貨幣の根源的な機能は、「等価交換」にあるのではなく、「流通性」にある。
人々のあいだを行き交うから、お金なのだ。等価交換であろうとあるまいと、そんなことはどうでもよい。
貨幣の起源において、等価交換という機能はなかった。
といっても僕は、経済のことが書きたいのではない。人と人の関係性のことを考えたいのだ。
心理学者は「自我の安定を守るために等価交換をする」という。このことが人間性の本質であり貨幣の本質であるという。
「自我」とは、生きようとする衝動のこと。しかし生き物に、「生きようとする本能」などというものがはたらいているだろうか。
人間だって生き物だ。貨幣を「流通」させることに人間性がある。少なくとも起源としての貨幣は、そういう機能だった。等価交換など、どうでもいい。
等価交換するから流通してゆくのではない。流通させることそれ自体が人間の習性であり、等価交換どころか交換にすらならなくても貨幣は流通してゆくのだ。
1万円のセーターは、1万円以上の価値があると思ったときにはじめて買う気になる。売る方だって、5000円で仕入れたものだ。
ともに、そのセーターは1万円と等価であると合意しているのではない。
その骨董屋の壺が100万円であるのは、あとで手放すときに100万円かそれ以上に売れるということが信じられるからか。
もちろんそういうつもりで買う人もいるだろうが、「美はお金には代えられない」という思いで買う人だっているだろう。そのときお金の価値は無化されている。
お金をゴミみたいに扱うことの愉楽というのもある。
等価交換なんか知ったこっちゃない。
観光地のみやげ物の値段が日常生活の場より割高なのは、旅に出ると人はお金の価値を無化してしまう傾向があるからだろう。
その名物饅頭に500円の価値があるとなんか、誰も思っていない。近所のスーパーで買えば200円か300円じゃないか。それでも買ってしまうのは、ふだんのお金に対するこだわりを忘れてしまえるよろこびがあるからだろう。そんなふうにゴミみたいにお金を使ってしまうことのよろこびがある。
旅の思い出はお金には代えられない、とかなんとか。
そして、旅人のそんな心の動きにつけ込んでいる観光地の業者も、お金の価値をじつに無造作に考えている。
マネーゲームをする人たちのあいだでは、コンピュータのキーをひとつ叩くだけで、途方もない額のお金がニューヨークから瞬時に日本にワープしてくる。等価交換もくそもあったものではないではないか。
そうして彼らはそれを、当たり前のように思っている。
当たり前のように思ってしまうのは、仕方がないのだ。貨幣の機能の本質は、等価交換ではなく、「流通する」ことにあるのだから。
観光地のあくどい業者だろうと、マネーゲームにうつつを抜かす証券マンだろうと、みんな、お金を「流通」させようとしている。そして心の底のどこかで、お金とはそんなものだと思っている。
流通することが本質だから、ただの紙切れどころか、パソコンの画面のただの数字がそのままお金になる。「等価交換」という本質を持っていないからそういうことが起きる。
・・・・・・・・・・・・・・・・
搾取はよくない、とマルクス主義者は言う。そんなこと言ったって、それ自体が「流通」という現象なんだもの、人間は搾取するさ。
「流通する」とは、お金は人と人のあいだを動いてゆく、ということ。
人間は、たがいの身体のあいだの空間に物を置いてその空間を祝福し共有してゆこうとする衝動を持っている。その瞬間、その「物」は、どちらの所有でもない。
たとえば、メンコやビー玉の遊びを思い浮かべてみればいい。まあ、そんなようなことだ。他者の身体とのあいだの「空間」を祝福し共有してゆこうとする人間は、根源的にそういうことをしたがる衝動を持っている。
商品を売る=買う、という行為だって同じである。いったん両者のあいだの「空間」に商品とお金を置いてチャラにし、そのあとに売買という関係が成立するのだ。等価交換しているのではない。
たがいの身体のあいだの空間に、それぞれがお金と商品を差し出し合っている。人間はそうやってその空間に何かを差し出し、その空間を祝福してゆこうとする衝動を持っている。
人間の本能は、所有しようとすることにあるのではなく、たがいの身体のあいだの空間に何かを差し出そうとすることにある。そして差し出せばもう、どちらの所有でもない。
お金は自分の所有にはなり得ないことを誰もが知っている。だからお金を貯め込もうとするし、平気で搾取することもする。搾取したって自分のものになったわけではない。お金は、存在そのものにおいて、すでに人と人のあいだの「空間」に置かれている。
「等価交換」はモラルになり得ない。なり得ないことはここまでの人間の歴史が示す通り、誰もが知っているはずなのに、それでもそれにこだわる人は多い。
お金が自分のものだと思えるのなら、等価交換は成り立つ。しかしお金は、存在そのものにおいて、すでに人と人のあいだの空間において成り立っている。
自分が持っていても、それがお金であるということは「自分のものではない」ということなのだ。
お金を所有することの不可能性、そこにお金の本質的な存在のかたちがある。
だから、100億円持っていたって、少しも後ろめたくないのだろう。
人間は、どうしてそんな思い方ができるのだろう。
お金は、存在していても、たとえ自分の手元にあっても、「非存在」の対象として意識されている。だから、途方もないマネーゲームが成り立つ。
人間は、そういう「非存在」を思い描く。
天国や極楽浄土や神のいる場所は、「非存在」の空間に「たしかにある」とイメージされている。
