ネアンデルタール人クロマニヨン人も、交易(=物々交換)などしていなかった。
物々交換などという行為は、氷河期が明け、共同体が生まれて人々の意識が変わり、それからの話ではないだろうか。
「交換」という行為自体が、けっしてかんたんではない。猿にはできない。
物と物を交換するより貨幣と物を交換する方がずっと簡単だろう。人類は、貨幣を持ったから「交換」という行為ができるようになっていったのではないだろうか。
貨幣の起源となる「貝殻を珍重する」という習俗は、物々交換よりもずっと前からあった。おそらくネアンデルタール人の時代からあった。
ただそれは、「交換」のための道具ではなく、「贈り物」として流通していたのだ。
「交換」の前段階として「贈り物をする」という習俗が生まれた。これも、猿にはできない。そして、誰もが共有する価値を持った「小さなもの」が見出されていった。それを基準(=貨幣)にして「交換」がはじまり、そののちの「物々交換」が生まれてきた。
価値という言葉はあまり好きではないが、貝殻そのものに価値があった。現在の紙幣のように、たんなる価値を計量する単位として貝殻を使ったのではない。
紙幣などはそれ自体に何の価値もないが、昔の金貨や銀貨は、それ自体に価値があった。
であれば、貨幣の起源を問うことは、人々がなぜ貝殻に価値を見出していったかと問うことにある。
なぜ「交換」をはじめたのか、という問題ではない。それは、きわめて現代的な行為であり、原始時代にはなかったのだ。
起源としての貨幣=貝殻は、「贈り物」であった。「交換」のための道具ではなかった。
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心理学者の岸田秀氏は、「自我」の問題として貨幣の起源を語っておられる。
たがいの「自我」を満足させる行為として「交換」がはじまり、やがてその行為を代替するものとして貨幣が登場してきたのだとか。
物々交換の起源としては、まあそんなところだろう。しかしそんなことが原始時代に行われていたわけではない。そして、起源としての貝殻の「貨幣(のようなもの)」は、物々交換がはじまるさらに数万年前から、「贈り物」として原始人のあいだに流通していたのだ。
岸田氏のいわれる「自我」は、共同体の発生以後に形成されてきたたんなる観念にすぎない。
「自我」は、人間の普遍的な「実存意識」ではない。
原始人にそんな自我意識などなかった。それは、「自分はこの世に存在する」という意識とはまた別のものだ。彼らには自分がこの世に存在することの嘆きや喜びはあっただろうが、「これは俺のものだ」という自我=所有意識はほとんどなかった。
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少なくともネアンデルタール人の社会では、男女の関係はフリーセックスだったし、子供はみんなで育てていたし、家族という単位などなく、食い物もみんなで分け合って暮らしていた。
もしも彼らがひとりひとり貝殻を持っていたとしても、それは、「いまここの自分の目の前にあるもの」という意識だったのであって、「自分のもの=所有」という意識ではなかった。
それは、知能が劣っていたからではない。それほどに「実存」とか「この世に存在する」という意識が切実だったからだ。
彼らは、女(男)に対しても子供に対しても食い物に対しても、「自分のもの」という意識が希薄だった。
だから、よろこんで「贈り物」をした。しかしそれが、相手の所有になることを目的としていたのではない。自分の所有という意識がないのだから、相手の所有という意識も起きてくるはずがない。
それは、あくまでおたがいの身体のあいだの「空間」を祝福する行為として、すなわちその「出会いのときめき」を表現する行為として、そうせずにいられなかったのだ。
たがいの身体のあいだの「空間」に大好きなものを置いて祝福してゆくという行為のアイテムとして、貝殻の貨幣(のようなもの)が大切に扱われていた。
その貝殻に対するときめきを相手にも味わってもらいたかったのであり、そのときめきを共有したかったのだ。
彼らは、あなたと私が出会って「いまここ」に存在している、ということに対するときめきが、現代人なんかよりずっと切実で豊かだったのであり、それは、「自我意識」ではなく「実存意識」なのだ。
現代人だって、プレゼントをするとか奢(おご)るということをする。それは何も、自分の所有が相手の所有に変わる、ということが目的になっているわけでもあるまい。
自分のものを盗まれたらいやに決まっている。
そういう所有権が移動することがうれしいのではなく、たがいの身体のあいだの「空間」を共有し祝福したくてそうするのだ。つまり、自分の所有という意識を捨てて、プレゼントしたりおごったりしているのだ。
彼女にプレゼントするエンゲージリングを買いに行って、そのリングが自分のものになったとよろこんでいる男なんかいないだろう。
それに、われわれの根源的な身体意識=空間意識は、「世界はいまここで完結している」という感じ方をするようにできている。したがってそのとき、自分が所有していたという過去に対する追憶も、所有権が移るという「未来」に対する予測も、根源的には意識していない。ピュアな人と人の関係ほど、そんなことは意識していない。
現代の大人の俗っぽい自我意識がそんなことを考えても、原始人には無縁の観念のはたらきだった。
原始人にとっては、つねに世界は「いまここ」で完結していた。そういう実存意識から、貝殻の贈り物をするという習俗が生まれてきたのだ。
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「所有」という意識は、「いまここ」で世界は完結している、という根源的な身体意識=空間意識においては成り立たない。なぜなら「いまここ」は、次の瞬間には消えてなくなるからだ。それに、意識にとっての「いまここ」そのものが、過去と未来の狭間にある「非存在」の空間であり時間なのだ。
これが、現代においても、贈り物をするときにはたらいている根源的な心の動きなのではないだろうか。
