文化は欲情をうながすか・「漂泊論」75

     1・人はなぜ欲情するのか。
動物はただ生理的に発情するだけだが人間は文化によって欲情する、などとよくいわれるが、はたしてそうだろうか。
人間の男は、文化によって勃起しているのだろうか。
人間の男だって、生理的に勃起しているだけだろう。
文化は欲情を表現するが、文化が欲情させるということはない。
文化で欲情できるのなら文化的な人間はみな精力絶倫だということになるのだが、むしろ文化的な人間の方が勃起に苦労していることが多い。
人は、文化的になることによって精力が衰えてゆく。
ここでいう文化とは、社会的な通念というか合意のようなものを指す。
「美人」という文化通念がある。美人でなきゃ勃起しないというのなら、勃起できる機会は限られているだろう。そして、どんな美人も毎日見ていれば感激も薄れてくる。
男が勃起する現場というのは、もっと実存的で生物学的なものではないだろうか。
前回のこのブログに書いたことを踏襲すれば、根源的には、いまここに生きてあることのいたたまれなさが勃起させるのであって、文化が勃起させるのではない。
若者の勃起がスムーズでダイナミックだということは、若いということだけでなく、そいういたたまれなさをビビッドに抱えている存在だからだということもある。
文化は、あくまで勃起したことの結果の表現にすぎない。
いつの時代も、生きてあることのいたたまれなさが男を勃起させている。
そしてそのいたたまれなさは、動物にもある。
猿は、メスの発情した性器の赤く腫れた様子や匂いに気づけば、落ち着かなくなってしまう。
人間はそれに加えて、抱きしめた感触というもっと直接的な落ちつかなくなる契機を持っている。そのとき、相手の身体ばかり気になって、自分の身体のことは忘れている。その存在の不安ともいうべき落ち着かなさが、ペニスを勃起させる。
生き物は、息苦しいとか痛いとか空腹だとか、身体を意識させられることのいたたまれなさを持っている。そのいたたまれなさは、他者の身体を強く意識することによって忘れられる。その忘れてゆくときの「存在の不安」という落ち着かなさが勃起になる。
自分の身体(ペニス)を意識することによって勃起するのではない、忘れることによって勃起するのであり、生きてあるものはみずからの身体を忘れたがっているのだ。
忘れることは不安だが、その不安がエクスタシーになる。
男は、女よりも身体のわずらわしさに対する耐久力がない。だから、いつも身体のことを忘れようとそわそわしている。そうやって動物はたいていオスの方がメスに求愛行動をしかけてゆく。
そうして、メスは逃げる。
逃げることが「エロス」なのだ。
オスだって、身体を意識させられる鬱陶しさから逃げようとして求愛行動に走っている。
「エロス」とは、「敗走」であり「逃走」である。「追走」ではない。
文化を追走したって、ペニスは勃起しない。
その時代の社会的なエロスの文化は、人々が欲情したことの「結果」の表現であって、欲情するための機能として生まれてくるのではない。
江戸時代の浮世絵の男のペニスはものごく大きく描かれてある。だからといって、女たちは大きなペニスの持ち主でなければその気にならなかったかといえば、そういうことではあるまい。
いつの時代も、女は、男が思うほどにはペニスの大きさなんか気にしていない。まあ、違和感を覚えられるだけのというか、そこにペニスがあると感じられるだけの硬さと最低限の大きさは必要なのだろうが。
つまり、そこに他者の身体があるという違和感=ときめきが、みずからの身体の存在を忘れさせてくれる。そういう関係のときめきが欲情させる。
欲情とは、鬱陶しいこの身体やこの生からの敗走であり、逃走である。そしてそれは、旅とは、と言い換えてもよい。
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     2・エロマンガの現在
現在の若者たちのあいだで流通しているエロマンガというのがあって、そこに登場するセクシーな女(というか女の子)の姿かたちのことを「萌えロリ」といったりするらしい。
