海の民が、「これあげるよ」といって海の貝殻の首飾りを差し出した。
そして山の民は、その貝殻を見てときめいた。これがおそらく、貨幣の起源だ。
貝殻なんか、生きてゆくためにはなんの必要もないが、それでも彼らは大切にコレクションしていった。
あるいは、訪問者である海の民と、主人である山の民が向き合って座る。
海の民は、山の民の前に貝殻を差し出す。
山の民はそれを取り上げて、にっこりほほ笑む。
ひとまずそれは、贈り物を差し出すという行為としてはじまった。
たがいの身体のあいだの「空間」に差し出す、という行為。これは、言葉を発するのと同じ行為である。
この「空間」に対する意識が人間はことのほか切実だから、「贈り物を差し出す」という行為が生まれてきた。
それは、たがいの身体のあいだの「空間」を祝福する行為である。
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人間は、キラキラ光るものが好きなのだ。
きらきら光る、という現象は、その物質の表面の上の「空間」で起きているように見える。それは、その物質の輪郭の外側であると同時に輪郭と接する外界の内側の「非存在」の空間で起きている。それは、人間にとっての「非存在の身体の輪郭」と同じである。そういう無意識の身体意識=空間意識が、キラキラ光るものに惹きつけられている。
だから「金」が世界の貨幣の普遍的な基礎になっているのだが、冠婚葬祭には金のネックレスよりも真珠のネックレスが優先されているのは、それが身体の実存にかかわる行為だからだ。どんなに金がキラキラ輝いても、真珠の光沢の「非存在性」は、さらに深く人間の身体意識=空間意識に訴えてくる何かがある。
つまり、海の貝殻の光沢は、真珠ほどではないにせよ、人間の無意識としての身体意識=空間意識に訴えてくる何かがあるのだろう。
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真珠は、貝殻の貨幣の究極の存在である。
まあ原始時代においては、その小さな海の貝殻が、言葉よりももっと具体的な、たがいの身体のあいだの「空間」を祝福するアイテムになっていったのだ。
長い年月がたてば、山の民でも誰もが海の貝殻を所有するようになっていった。それほどに誰もが海の貝殻を大切にしていた。
そうして、山の民どうしでも贈り物に海の貝殻を差し出すようになっていった。
ネアンデルタールの遺跡でも、海から100キロ以上離れた内陸で海の貝殻が出てきたりする。研究者たちはこれを、ネアンデルタールの行動範囲のように解釈している。つまり、それくらい離れた地域どうしで交易をしていたという解釈になっているのだが、これは少し違うだろう。
どこの集落でも「贈り物」として習慣的に使われていたのだろう。山の民にとっては、それほどにうれしい贈り物だった。そしてそれほどに贈り物をすることが好きで習慣化していたということだ。
貝殻をもらったお礼に酒を差し出した。あるいは、酒をもらったお礼に貝殻を差し出した。こうなればもう、貝殻の貨幣で酒を買ったのと同じである。しかしこれを「交換」という経済の概念で解釈されたら困る。あくまでも純粋で一方的な「贈り物」だったのだ。
そのとき、貝殻と酒が等価だという意識があったのではない。あくまでも、たがいの身体のあいだの「空間」を祝福せずにいられない心の動きがあったのだ。
原始時代には経済的な行為としての交易=物々交換などなく、贈り物をする習慣しかなかった。だが、貨幣の基礎となるかたちはそのときすでに芽生えていた。
日本列島の縄文時代でも、富山県でとれるヒスイの玉が秋田県の遺跡で発見されたりしているが、それは、研究者のいうようにこの二つの地域で交易をしていたというのではなく、ヒスイの玉が贈り物のアイテムとして列島中で習慣化していた、ということを物語っているのだ。
かんたんに「交易していた」といってしまうと誤る。
大事なことは、たがいの身体のあいだの「空間」を祝福してゆく行為としての贈り物をする習慣はすでに原始時代からはじまっていたということであり、それが貨幣の起源でもある、ということだ。
それはべつに経済的な行為ではなく、人間の切実で豊かな身体意識=空間意識から生まれてきた「遊び」だった。
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