近代の旅とエロスの不在・「漂泊論」77

<はじめに>

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とはいえ、あまりポピュラーなモチーフではありません。
基本的には、人類史のさまざまな「起源論」の考察を通して「人間とは何か」ということを探求してゆきたいと思っています。
現在は、旅の起源を考えるシリーズです。
ここで紡いだ言葉を「あなた」に届けたい。べつに世のため人のためというつもりはさらさらないし、自分でもどうしてこんなことに熱中するのかよくわからないのだけれど、どうしても「あなた」に届けたい。
「嘆き」とともに生きてある「あなた」に届けたい。人間存在は、生きてあることの「嘆き」の上に成り立っているということを突き止めたい。そのことがわかれば、われわれはなんとか生きられる。
うまく生きてゆく方法なんか僕は知らないし、知ろうとする意欲もありません。
ただもう「人間とは何か」ということが気になって仕方がないだけです。
そうして、世界中を敵に回しても「それは違う」といいたいことがある。
俺が負けたら人間の真実が滅びる、という思いがないわけではありません。
人間の真実は、「嘆き」とともに生きてある「あなた」のもとにある。
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<本文>

近代の旅とエロスの不在・「漂泊論」77

     1・「エロス」とは目的のない衝動のこと
けっきょく歴史家は、人類はなにかの目的を追いかけて旅をはじめたと思っている。
そうじゃないのだ。
人間の思考や行動を生むのは「エロス」の衝動であり、「エロス」とは目的のない衝動のことである。
原初の生命は、死んでしまう存在として発生した。
死んでゆくはたらきを、生命という。
であれば、意識は根源において、生きてあることを否定するようにはたらいている。
すなわち、命のはたらきのダイナミズムは、生きてあることを否定するようにして生まれてくる。
生きてあることを厭うことが、よりダイナミックに生きることなのだ。
生きてあることの「嘆き」が、われわれを生かしている。
命のはたらきのしくみは、たぶんそのようになっている。少なくとも男のちんちんは、そのようにして勃起している。
原初の人類は、生きてあるいまここのいたたまれなさからの「敗走・逃走」として旅に出ていったのであって、べつに何かの目的があったわけではない。
人類は、二本の足で立ち上がることによって、猿よりももっと深く生きてあることの「嘆き」を抱えている存在になった。そしてそれは、猿よりももっと自然な存在になることだった。
原初の人類が二本の足で立ち上がったことは、猿よりももっと弱い猿になって、猿よりももっと深く自然に遡行してゆく体験だった。
彼らは、同類の猿(たぶんチンパンジー)から追われてどんどん逃げていった。
何はともあれ人類拡散は、生きてあるいまここのいたたまれなさからの「敗走・逃走」の旅だった。人間は、そういうエロスの衝動を猿よりももっと深く豊かに抱えている。
そうやって目的もなくひたすら逃げ回っているうちに、地球の隅々まで拡散してしまったのだ。
エロスとしての目的のない旅、すなわち「漂泊」は、人類の歴史の伝統である。
われわれ現代人が旅をすることにときめいているのも、人間の自然として、そして歴史の無意識として、エロスとしてのそうした「漂泊の心性」が胸の奥に潜んでいるからだ。
人間の旅は、渡り鳥のように、どんなに苦しくても目的地にたどり着く、というようなものではない。
根源的には、目的地のない旅なのだ。
だから、たとえば江戸時代の東海道五十三次の旅のように、宿場宿場のたのしみを味わう性格になってくる。それは、われわれの中の「漂泊の心性」によるのだ。
ところが、近代の旅は、目的地に行って帰ってくる、という渡り鳥の旅のような性格に変わってきた。
そのために、宿泊施設が飛躍的に充実するようになった。
ただの漂泊の旅なら寝床さえ確保できればいいだけだが、そこに逗留するとなると、それだけではすまなくなる。