それが、彼らにとってのセックスシンボルをあらわす言葉になっている。
で、どういう姿かたちかというと、体はおっぱいもお尻も大きくて、顔だけは大げさなくらい幼稚園児のようにあどけなく描かれている。
ロリとは、ロリコンのこと。「巨乳ロリ顔」が、セックスアピールのひとつの基準なのだ。
なぜこういう基準が生まれてくるかということをマスコミで議論されるときには、決まって「今どきの若者は生身の女を避けてバーチャルな女性像を勝手につくり、そこに向けて欲情している」などという解釈が出てくる。
しかしこの解釈は、当たっていない。
生身の女に相手にされていなくて、生身の女を怖がっているのは、むかしの男たちである。
むかしは、中学くらいになるとほとんどの男女が話をしなくなり、高校生になってもガールフレンドのいる男などごく少数だった。
いまの大人たちの方がずっと、生身の女に相手にしてもらえない青春を送ってきたのだ。
そうして、胸の大きな女は少なかったから、そういう女を神聖視したり怖がったりしていた。
しかし今の時代は、胸の大きな女子高生などいくらでもいる。
またいまどきの彼らは、中学になっても、むかしよりもずっと男女が接近した関係の学校生活を送っている。
たとえば女子は、平気で男子のことを呼び捨てにする。それくらい男女が近すぎる関係を生きてきた結果として、「巨乳ロリ顔」がセックスシンボルの文化がつくられてきたのだ。
世間では、オタクの男子はもてないと決めてかかっているが、オタクの男子のそばにはオタクの女子がいるのである。
彼らは、生身の女から相手にされていないのでも怖がっているのでもない。そんなのは、むかしの男たちの傾向だったのだ。
いまの大人たちは、いかにも生身の女に慣れているような顔をしてそうした解釈をしながら悦に入っているのだが、自分たちの思春期の男女関係がいかに貧しかったかということをなんにも自覚していない。
むかしの若者のセックスに対するイメージの方が、ずっと非現実的でバーチャルなものだったのだ。
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     3・いまどきの男子と女子
いまの若者にとっての「巨乳ロリ顔」は、きわめてリアルで現実的な女性像(セックスシンボル)なのだ。
彼らは思春期のときからずっと男女が接近した環境の中で生きてきて、女子のおっぱいやお尻がだんだん膨らみはじめてくる現象をつぶさに見ているし、そうなってきたことの女子自身の困惑もちゃんと知っている。
とすればその画像表現は、困惑している女子に対する「それでいいんだよ」というメッセージであると同時に、その現象に対して興味しんしんでときめいているということの表現でもあるはずだ。
おっぱいがふくらみはじめてきた女子自身は、たとえばいったいどこまで膨らんでゆくのだろう、という困惑はあるはずである。できるだけ大きく膨らませたい女子もいるだろうが、ほとんどの場合、あまり大きくなりすぎても困る、という意識はあるにちがいない。
おっぱいの大きな女は頭が悪いという社会通念を気にするというよりも、そうなれば服が似合わなくなるし、体を動かすことのじゃまにもなる。
とすれば、その大きなおっぱいの表現は、女子たちのそういう困惑をなだめる役割にもなっている。
現在の若者のエロマンガの世界は、大人たちのその世界よりもずっと男女の連携を持っているのかもしれない。それが、接近し過ぎた男女の関係を生きてものたちの描くエロスの世界かもしれない。
とはいえ、多くの女子がけんめいに痩せようとしている世の中だ。
実際問題として、痩せている女子の方が男にもてるし、男たちの卑猥な視線に会わないでもすむ。何かにつけて、痩せてスタイルのいい女の方が社会的なアドバンテージを持っている。
それでも、セックスの現場では、いつの時代も痩せている方がいいということはない。
痩せている方が抱きしめた感触がいいというわけではないし、それが女であることの証明になっているわけでもない。
とうぜん男は、おっぱいやお尻がふくらんでいる方が女を感じる。
