目的なんかない・「漂泊論」76

<はじめに>

このページをクリックしていただき、ありがとうございます。
このたびブログランキングに登録し、そこで一日一回のクリックをお願いするからには何か口上を差し出さねば、と思い立って書いています。
とはいうものの、お願いできるような柄ではないのかもしれません。
どちらかというと嫌われもののブログです。
「そうじゃないだろう」とすぐ言いたくなって、けっきょくいつも嫌われる。
こちらとしては、ひとまずアンチテーゼを差し出せばおたがいが次のステップの思考に進む足がかりになると思っているだけなのだけれど、何か悪意があるように受け取られてしまう。
まあ、「人間とは何か」ということを探求したくてこのブログをはじめました。
僕は、人と話すときに、興味がある話題になると、なんでもかんでも頭に「でも(but)」を付けてアンチテーゼを差し出そうとしてしまう癖があります。
悪い癖です。
このブログもそのノリで非常識反常識的なことばかり書いているから、せっかく来てもらってもほとんどの人に嫌われて、おもしろいと思ってくれる人なんかほんのひとにぎりなのでしょう。
やっぱり、世界中を敵に回しても「それは違う」といいたいことがある。気取っているといわれそうだけど、俺が負けたら人間の真実が滅びる、という思いもないわけではない。
しかしそれでも本心は、できるだけたくさんの人に興味を持って読んでもらいたいと、そればかり願っています。
そのはざまで、悪戦苦闘しながら書いています。
われわれは「人間とは何か」という問題を、もう一度根底から考え直した方がいいのではないか。そういう時代にさしかかっているのではないか。
べつに世のため人のためというつもりはさらさらないし、自分でもなぜこんなことをするのかよくわからないのだけれど、ひとまず何もかも打ち捨ててこのブログをはじめました。
もしも読んで気に入ってもらえたら、どうか、1日1回の下のマークのクリックをよろしくお願いします。それでランキングが上下します。こんなことはあなたにとってはどうでもいいことなのだけれど、なんとか人に見捨てられないブログにしたいとせつに願っています。

