たがいの身体のあいだの「空間=すきま」を祝福し共有してゆくこと、これが、直立二足歩行の開始以来の人と人の関係の基本のかたちである……と、このページでは繰り返し書いてきた。
空間を祝福するとは、空間がふくらむこと。どうやら人間は、そういう空間感覚を持っているらしい。
つぼみがふくらむことは、空間がふくらむことである。英語ではつぼみがふくらんで花になると「ブルーム」というし、空間のふくらみである風船のことを「バルーン」といったりする。それらは、空間のふくらみが意識された言葉である。煮炊きをして浮かんできた灰汁(あく)のことを「ブルーム」といったりもする。
また「ブルーム」には、「栄える」とか「輝く」という意味もある。人間には、空間がふくらむことを感じ、それを祝福する心の動きがあるらしい。
日本語では、空間がふくらむことを「萌(も)える」という。
語源的には、「萌(も)ゆ」という動詞だったのだろう。
「も」は「持つ」「盛る」の「も」、「ふくらむ」とか「繁茂」とか「混沌」というようなニュアンス。「もやもやする」などともいうし、だから「藻(も)」という。これは、英語の「ブルーム」も同じである。
「萌ゆ」の「ゆ」は、「湯」の「ゆ」、湯は、水がだんだん温まってゆく過程の状態。やまとことばの動詞の語尾としての「ゆ」には、「過程」というニュアンスがある。「萌ゆ」とは、空間がふくらんでゆくこと。人間は、そういう状態を祝福する。
「燃える」という場合だって、炎という空間がふくらんで出てくる現象だからだ。
人と人のあいだには、「空間=すきま」がある。その空間に物を置いてゆくことは、その空間がふくらんでゆくことである。そうやって貨幣が生まれてきたし、会話をすることだって、その空間に言葉を投げ入れ合う行為だ。
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空間がふくらんでゆくことのめでたさがある。
「めでたい」の「め」は「気づく」という語義。「で=て」は「照る」の「て」、「た」は「完了」をあらわす語尾、輝いていることに気づくことを「めでたい」という。
輝いていることは、ふくらんでいることである。きらきら輝くことは、その物体の表面上の空間で起こっているように見える。そうやってふくらんでいるように見える。その「空間性」がめでたいのだ。
「乳房のふくらみ」という。男はなぜそれが好きなのだろう。
そのふくらみはやわらかい。それは、水と同じように、物体と空間の中間的な存在である。乳房は、人間の体でもっとも「空間性」をそなえた部分である。そしてその空間はふくらんでいる。そういうことに男はときめいている。
ただ赤ん坊のときにそれが命の糧だったという記憶によるのではない。そんな「下部構造決定論」だけで乳房の魅力が語れるわけもない。まあ、ほとんどの男は、そんな記憶など残していないし、それを見たり触ったりしながらべつに懐かしがっているわけでもない。
吉行淳之介は、「あなたはどんなかたちの乳房が好きですか?」という、ある雑誌が企画した作家へのアンケートに対し、ひとこと、「すべての乳房」と答えた。こうなったらもう、乳児期の記憶がどうのというような感性ではないはずである。
乳房は、ふくらんでいる空間なのだ。われわれ男は、たしかに乳房の「空間性」を感じている。
現在のマンガやアニメに登場する「萌えキャラ」の女の子は、顔はあどけないのに、乳房は妙にしっかりふくらんでいる。それは、現在の若者たちがマザコンだからというのではなく、基本的に「萌え文化」とは、空間のふくらみや輝きを止揚する文化だからだろう。
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人間は、なぜ空間がふくらんだり輝いたりして見えることにときめくのだろう。
それほどに身体の物性にわずらわされて生きているし、それほどに他者の身体とのあいだの「空間」を確保することに対する切実さを持っている。
空間がふくらんでゆくとは、空間のめでたさが止揚されてゆく、ということだ。
みずからの身体を「非存在の空間」として扱ってゆくことが人間の「生きられる意識」である。
祝福するとは、空間を祝福することだ。
現在のマンガ文化において「萌え」という言葉がさかんに使われるようになったのも、現代社会で暮らす人々のあいだで空間に対する意識が切実になってきたからだろう。
「物質文化から精神文化へ」と語られるようになって久しいことだが、それで世の中がすっきりしたというような効果はあらわれていない。
「物質」の対になる言葉は「精神」ではなく「空間」だろう、と若者たちは気づいたのかもしれない。
物質文化に執着するのも精神であるのだから、なんの意味もない。みんな精神文化を止揚しているつもりで、物質を止揚している。
「命の大切さ」とか「生き物は生きようとする本能を持っている」ということ自体、物質的な物言いである。マルクス主義唯物論というのか、そういう「下部構造(経済)決定論」では人間の歴史は語れない。
人間は、空間を生きようとする。物体としての身体ではなく、「非存在の空間」としての身体を生きようとしている。
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今や「萌え文化」も飽和状態で、コピーばかりじゃないか、という批判もある。