近代に入って生きてあることに対する人類の意識が、目的のない漂泊を味わうことから、目的を実現する達成感を得ようとする方向に変わってきた。
まあ、それによって資本主義が発達したというか、資本主義が人類の意識をそういう方向に変えたというか。
そうして現代の歴史家は、人類の歴史そのものを、すべてこの目的達成の「合目的論」で語っている。
人類の文化は「計画を実現する知能」を獲得したことによって生まれ育ってきたんだってさ。
まったく、何をバカなことをいってるのだろう。そのような「知能」などというものは、近代になって肥大化してきた一種の強迫観念にすぎないのだ。
原始人が石器を生み出したのも、洞窟に壁画を描くようになったのも、目的など持たないフリーハンド(漂泊)の心のよってもたらされたのだ。
石器を知らない段階で石器をつくろうという目的など、原理的に持ちようがない。石器をつくろうとして石器を生み出したのではない。壁画を描こうとして描いたのではない。生きてあることのいたたまれなさから「敗走・逃走」して漂泊する心が、そのいたたまれなさをなだめようとして石と石をぶつけ合ったり、壁にあれこれ落書きしたりして実験しているうちに、気がついたら石器が生まれ、壁画が出来上がっていたのだ。
現在の科学や芸術でも、高度であればあるほど、答え(目的)のないフリーハンドの試みとしてなされている。
命のはたらきの根源としての「エロス」とは、目的のない衝動なのである。
そういう「漂泊の心性」にこそ人間の人間たるゆえんがあり、それはもう、原始人だろうと現代人だろうと同じなのだ。
人間の考えることや行為は、すなわち生きるということは、フリーハンドの「実験」なのだ。
そのようにして歴史は流れてきた。
このことを、世の歴史家の多くは、なんにもわかっていない。
われわれ現代人の観念はすでに目的を追いかけるようにつくられてしまっているが、自然としての心の動き(エロス)は目的のない衝動としてはたらいる。その衝動とともに人間の歴史は流れてきたのであり、いまなお人間的な文化や文明はそこにおいて生成している。
男のペニスが勃起するのも、人が旅をしたがるのも、数学者が数式にときめいているのも、つまるところは「目的のない衝動」なのだ。
人間は、そういう衝動がダイナミックにはたらく契機となるような、生きてあることのいたたたまれなさを深く抱えて存在している。
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     2・「エロス」とは、「わからない」という感慨のことだ
生きることは、答えのないフリーハンドの実験だろう。
目的達成の予定調和の旅なのか?そうではあるまい。そういう満足がわれわれを生かしているのか?そんなことあるものか。
答えのないフリーハンドの実験を生きているから、他者や世界と出会ってときめくのだ。
目的達成の満足を生きようとするものは、他人を支配して自分の思う通りに動かそうとする。他人を、自分が思う通りの人間だと決めてかかっている。他人を、自分の思う通りの人間にしてしまおうとする。
そういう目的が達成されれば、きっと満足だろう。
しかしそこに、他人に対するときめきはない。
現代人は、コミュニケーションという美名のもとに、そうやってたがいに支配し合って社会生活をいとなんでいる。
しかし、人と人の関係は、ほんらいそういうものではないだろう。
答えのないフリーハンドの心で他人の前に立つから、ときめきもする。
他人とかかわることが、自分が持っている答えを確認するだけの行為であるのなら、満足はあっても、ときめきなんかあるはずがない。
ときめいている人は、「わからない」というフリーハンドの心で世界や他者の前に立っている。それが、人間の自然(=エロス)だ。
誰の中にもそういう心の動き(=エロス)は潜んでいる。けっきょく人は、そのような心の奥に潜む自然としてのエロスの衝動が発動して旅をたのしんでいるのだ。
現代社会はあまりにも予定調和の目的追求で動いているからこそ、旅によってそうした自然に遡行しようとする衝動も盛んになる。
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     3・「けがれ」とは?