人間は、そういう非存在の空間を「身体の輪郭のパースペクティブ」としてイメージしている。そしてこのイメージを基礎にして、この世界と関わり、生きるといういとなみをしている。
この「非存在の身体の輪郭」こそ、人間においても生き物においても「生きられる意識」のはたらきなのだ。
だから人は、お金を「非存在の存在」としてイメージしてしまう。
その「非存在の身体の輪郭」は、身体の外側と身体と接する外界の内側であるところの「非存在のすきま」として意識されている。
人間はこういう身体意識=空間意識をこの生の基礎的なかたちとして持っているから、お金を「非存在の存在」としてイメージし、「流通」させようとする。
搾取したって、根源のイメージにおいては、自分のものになるわけではないのだ。だから、平気で搾取できる。平気で派遣切りやリストラをすることができるし、たくさん稼いだって後ろめたくない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
人間にとって、等価交換することが大事なのではない。お金は「流通」すればいいのだ。
どうしても国内の農業保護よりも貿易の活性化の方が優先される。身体の物性よりも、「非存在の輪郭」としての「身体の空間性」の方が優先される。
等価交換よりも、お金が流通することが優先される。人間は、そういう無意識を持ってしまっている。
僕は、TPPがいいといっているのではない。
そんなことはよくわからない。
ただ、「身体の物性」や「等価交換」は倫理になり得ない、といいたいのだ。
貨幣が等価交換していないことは誰でも知っているはずなのに、等価交換している気分にさせる機能がある。つまり、そういう世の中の建前がある。
べつに「等価交換」が正義だというわけでもないだろう。べつに人間は「等価交換」を正義にして生きているというわけでもないだろう。
等価交換だと信じられているから流通するのではない。流通させることが人間の本性だから流通しているのだ。
誰も等価交換など信じていないしそんなことで世の中が動いているわけでもないのに、信じていることにして語っている。これは、変だ。等価交換していることにしておかないと、等価交換になっていないことが受け入れられないのだろう。
生き物が生きようとする衝動なんか持っているはずないのに、持っていることにして語ろうとする。これと同じだろう。
お金の世の中になると、人はそういう考え方をするようになるらしい。
お金が等価交換しているということにすれば、お金を所有していることになる。守銭奴がお金を退蔵させるのは悪だ、といいながら、お金を退蔵(所有)できるもののようにいう。
しかし守銭奴自身は、お金を退蔵(所有)しているという自覚がないから、そういうことができる。彼はただ、お金のそばにいる、と思っているだけだ。お金は、存在そのものにおいて、すでに流通している。お金のそばにいれば、すでに世の中の流れと調和しているような自覚が持てる。彼のお金は、彼の頭の中で、すでに世の中を流通しているのだ。
「所有している」と思ったら、落ち着かなくて所有していられない。
貨幣の「非存在性」、それが問題だ。「所有している」という自覚(実感)を持たせないことこそ、貨幣の貨幣たるゆえんなのだ。
それでも、観念的には「所有している」と自覚している。それは、貨幣が自覚させるのではなく、「金の世の中」によって自覚させられている。
誰も等価交換などしていないのに、等価交換している、と自覚させられている。
・・・・・・・・・・・・・・・・
貨幣に価値が発生するのではなく、貨幣によって貨幣ではないもの(=商品)に価値が発生するのだ。
歴史のあるとき、物=商品は、貨幣によって価値を与えられた。
誰かがリンゴを持っていた。別のものが、そのリンゴとこの貝殻を交換してくれ、といった。このとき、リンゴ=商品に価値が発生した。その貝殻=貨幣が、リンゴ=商品に価値を与えた。
その貝殻はもともと価値を持ったものであったが、「所有」されているものではなく、私のもとから「贈り物」として別の誰かのもとに移動してゆくものだと自覚されていた。
人類はもともと人の持っているものを「欲しい」と思うような生き方はしていなかったが、そのときそういう欲望が発生した。
それは、リンゴを持っているものが、共有しようと差し出さなかったからだ。
何もかもが共有されているかぎり、「所有」という意識も「欲望」も発生しない。
つまりそのとき人類は、集団として生きることよりも、それぞれが家族をつくり、家族として生きることをはじめていた。そうやって家族として閉じてゆくことによって、「所有」という意識や「欲望」が生まれてきた。
そうして集団は、この「家族」を保証するものとして再編成され、やがて国家というかたちになっていった。
それぞれが家族として閉じてゆくことによって、人類は、国家というより大きな集団を形成できるようになっていった。
そうして、もともと持つことができるはずのない「所有」という自覚を補強する機能として「等価交換」という合意が形成されていった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
よくわからないが、「等価交換されねばならない」というスローガンで共産主義が生まれてきたのだろう。
一方資本主義は、資本主義こそ等価交換を約束する、という。
どちらも、人間社会は「等価交換」の上に成り立っている、という。
「価値の所有」とは、ようするに、生き物には生きようとする衝動がそなわっていて、この生の価値が所有されている、という思想(人間観)なのだろう。
生き物は、「この生の価値を所有している」か?