そんなことをいっても、「萌え文化」は「オリジナリティ」そのものが疑われているところで成り立っているともいえる。
「オリジナリティ」の単独性よりも、コピーし合い共振・共鳴してゆくことの関係性=空間性が模索されている。共振するとは、震えることであり、ふくらむことであり、キラキラ輝くことである。
すなわち、オリジナル(テキスト=自然)をコピーしつつ「デフォルメ」してゆくところに日本列島の文化の真骨頂がある。日本文化を批判する外国人たちにいっておくが、ただの「猿まね」じゃないんだぜ。
コピーだろうとなんだろうと、この「デフォルメ」の妙が表現されていなければ受けない。
平仮名は、まさにデフォルメの妙である。そういう伝統の上に「萌え文化」がある。
平仮名は、漢字の物性を消去して、空間性として止揚していった文字である。
「コピー」ではなく「デフォルメ」なのだ。
そうやって共振し合いながらどこに向かってデフォルメ(変化)してゆくかということを楽しんでいる。けっして停滞しているわけではない。
それはにせものの文化であり、にせものの妙が表現されている。しかしけっして同じではないデフォルメの文化なのだ。
共振してゆくムーブメント。人と人のあいだを心が流通してゆくこと。そういう運動性=空間性が模索されている。
かつては「個性教育」が叫ばれたが、いまどきの若者には「オリジナル」であろうとする意欲はあまりない。
オリジナルであるより、他者と何が共有できるかと模索している。そうやって心と心が響き合わなければ生きられない、と思いはじめている。たがいの身体のあいだの「空間=すきま」を祝福し共有してゆく体験として。
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コピーであろうと何だろうと、今の時代は多くの人々が「ほっこり癒される」体験を欲しがっている。その、心がやわらかくふくらんでゆくような空間性を「萌え」という。
「セラピー」という言葉は、すっかり定着した感がある。
「物質文化から精神文化へ」といったって、若者はもう誰も、美しい精神とかやさしい精神とか健やかな精神というようなものなど欲しがってはいない。彼らは、そういう「正しい精神」などというものを信じていない。「精神をつくる」ということ自体を疑っている。
ただただ、ほっこり癒されたいだけだ。
どんな人間になれとか、どんな精神をつくれとか、そんなことをいわれても、われわれはすでに人間じゃないか、われわれの中にすでに精神はあるじゃないか。否定すべき人間や、否定すべき精神などというものはあるのか。そういう否定することを否定している。
オリジナルであることに魅力を感じないということは、そうやって人間や精神をつくろうとする作為性を信じていない、ということだ。
戦後社会は、そのような「人間をつくる」とか「精神をつくる」という作為性に邁進しながら高度経済成長を果たしてきた。
戦争に負けたことの反省として、日本列島の歴史の伝統などかなぐり捨てて新しく人間をつくり精神をつくりしてきた。
つくられたのは、「物」だけではなかった。人間や精神までも作為的に生産されてきた。
その反省は、とうぜん起きてくる。それはもう、歴史の必然なのだ。
われわれは、すでに人間ではないか。
すでに精神を抱えてこの世に存在してしまっているではないか。
いまさら何をつくろうというのか。
われわれは生まれてきてしまったし、世界はすでに存在している。「世界をつくる」すなわち「新しい社会をつくる」というそのことが信じられなくなってきている。そういう戦後社会の教育制度が、若者によって疑われはじめている。
自分をつくり世界(社会)をつくるという、その大人たちの作為性に、若者たちはうんざりしている。
われわれはもう、この有り合わせの自分を抱えてこの世界に反応しながら生きてゆくしかない。体全体で反応してゆこう、と決めた。
有り合わせの自分で生きるしかない、と覚悟したらいけないのか。
「精神をつくる」とか「オリジナルになる」とか、そういうことは捨てて、この有り合わせの自分で世界に反応してゆこうとした結果として、「ほっこり癒される」という体験が発見された。
そしてそれは、この国の伝統的な美意識の発見でもあり、人類普遍の「空間性」の発見でもあった。だから、マンガやファッションをはじめとするその「萌え文化」が、「ジャパンクール」として世界中から注目されることになった。
世界中から注目されるということは、人類の普遍性に届いている何かを持っている、ということだ。
「世界(社会)をつくる」とか「自分をつくる」ということなど、人類の普遍性でもなんでもないんだよね。
世界(社会)に反応して、その「空間性」を発見し祝福してゆくことこそ人類の普遍であるのかもしれない。
今や、世界中の人々が「ほっこり癒される」体験を欲しがっているんだろうね。そりゃあそうだよ、こんな過激な競争社会をつくってしまったんだもの。世界中でもっとも過激に競争社会を邁進しているアメリカ人だって、「ブルーム」などといって、やっぱり「ほっこり癒される」体験は欲しいんだろうね。
それは、「空間性」の問題なのだ。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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