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<本文>

目的なんかない・「漂泊論」76

     1・目的をもたない性衝動としての旅
旅に出ようとすることだって、ひとつの性衝動である。
性衝動とは命のはたらきのことだ、ともいえる。
命のはたらきとは、生きてあることのいたたまれなさを忘れようとすることだ。
生きてあることを忘れることが、生きてあることだ。
生きてあることのいたたまれなさを忘れようとして、人は旅に出る。
目的地なんかない。
旅の醍醐味は、生きてあることのいたたまれなさを忘れることにある。
人類の歴史において本格的に旅をした人たちとは、日本列島の歴史でいえば、旅の僧とか旅芸人とか旅の乞食とか、まあそういう人たちになるのだろうか。
彼らはみな、生きてあるいまここのいたたまれなさからの「敗走・逃走」として旅に出た
この先に待っている幸せやときめきを目指すとか、そんな現代人の趣味娯楽のような動機で旅に出たのではない。とりあえずこの社会から落ちこぼれた敗者として逃げて出ていっただけである。
西行芭蕉だって、そのように生きてあることのいたたまれなさにせかされ、漂泊の旅に出た。
それはもう、世界中の本格的な旅人はみんなそうだったのだ。人類の旅の根源的なかたちは「漂泊」にある。
すなわち、命のはたらきのダイナミズムは、目的をもたない衝動にある。
生き物は、生きようとしているのではなく、生きてあることに「反応」しているのであり、それを命のはたらきという。
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     2・勃起しようとする目的があるのではない
われわれの命のはたらきは、未来に向かって「追走」しているのではなく、あくまでも「いまここ」からの「敗走・逃走」としてはたらいている。生き物とは、そのような存在ではないだろうか。
現象的には未来に向かっているようなかたちになっているが、じっさいには未来を目指しているのではなく、じつは未来を目指すことによって命のはたらきが弱くなる。
たとえば、男はセックスをするためにペニスが勃起するのかといえば、そうではない。勃起をすることにそんな目的はない。
基本的には、知らない間に勃起してしまうだけである。
小さな子供でも勃起する。そのとき小さな子供がセックスをイメージしているかといえば、そんなはずはない。彼は、セックスの何かも知らない。
勃起をすることに目的などない。ペニスがなんらかの刺激を受ければ、それに反応して勃起するだけである。
セックスをすることは生き物の生態だが、セックスをしようとして勃起するのではない。勃起した結果として、セックスという行為になる。
勃起してしまったペニスをそのままにしておくわけにはいかない。それは異常事態だから、なんとかしようとする。そうして、セックスという行為になる。
勃起しなければ、セックスという行為は起きない。
まあ、いろんなセックスのやり方があるのだろうが、それはともかくとして。
根源的には、勃起しようとする衝動などというものがあるはずない。だから小さな子供でも勃起してしまうし、高校生は、昼間でも道を歩いていて突然勃起したりする。
それは、生き物としての異常事態なのだから、そこに向かおうとする衝動などあるはずがない。
それでも、刺激を受ければ反応して勃起してしまう。
男のペニスには、刺激を受ければ反応してしまういたたまれなさが宿っている。
おしっこがたまるからおしっこをするのであって、おしっこをしたいという先験的な衝動があるわけではない。それと同じだ。ペニスは、そういう刺激=異変に敏感に反応するようにできている。
ペニスは、反応する装置であって、何かの目的を持っているのではない。
命のはたらきそのものが、何かの目的を持っているのではない。この世界に反応するはたらきなのだ。
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     3・反応するということ
「どうして勃起したのですか?」
「セックスをするためです」
こんな会話は基本的には成り立たないのだが、われわれのふだんの社会生活ではそういうことが成り立つつもりになってしまっていることが多い。
だから「種族維持のためにセックスをする」とか「セックスをするために勃起する」などという合目的論が出てくる。
世の中はそういういい方や思考で成り立っているのかもしれないが、それは、われわれが生きてあることの真実ではない。
勃起しようとするのではない。刺激に対する「反応」として勃起してしまうだけなのだ。
命のはたらきは、何かの目的を持って起きているのではなく、「反応」として起きているだけなのだ。
「命のはたらきは生きる目的を持って起きている」という思考に凝り固まってしまうと、「反応」という実際の命のはたらきが鈍くなってくる。人はそうやって大人になるのであり、やがて勃起できなくもなる。
生き物にとって生きてあることはいたたまれないことなのだ。しかしだからこそ、そこから「反応」という命のはたらきが起きてくる。
生きようとするのではない、生きてしまうのだ。勃起してしまうのだ。
欲情(エロス)というのは、「反応」する意識であって、何かの目的を持っているのではない。
目的を持っていないから、それがセックスに向かうこともあれば、旅に向かうこともあれば、学問にも芸術にも向かう。
それはもう、人それぞれの置かれた状況による。
その性衝動(エロス)が、数学の数値に反応して起こることもあれば、文字や色彩やお金に反応することもある。
人間は、他の動物以上に深く生きてあることのいたたまれなさを抱えているから、何かにつけてすぐ「反応」が起きてしまう。
それはもう、男のペニスだけの現象ではない。