そうやって「価値の所有」が前提となる社会が生まれ、「貨幣の本質として、貨幣は価値の所有を約束するもの(=等価交換)であらねばならない」という思想が生まれてきた。
たしかに貨幣は、商品(労働力も含めて)の価値を約束する。
しかしもともと人間社会は、物も労働力も、価値でも所有されるものでもなかったのであり、原始時代の貝殻の貨幣もまた所有されるものではなかった。
ただもう「流通する」ことに意義があった。貝殻の貨幣が流通してゆくことのよろこびがあった。そういう人と人の関係があり、集団と集団の関係があった。
むしろ「所有しない」ことのよろこびがあった。「この生の価値」も含めて、である。
この生の価値を自覚するなら、誰も氷河期の極北の地に棲み着いたりはしない。そこは、かんたんに人が死んでしまうところだったのである。
「商品の価値」という思想は、「この生の価値」という思想とどこかで通底している。そしてこの思想は共同体(国家)の発生以後に便宜的に生まれてきただけのものであって、人類史を通じての人間性の根源を指し示すものではない。
現代人は、とりあえずこの生に価値があることにしよう、と合意し合っているが、残念ながらそれは人間の本心ではない。
ほんとうは誰もが、この生の価値なんか信じていない。商品の価値なんか信じていない。労働の価値なんか信じていない。
だから搾取やリストラが平気でなされるし、ちんたら働こうともする。人間としての根源においては、誰も労働力の価値なんか信じていないのだもの、搾取をするなとも、ちんたら働くなともいえない。
搾取をしないことや一所懸命働く善良さを自慢されても、「人間は労働の価値を信じていない」という真実が消せるわけでもない。
人間はただもう、人と人の関係が「流通する」ことをよろこぶ。貨幣とは、もともとそのための道具だったし、今でも本質的にはそのように機能している。だから、搾取やマネーゲームやちんたら働くということが起きるし、だから人と人はときめき合いもする。
ときめき合っているから、「贈り物」をする」。そこでは、等価交換は意識されていない。
氷河期明け以来、人類は、「等価交換」の夢を見て文明を発達させてきた。
しかしもう、夢から覚める時期に来ているのかもしれない。
人間に生きようとする本能なんかはたらいていない。氷河期明け以降、われわれは、人間にそういう本能がはたらいていることを夢見て歴史を歩んできた。
しかしこの地球上にこんなにも人間があふれてしまったら、もう夢なんか見ていられない。
生きてあること、生まれてきてしまったことの「嘆き」を共有できるだけだ。そういうかたちでしか人と人の心が「流通」できない状況になってきている。
われわれは、夢から覚めつつある。
まだまだ夢見ていたい大人はたくさんいるけど、彼らはもうすぐ死んでゆくのだから、夢を見たままでいさせてやるしかないのかもしれない。
でも僕は、そんな大人たちと結託するつもりはありませんよ。
・・・・・・・・・・・・・・・・
経済のことはよくわからないから、この稿で何がいいたかったのか、自分でもよく把握できていません。とりあえず、提出してみます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一日一回のクリック、どうかよろしくお願いします。

人気ブログランキングへ
_________________________________
_________________________________
しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

幻冬舎書籍詳細
http://www.gentosha-r.com/products/9784779060205/
Amazon商品詳細
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4779060206/