日本列島の古代人は、世界や他者に対するときめきがなくなってゆくことを「けがれ」といった。
現代人は、世界や他者と濃密に関係しつつ、世界や他者のときめくという関係を喪失している。
関係を喪失することを「けがれ」という。
意識が自分にばかり向いて世界や他者にときめかなくなってゆくことを「けがれ」という。
生理中の女は、意識が自分(の身体)のことばかりにわずらわされて、世界や他者に対するときめきを失ってしまう。だからその状態を「けがれ」といったわけで、べつに血で汚れて不潔だからとか、そういうことではない。
「けがれ」とは、関係を喪失すること。
だから、一般人との関係を喪失した差別されている人たちのことも「けがれ」というようになってきた。
しかしもともとは、意識が自分や自分の身体に張り付いて離れないことの鬱陶しさを「けがれ」といったわけで、人間は、根源において「けがれ」を自覚している存在なのだ。
息苦しいとか腹が減ったとか、そうやって意識が自分の身体に張り付いてしまうことは「けがれ」以外の何ものでもない。
いつの時代も、人間にとって旅とは、みずからの「けがれ」をそそぐ「みそぎ」の行為だった。
現代社会で旅が盛んだということは、ふだんはそれだけ「けがれ」をためこんだ暮らしをしているということだ。会社や学校に行くことだけでなく、ふだんの人と人の関係をはじめとするすべての物事が、予定調和の満足を追求するだけのものになって、ときめく心がどんどん希薄になってしまっている。
現代社会には、人を旅に向かわせる「けがれ」が充満している。
まあ、お金でものを買うことは、予定調和の目的達成である、もっとも典型的な行為である。
お金の世の中だから、目的を達成することこそ人間の幸せであり人間の自然な欲求である、と合意されてしまっている。
現代人は、「目的」に憑かれてしまっている。そして人々はそれを人間の本性のようにいうのだが、そうじゃない、それは、人間の不自然であり、病理であり、「けがれ」なのだ。
「夢をかなえる」とかなんとかいっちゃってさ、そうやって徹底的に自分に執着して、人にときめかなくなり、他人なんて自分の夢をかなえるための道具だと思うようになってゆく。
一見他人との関係が濃密になっているようだが、みんな他人を利用し合っている。そういうニヒリズムが、現代社会に蔓延している。
しかしそれでも人間は、心の奥で「目的のない衝動」を疼かせている生き物であり、それが人間の自然なのだ。
だから人は旅に出る。
それでも人は人にときめいている。
ときめいて男は、ペニスを勃起させている。
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     4・エロスの不在の世の中
性行為という「目的」を思い浮かべることによってペニスが勃起するのではない。
ペニスは、刺激に対する反応として勝手に勃起してしまう。ペニス自身は、性行為なんか何も目指していない。
言い換えれば、性行為という目的を持ったからといって、ペニスが勃起するとはかぎらない。
人は、目的に憑かれることによって、性的なポテンシャルを失う。
現在のこの国では、若者だけでなく、この国全体が性的なポテンシャルを失っている。
それはもう、バブル景気で、予定調和の目的達成のお祭り騒ぎに舞い上がってしまったことのつけだろうか。
目的達成の自己充足ばかりに執着していれば、世界や他者に対するときめきなんかどんどん薄れてゆく。
人と人の関係は密着している。男と女はかんたんにセックスする関係になるし、居酒屋のお客は平気で店員にクレームをつけるし、ブティックの店員は「何をお探しですか」と馴れ馴れしく客に寄ってくる。
庶民は知ったかぶりして政治家をバカ呼ばわりする。なんだかみんな、自分が世の中を動かしているつもりで、こうすればいいああすればいいと発言したがっている。
未来の社会が、人間の思い描いた通りになると思っている。そうやって、すっかり「目的」の取りつかれてしまっている。
お金による予定調和の関係にならされてしまって、何かが麻痺してしまった。
たぶん、人に対する恐れとかときめきというものが薄くなってしまっているのだ。
人や世界に対するその馴れ馴れしさは、いったいなんなのだ。
ときめいていないから、馴れ馴れしくなれるのだ。
人にも世界にも、「わからない」というおそれがないから、馴れ馴れしくなれるのだ。
いまどきの大人たちは、自分が若者をはじめとする他人に幻滅されたり気味悪がられたりするかもしれないというおそれを持っていない。
自慢すれば他人が尊敬してくると思っている。
自慢話によって他人に尊敬されようなんて、おそろしいニヒリズムだ。
言葉が関係(=世界)をつくると思っている。
すでに関係が存在している、ということのおそれがない。
人は、あなたの姿かたちや存在そのものに対して、すでに何かを感じてしまっている。
言葉によって人の心を支配できると思っているその卑しさにうんざりしている。
「言葉が世界をつくる」だなんて、人に対して馴れ馴れしい人間の考えることだ。
人に好かれたいとか尊敬されたいというその目的意識が、あなたの顔つきをいやしいものにしている。
バブル景気に浮かれ騒いだお金の世の中が、そういう目的意識に憑かれて他人に対して馴れ馴れしい人間をあふれさせた。
人と人の関係は、お金をやり取りするような予定調和の関係ではすまないのだ。
つまり、現代社会は人と人が疎遠なのではない、お金のやりとりの関係に慣れきっているその馴れ馴れしさが性的なポテンシャルを減退させているのだ。
その自己充足をめざす目的意識が、性的なポテンシャルを失わせているのだ。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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