おっぱいなんてべつにとくべつ大きくなくてもいいが、抱きしめ合ったときに、合わさった胸の表面にそのふくらみの柔らかい弾力が伝わってきて「そこに二つのおっぱいがある」と感じることは、男のときめきである。
どんなかたちのおっぱいがいいというよりも、「ふくらんでいる」というそのことに対するオマージュとして、ああいう表現になっているのではないだろうか。
あたりまえにいって女のおっぱいはふくらんでいるのが自然だろう、という感想。
そしてなぜ「ロリ顔」かというと、現在の若者たちのイノセントを象徴しているのだろう。
それほどに彼らは、大人たちの作為的な精神世界にうんざりしている。
彼らはきっと、大人たちのそうした世界から「敗走・逃走」して、自然に遡行しようとしているのだ。
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     4・「ふくらむ」ということ
「萌え」という言葉は、どのようにして生まれてきたのだろう。
若者たちはなぜあえて、このような古風な言葉を選んだのだろう。
現在の彼らにとっては、どんなモダンな言葉よりも、この古風な言葉がもっともしっくりするらしい。
「萌え=萌ゆ」の「も」は、「藻」の「も」、「盛る」「持つ」の「も」。「混沌」「増殖」の語義。
「も」という音声は、そういうニュアンスで発声される。
「持つ」は、力をふくらませること。
「燃える=燃ゆ」は、炎がふくらんでくる現象のこと。
「も」という音声は、胸に思いがふくらみあふれてくる感慨から生まれてきた。
「混沌=やわらかい」、「増殖=ふくらむ」。
「萌え」とは、「やわらかくふくらむ」こと。
硬いつぼみがやわらかくふくらんでゆくことを「萌える」という。
そして現在の若者だって日本語を使う日本人だからこそ、「萌え」という言葉のそういうニュアンスを直感で感じてしまっているのだろう。癒されて、やわらかく胸の中の思いがふくらみあふれてくることを、「萌え」という。
だから、女の子のおっぱいがふくらんでくることだって、やっぱり「萌え」なのだ。
彼らの心はいま、自然に遡行しようとしている。それだけ現代社会の作為的な動きに追いつめられていて、その反動として「天然」とか「萌え」という言葉が生まれてきた。
「萌え」とは自然としてのイノセントのことだともいえる。
そういえば、むかしだって、「巨乳ロリ顔」のアイドルはいた。
柏原芳恵とか榊原郁恵とかアグネス・ラムとかキャンディーズのスーちゃんとか、いろいろいたような気がする。
それはもう、若者の普遍的なセックスシンボルのひとつのパターンなのかもしれない。
なぜなら若者とは、社会の制度的な文化に抗してイノセントな自然に遡行しようとする存在だからだ。
おっぱいが大きいというより、「やわらかくふくらんでいる=萌え」ということに心を動かされるのだ。
またそれは、ペニスの硬さをなだめるもの、という無意識的なイメージもあるのかもしれない。
しかしむかしの若者は、それほど大人たちに追いつめられていたわけではない。団塊世代は、全共闘運動で自分たちの大学の教授を吊るし上げにするなど、大いに大人たちを攻撃していた。
それに対して現在の若者たちは、身動きならないほど大人たちから追いつめられている。もう、そういう社会の仕組みが出来上がってしまっている。そういうことからの「敗走・逃走」として、より過激な「巨乳ロリ顔」のセックスシンボルを生み出したのかもしれない。
そしてこの現象を、単純に、空疎なバーチャルの世界だ、といってすませてしまうことはできない。
なんといっても、世界に通用する「ジャパン・クール」の文化なのだ。そういう豊かな表現は、深く追いつめられたいたたまれなさを持っているから生まれてくる。
そこには、それなりに切実で豊かな想像力がはたらいているのではないだろうか。
あまり追いつめられていなかったむかしの若者は、このような世界的普遍的な文化は生み出せなかった。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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