ネアンデルタール人の社会に宗教はあったのか。これも、気になる問題であり、空間意識の問題でもあるのかもしれない。
彼らに、「あの世」という意識はあったのか。
人間は、「非存在の身体の輪郭」を強く意識している。したがって、「非存在」の「他界」のイメージをたやすく引き寄せてしまう。
しかし同時に、この生もこの世界も「いまここ」のこの身体で完結している、というイメージも無意識として持っている。「非存在」をイメージするとは、すなわちそういう「完結性」を意識することでもある。
彼らが、他の集落との関係を豊かに持っていたことは容易に想像できる。ヨーロッパから中近東にかけてのネアンデルタール人の石器文化は、ほとんど同じだった。それは、彼らが集落どうしの(たぶん親密な)関係を持っていたことを意味する。
そうして彼らの身体形質が一様にクロマニヨン人と呼ばれるように変化していったのも、それほどに頻繁に女を交換する関係を結んでいたことを意味するのであって、べつにアフリカ人がやってきてとってかわったというわけではない。
アフリカ人は、昔も今も、そんなことをする人種ではない。
現在のアフリカでは、大きな尻のホッテントットとか小柄なピグミーとかすらりとした高身長のマサイ族とか、同じ黒人でもかなり身体形質が分かれてしまっている。それは、彼らが他の部族と関係を持ちたがらない傾向があったからだ。言葉の違いだけなら、もう無数の部族に分かれてしまっている。彼らは、生まれ育った故郷を離れたがらない人々だった。今でもそうなのだから、5万年前ならもっとそうだったはずだ。
原始人にとって世界は「いまここ」で完結していた。
というわけで、たとえ隣り合った集落どうしの親密な関係を持っていたネアンデルタール人でも、「他界=あの世」という遠い世界を意識していたとは思えない。
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ネアンデルタール人は、埋葬していた。
それは、死者を「他界=あの世」に送る行為だったのか。
だったら、ふだんの生活の場である洞窟の中になんか埋葬しない。
たとえば、チベット人が集落から離れた山に死者を運んで鳥に食わせるとか、そのような何かこの世とあの世の絶対的な隔たりを確認できるかたちが見出されていったにちがいない。
洞窟の下に埋めたということは、死者の命を「この世」で完結させようとする行為である。
したがって彼らが「あの世」を意識していたとは考えにくい。
西洋人は、骸骨に死者の命の痕跡を見ることをほとんどしない。それはもう「命のぬけがら」だと思っている。だから西洋の寺院では、歴代の高僧の頭蓋骨を平気で飾っていたりする。つまり西洋のそうした生命観の伝統は、ネアンデルタール人は土の下に埋めた死者がすっかり骨だけになってしまったとき、そこで死者の命が完結したと思っていた、ということに由来しているのかもしれない。
原始人の心は、現代社会で暮らすわれわれよりもずっと「いまここ」に対する意識が切実だった。そうやって歴史がはじまっている。安直に「原始人=迷信」という図式では語れない。迷信深いのは、われわれ現代人の方なのだ。
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一般的には、もっとも古い宗教は「呪術」であるとされている。
医学が発達していなかった古代は、呪術で病気を治そうとしていた……まあ、そうかもしれない。しかし、原始時代もそうだったかどうかはわからない。呪術で病気が治せる、と思うようになるまでには、相当の歴史の年月や体験が必要だったはずだ。そこから歴史がはじまった、というわけではあるまい。
呪術が生まれてくるためには、まず「あの世」を知らねばならない。
人類は、最初から「あの世」を知っていたわけではない。
まずはじめに、「あの山の向こうは何もない」と思っている段階があった。そしてあの山の向こうにももうひとつの同じような世界があると知っても、その先にも山があって、やっぱりその向こうはもう何もないと思った。
何かを感じるのが感受性であるのなら、何も感じないという感受性もある。「さびしい」と思う感受性もあれば、「さびしくない」という感受性もある。
子供にとってはお化けも「この世」の存在であり、人が「あの世」を意識しはじめるのは思春期を過ぎてからである。
つまり、社会との関係に不安を覚えると、「あの世」を意識しはじめる。であれば、人類史において「あの世」を意識するということが生まれてきたのは、人が共同体の制度に縛られて生きるようになってからのことだ、ということになる。
共同体の制度という「非存在の空間性」、それが、「あの世」というイメージを引き寄せる。だから、原始人よりも現代人方がずっと「あの世」を意識している。