「所有意識」とは、過去にこだわる「既得権益」対する意識であると同時に、「未来意識」でもある。未来に対するスケジュールで生きている現代人はことのほかそういう「自我=所有意識」を肥大化させてしまっているが、この意識をそのまま原始人に当てはめるわけにはいかない。
したがって、原始時代には「いまここ」の世界を祝福し完結させる作法としての「贈り物」はおおいに盛んだったが、自我=所有意識の上に成り立った「交換」という行為などなかった。
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人類が「所有」という意識に目覚め、物々交換をはじめたのは、氷河期が明けて地球環境が住みよくなってきてからのことである。
それには、おそらく「家族の発生」ということがかかわっている。
氷河期のネアンデルタール=クロマニヨンのころは、家族などなかった。
氷河期の北ヨーロッパでは、かんたんに赤ん坊が死んでしまう。産んでも産んでも、次々に死んでゆく。母親ひとりではそのかなしみを背負いきれない。西洋の母親は、あまり子供をかまわない。それは、そういう歴史的なトラウマを抱えているからだろう。子供に執着しすぎると、そのぶん死なれたときのかなしみも耐え難いものになってしまう。
それだけが理由ということもなかろうが、とにかく子供は集団のみんなで育てた。
しかし、氷河期が明けて環境が良くなれば、母親は、子供を手元において育てようとする意識が芽生えてくる。
そのようにして、家族という単位が生まれてきた。その家族という閉じようとする幻想空間から、「所有」という意識が育ってきた。また親は、どうしても子供を未来との関係で見てしまう。その空間は、閉じられてはいるが、「いまここ」で完結していない。
原始人の「贈り物」をする習俗は無限の広がりを持っているが「いまここ」で完結していた。
しかし家族は、いまここで完結していないからこそ、未来に向かって「所有」し完結しようとする。男も女もたがいに所有し合うし、親は子供を所有しているという意識になってゆくし、家族単位で食事をするようになれば、食い物だって所有の対象になってくる。
また共同体(の制度)は、そういう「所有」することを保証するシステムとして生まれ、発達していった。
人類の自我意識はここから肥大化してゆき、「物々交換」とか「贈与と返礼」といった習俗が生まれてきた。それは、時間を過去から未来に向かう帯のようにとらえてそれを完結させようとする体験であると同時に、「いまここ」で完結していない体験にほかならない。
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原始人は、ただもう「いまここ」のこの世界を完結し祝福してゆく行為として、それを、たがいの身体のあいだの「空間」に差し出した。
しかし氷河期明けの人々は、たがいの所有になることを確認し合う行為として物々交換をしていった。
そのとき、その交換するものがおよそ貝殻何個分の価値があるかということを確認しあっていたのではないだろうか。そういう尺度がはじめになければ、等価交換など成り立たない。貝殻が純粋の貨幣になってゆくのとともに、物々交換も生まれてきたのだ。
物々交換しかしない現在の未開人でも、「所有」という意識は持っている。そして何と何は等価だという基準はちゃんと持っている。それは、幻想としての「貨幣」をすでに持っているということだ。
たとえば小魚10匹と塩ひと袋を交換する場合、その小魚が「貨幣」の役割を果たしている。
何はともあれ、たがいの身体のあいだの空間に物を置き、その空間を祝福し共有してゆくという行為こそ根源としての貨幣体験であり、その貝殻が交換を目的としない独立した価値だったからこそ貨幣になりえたのだ。
はじめに、貝殻3個と4個と5個の違いが計量され、それに品物の価値を当てはめていったのだろう。
貝殻という基準がない時点で、このリンゴにどれほどの価値があるかということは計量できるはずがない。ともに自分にとっては不要のものを差し出すのだ。であれば、自分で価値を決めることはできないのだから、とうぜん「等価」という意識を持つことは不可能である。
最初は、リンゴと貝殻を交換していたのだろう。これなら、おたがい納得できる。そういう体験が基礎としてあったから、リンゴと魚を交換することができるようになっていったのではないだろうか。
ヤップ島の古代人は丸い石のお金をつくった。そのころはまだ物々交換をする能力がなかったからだろう。そうして、動かせないほどの大きな石の貨幣を家の庭に置くようになっていったのは、石の貨幣をたくさん持っていることを示すためか、物々交換をする意思と能力を持っていることを示すためか、とにかく「交換」の能力を示すためだったのだろう。彼らだって、まずはじめに「貨幣」を見出していった。
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いずれにせよ、「所有」という意識が芽生えてこなければ「交換」という行為は起きてこない。
しかし貝殻は、「所有」という意識がなくても「価値」であることができたのだ。
それは、たんなる品物の価値を計量する尺度として生まれてきたのではない。原始時代においては、それ自体が人々の身体意識=空間意識すなわち「実存意識」に深く訴えてくる価値を持っていたのだ。
原始人は、貝殻を所有することがよろこびだったのではない。貝殻をたがいの身体のあいだの空間に置くことのよろこびがあったのだ。「金は天下のまわりもの」というのなら、貝殻もまた、そうした貨幣の本質としての「流通性」を持っていた。
原初の貨幣としての貝殻は、「交換」の道具ではなく、人々のあいだを「流通」するものだった。
そういうトレーニングのあとに「所有」という意識が芽生え、「交換」という行為が起きてきたのだ。そしてそれは、最初は貝殻との交換だった。
物々交換は、そのあとの話だ。そんなややこしい関係は、原始人の切実で豊かな実存意識にはなじまない。
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