言い換えれば、性行為という目的を意識したからといってペニスが勃起するわけではない、ということだ。
勃起したから、性行為をするのだ。
人類は、いつもセックスしたがっていたから一年中発情=勃起するようになったのではない。二本の足で立って生きてあることのいたたまれなさを深く抱えてしまったから、いつでも勃起してしまう存在になり、一年中セックスしている猿になったのだ。
勃起してしまったペニスをなだめるためにセックスをするのであって、セックスをしようとか種族を維持しようなどという先験的な衝動(本能)=目的があるのではない。
だからべつにセックスなんかしなくてもいいのだが、数学をやろうとすることだって性衝動のひとつだともいえる。
性衝動には「目的」がないから、それが数学の衝動として発動されても不思議ではない。
男は、セックスに向かって勃起するのではない。生きてあることのいたたまれなさからの「敗走・逃走」として勃起する。
言い換えれば、意識がどれほど強くセックスに向かっても、この「敗走・逃走」という契機を持っていなければ勃起できない。そうやって焦っている大人が、この世の中にはたくさんいる。
また、勃起できないことに居直って「セックスのことなんか関係ない」と言い出す大人もいるのだが、やっぱりそういうわけにもいかないのだ。
セックスに関係ないことだって、セックスに関係があるのだ。
生きるということ自体が、性衝動として起きている。
それは、目的のない「敗走・逃走」の衝動である。
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     4・命のはたらきは、目的のない衝動として起こる
原初の人類は、あの山の向こうに新しい土地があるとか新しい人がいるということを目指して旅をしたのではない。
彼らは、そこに新しい土地があることも新しい人がいることも知らなかった。だから、原理的にそんな目的を持つはずがない。
ただもう、いまここに生きてあることがいたたまれなかった。そういう性衝動とともに人類は、地球の隅々まで拡散していった。
それは、目的のない漂泊の旅だった。
人類の目的が、人類の歴史をつくったのではない。
人類は歴史のなりゆきに反応して生きてきたのであって、歴史をつくってきたのではない。
命のはたらきに目的はないのだから、気がついたら歴史はすでに存在しているのだ。すでに勃起しているのだ。
命のはたらきに目的はないのだから、気がついたら社会はすでに存在しているのだ。人間は、社会をつくろうとする目的を持っていない。
社会が人間をつくる。人間は、社会に反応して人間になる。
僕がなぜこんなことをくだくだと書くのかというと、この世の中はあまりにも合目的論で合意されてしまっていて、その壁の厚さはちょっともうどうすることもできないのではないかと絶望的になってしまうからだ。
それでも、それは真実ではない。
彼らは、人間の言葉がこの世界(社会)や人と人の関係をつくっている、という。
そうじゃない、この世界(社会)や人と人の関係から言葉が生まれてくるのだ。
赤ん坊や幼児は、はじめに世界を知り、そのあとにそれぞれをあらわす言葉を覚えてゆくのであって、先に言葉を覚え、それによって世界を知るということなどあるはずがない。
彼らはそこで、言葉によって世界がつくられてあることに気づくのではない。世界によって言葉がつくられている、つまり、世界の存在の仕方が言葉になっている、と気付くのだ。
言葉によってだます人間とだまされる人間がつくられるのではあるまい。だます人間がだます言葉を選ぶのだ。だまされる人間がだまされるのであって、同じ言葉でもだまされない人間はだまされない。
はじめにそういう人と人の関係が存在するのだ。
なのにこの世は、「言葉が世界(人と人の関係)をつくる」と当たり前のようにいう人間にあふれている。
人間は生きようとする目的を持って生きている、と決めてかかっているからだ。勃起させようとする目的を持って勃起させることができないでいるくせに。
すべての現象に原因と結果があるとしても、目的などというものはない。
現代人は何がなんでも人間の意思が社会や歴史をつくったことにしておこうとする。
しかし、そういう合目的論で生きることによって、現代社会のさまざまな矛盾や病理があらわれてきている。
われわれの自然は、けっきょくその不自然から追いつめられてぎくしゃくしてしまっている。
そうしてわれわれの不自然は、われわれの中の自然から逆襲されて病理的になってゆく。
勃起しようとする目的を持っても勃起は起きない。勃起してしまうだけだ。
人間の自然は、目的のない衝動を持っている。命のはたらきのダイナミズムは、そこで起きている。
人間が目的で思考し目的で行動する生き物なら、地球の隅々まで拡散してやせた土地や寒い土地にしがみついているなどという不合理なことは起きていない。
いまどきの歴史家は合目的論で考えてばかりいるから、いつまでたってもおかしな歴史解釈がはびこることになる。それでは説明がつかないのに、無理矢理それで説明しようとばかりしている。
花には咲こうとする衝動や目的がある、などという科学者はいるまい。
しかし人間はべつだ、と多くの人がいう。人間には生きようとする衝動や目的を持っている、それが人間であることの証しである、と。
そうじゃない、人間は猿よりももっと「自然」としての「目的のない衝動」が旺盛な存在なのだ。
だから、一年中発情している生き物になった。
数学にさえ発情してしまう生き物になった。
だから人間は、漂泊の旅に出る。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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