アマゾンやボルネオ奥地の未開人だって、共同体の制度性にさらされた現代人なのである。彼らの社会だって、それなりに共同体の制度性の歴史を持っているのであり、だから彼らだって「あの世」を信じている。
たとえば現代の若者の「引きこもり」という現象は、家の外の社会(すなわち共同体の制度性)が異次元の「あの世」のように感じられるところで起きているのだろう。べつに、親のそばにいたいわけでも親の庇護を求めているわけでもない。それでも家の外に出られない。
一般的な大人たちはこういう子供たちのことを「乳離れしていない幼児性」などというが、そうじゃないのだ。乳離れして社会の制度性にさらされてしまったから起きてきたことなのだ。
「あの世」というイメージは、共同体の制度性の異次元性によってもたらされる。人間の意識は、「異次元性=非存在性」といった絶対的な隔絶に飛躍してしまうようなはたらきを持っている。それは、この生がみずからの身体を「非存在の空間のパースペクティブ」として扱うことの上に成り立っているからだ。
ともあれ人が「あの世」を意識するようになったのは、共同体の制度性が人の心に干渉するようになってきてからのことなのだ。
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呪術者が「憑依する」とか「トランス状態になる」などという。
意識が異次元空間にワープしてしまう現象。
そういうことは、はじめに「異次元空間」のイメージを持っていなければ起きない。「異次元空間」に憑依するのだ。
共同体の制度性は、人に「異次元空間」のイメージを持たせてしまう。
もしも原始社会が共同体の制度性とは無縁のものであったのなら、原始人は「あの世」のイメージを持つこともトランス状態になることもなかったにちがいない。
原始人は、現代人よりもずっとリアリストだったはずだ。
あるブログで「アフリカの原住民が足を踏み鳴らして踊りながらトランス状態になってゆくのは、直立二足歩行をはじめたころの原初の人類の生態をそのまま引き継いでいる」と語っていた。
何言ってるんだか。まあ研究者だって似たり寄ったりのことを考えているから、原始人は迷信深いという前提で語ろうとする。
アフリカの原住民だってトランス状態になることを覚えたのは、共同体の制度性が定着してきたつい最近のことなのだ。彼らはそうやって共同体の制度性に憑依している。共同体の制度性がなければトランス状態になることもない。
足を踏み鳴らせばトランス状態になるというわけではない。アフリカ人がそういう踊り方を好むのは、そういう激しいリズムによって意識が覚醒するからであって、頭をもうろうとさせるためではない。熱帯のサバンナで暮らしていたら、いつも頭がぼおーっとしている。彼らが派手な原色を好むのも、そこに意識のはたらきを覚醒させる作用があるからだろう。
雨が多く湿潤な気候のアジアの民族は、そんな踊り方はしない。それでもトランス状態になる制度性は持っている。足を踏み鳴らすことなんか関係ない。
基本的にトランス状態になるのは、呪文を繰り返し唱えることによる反復性と言葉の作用によって日常的な意識が麻痺してゆくことによる。
われわれだって、いつの間にか頭の中でテレビコマーシャルのキャッチコピーが鳴り響いていることがある。そういう日常的な意識の麻痺は、意識が共同体の制度性から浸食されてしまうことによって起きる。そうやって「トランス状態になる」のだ。
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シャーリー・マクレーンというアメリカの女優が、「風呂に入っているときに、自分の体が月まで浮揚してゆく幻覚を見た」と語っている。
現代人は、ロケットとか月の映像とか、そういう情報をたくさん持っているから、かんたんにそういうイメージに憑依してしまう。「あの世=異次元空間」に憑依してしまう体験、彼女の意識は、すでに深く「共同体の制度性(共同幻想)」に浸食されてしまっている。
女が「霊感がある」とか「憑依しやすい」という傾向を持っているのは、それだけ社会的に「共同体の制度性(共同幻想)」から浸食されやすい立場に置かれているからだ。
親や学校や教師が共同体の制度性そのもののような性格や思考を持っていると、子供は引きこもりになりやすい。この社会は、そういう人間がたくさんあらわれてくるような構造になっている。現代社会の制度性は、そういう「異次元性=非存在性」を色濃くそなえている。
そうやって現代人は、この世界をリアルな「いまここ」として完結させる意識のはたらきを失っている。
意識が「いまここ」の世界の完結性、すなわちこの身体の完結性を失ったとき、「トランス状態になる」ということが起きる。
引きこもりの子供は、外に出ると身体の輪郭があいまいになって、身体と世界の関係がうまく結べなくなり、歩けなくなってしまう。彼らが部屋の壁に激しく頭をぶつけたりするのは、そうやってみずからの身体の輪郭を確かめているのだろう。そうしてかんたんに手首を切ってしまったりするのも、意識において身体の輪郭があいまいになっているからだろう。
意識が「あの世」に引き寄せられるのは、きわめて現代的な心の動きなのだ。その現象は、共同体の制度性が引き起こしている。
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原始人の社会に、「あの世」なんかなかった。
原始社会は、呪術で病気を治す、ということをしていたか。
もちろん呪術ということがなかったのだろうから、そんなこともなされていたはずがない。
原始人は、人間が病気を治すことができると思っていただろうか。そんなことは、治せる時代になってから思うことだ。
ましてや呪術で治せるなんて、最初からそんな発想ができるはずがない。
彼らは、ひたすら病気が治ることを祈った。
水で熱を冷やすとか、薬草の汁を塗るとか、そういうことは試みたかもしれない。
しかし、病気になって死ぬということは受け入れるしかない社会だったはずだ。
「治す」ということよりも「受け入れる」ということの方が第一義的な課題だったはずだ。
病人は、熱で意識が錯乱する。「痛い」とか「苦しい」とか「怖い」といって訴える。そういう心の状態をどう宥めてやるかとして、最初の呪術師が登場してきたのではないだろうか。
病気を治すためじゃない。
歴史のはじめにおいては、そんな目的などなかった。
ただもう病人のそばに寄り添って宥めてやる存在が必要だったのだ。それが、原始人のリアリズムだった。
そのためにその呪術師のような存在は、歌ったり踊ったり神に言葉をささげたりしてやった。これがはじめだ。日本列島では、そのようにして「巫女」が生まれてきた。
卑弥呼だって、まあ巫女の頂点に立つそのような存在だったのだろう。人々は、卑弥呼の歌や踊りがただもうありがたかった。それで病気が治るとか豊作が約束されるとか、そういうことではなく、人々の心を癒し宥めて元気にさせてくれるカリスマだったのだろう。
人々は、卑弥呼に癒された体験を共有しながら生きていた。
まあ、そんなことをしていれば、心が元気になって病気も治るということも起きてきただろう。
しかし、心が宥められることと病気が治ることとの因果関係に人間が気づくのは、そんなかんたんなことではないはずだ。もしかしたらそれは、現代医療においてはじめて発見されたことかもしれない。
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人間が、死を受け入れることをやめて病気は治すことができるものだと信じるようになっていったのは、おそらく古代以後、すなわち共同体の発生以後のことだ。
薬草など治療方法が進むとともに、「死を受け入れる」という心の動きが希薄になってきてからのことだ。
共同体や家族の制度が発達してくると、時間を過去から未来に向かって帯のようにつながっているものとしてイメージし、この生やこの世界を「いまここ」で完結させるという心の動きが希薄になってくる。そうなってはじめて、「呪術師が病気を治す」とか、「呪術師が天災を防ぐ」というような習俗が生まれてくる。
そうなればもう、呪術師に、病人の心を宥める、という役割など求めなくなる。とにかく治してくれればいい、という意識。それは、人々が「死を受け入れる」心を失った、ということを意味する。そうならなければ、「呪術師が病気を治す」という習俗が生まれてくるはずがない。
また、死を受け入れられなくなってきたから、「あの世」というイメージが生まれてきた。
したがって、人々が死を受け入れるほかない状況で暮らしていたネアンデルタール社会に病気を治す呪術師が存在していたはずがない。
情緒不安定になっている病人の心を宥める役割の者がいたのだ。それが呪術師の起源である。そうして後の時代になると、立場が入れ替わり、呪術師の方が情緒不安定になってトランス状態に入ってゆくようになった。
共同体の制度性に意識を侵食されて情緒不安定になり、「あの世」という非存在の空間に憑依し、トランス状態に入ってゆく。もしかしたらそれは、病人の情緒不安定が原型になって生まれてきた作法であるのかもしれない。
つまり、病人に代わって錯乱してゆくことによって病人の心が落ち着く、というような治療が、歴史的な過程の段階としてあったのかもしれない。テレビのドキュメンタリー番組に映された現在の未開人の呪術師は、そのようにして病人に献身しているように僕には見える。
原始人の社会の宗教を、われわれはどのように推測すればいいのだろう。果たして宗教はあったのか。
ともあれ彼らが、われわれ現代人よりもずっとリアリストだったことはたしかだ。
はじめに迷信があったのではない。
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