エロスとしての旅の衝動・「漂泊論」74

      1・旅は、一種の性的な衝動である
人類史における旅の起源は、女が、サバンナを横切って隣の森の集団に身を寄せていったことにある。
サバンナを横切ることが原初の旅だった。
この生態は、直立二足歩行開始直後の猿人の時代からはじまっていたらしい。彼らはすでに、集団どうしで女を交換していた。
人類が地球の隅々まで拡散していったことの契機も、根源的にはこの生態にある。
人類がサバンナに出ていった契機は、サバンナを横切って隣の森に旅していったことにある。
世の人類学者がいうように、食料を求めてサバンナに出ていったのではない。安直に食いものの問題で歴史を考えようなんて頭悪すぎるのであり、それはきっと真実ではない。
漂泊の「旅」として出ていったのだ。
なぜそうした旅に出ていったのか。
いまここに生きてあることがいたたまれなかったからだ。
「いまここ」がいたたまれなかったし、「生きてあること」がいたたまれなかった。
それはまあ、一種の性的な衝動である。
人類が猿と分かたれてあることのしるしのひとつとして「一年中発情している」ということが挙げられるとしたら、それは人類の生態をつくる大きな要因になっていたはずである。
食い物のことはたいした問題ではない。人類がなんでも食うようになったのは、飢えたからではなく、食い物なんかなんでもよかったからだ。
べつに飢えていたわけではないから猿のレベルを超えて身体や脳が大きくなってきたのだし、飢えていたわけでもなくなんでも食っていたから味覚が発達してきたのだ。
人類にとっては、食い物よりも、いまここに生きてあることのいたまれなさにどう折り合いをつけてゆくかという問題の方がずっと切実だった。
二本の足で立っていることの不安定さと生存上の危うさは不可避的にそういう意識を芽生えさせるし、そのとき人類は、身体的にも精神的にも猿よりももっと弱い猿だった。
人類が一年中発情している存在になったのは、つねに生きてあることのいたたまれなさを抱えて暮らしていたからだ。
生き物が発情するとは、この(身体の)いたたまれなさがふくらんでくることにある。猿のメスの性器が赤くはれ上がってくることだって、まあそういうことだ。
べつに、「種族維持の本能」などというようなものによるのではない。そんな本能などはありはしない。
原初の人類にとっては、食い物よりもそうした「エロス」の問題の方が切実だったのであり、このことが「旅」という生態を生み出した。
かれらは、いまここに生きてあるこのいたたまれなさにせき立てられて旅に出た。
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     2・女のエロス
人類の旅がなぜ女からはじまったのかといえば、女の方がいまここに生きてあることのいたたまれなさを深く抱えている存在だからだ。
女は、もともと体温の上下動が激しい体質だし、成長とともに身体の形質が大きく変わってゆく。しかも、思春期以後は、ずっと毎月のさわりという受難を体験し続けなければならない。
女の方がセックスの快感が深いというのも、男よりもはるかに深く生きてあることのいたたまれなさを抱えているからだ。
そういういたたまれなさにせかされて人類は旅に出た。
いまここに生きてあることのいたたまれなさがなければ、人類拡散もなかったし、一年中欲情している存在にもならなかった。
何かを求めて、という以前に、まず「いたたまれなさ」があった。エロスとは、そこから逃れようとする衝動のことだ。
セックスだけじゃなく、旅に出ることだってそういう衝動だった。
まあ、人間の思うことや行動することの底には、この「エロス」の衝動がはたらいているのかもしれない。
いまここに生きてあることのいたたまれなさが、人間を人間たらしめている。
そういう意味で、女の方がより人間として本質的である。
女に比べると男は、猿に近い。
しかし男だって、猿よりは深く生きてあることのいたたまれなさを抱えているから、一年中発情しているようになった。
男が一年中発情しているようになったから、女もそれにつきあってやった。そうして、一年中セックスしていることによって女はもう、性器の発情のしるしを外に示さなくなっていった。二本の足で立つ姿勢になって性器が股間に隠されてしまった、ということもある。
もともと生き物のメスは、エロスの衝動がそのままセックスの衝動にはなっていない。
人間でも猿でも犬でも鳥でも魚でも、オスがやりたがるからやらせる、というのが通常のパターンである。
女のエロスは、セックスに向かわない。
女は、セックスから逃げようとする。だから、感じてくると「いや」とか「だめ」などという。セックスから逃げることがセックスをすることらしい。
動物の求愛するオスは、何度でもメスから追い払われ、逃げられる。
女は、男の体に違和感を持っている。その違和感が、セックスのエクスタシーになる。
そのとき女は、意識が自分(の身体)から引きはがされて、男の身体ばかり気になっている。それがエクスタシーになる。
つまりそのとき女だって、自分(の身体)に対する鬱陶しさが極まっている(欲情している)という契機がなければ、そういうエクスタシーはやってこない。そういう契機が起きているときに、オス(男)の求愛を受け入れる。
そういう契機が起きていないときに男のペニスに侵入されても、ますます自分(の身体)に意識が張り付いてしまう。
というわけで、女は誰とでもセックスできると同時に、誰ともセックスしたがらない。
女のエロスは不可解だ。
女のエロスは、男から逃げようとする。そのようにして原初の森の成人したばかりの女は、エロスに目覚めたがゆえに、森の集団の男たちから逃げていこうとしたのだろう。
思春期の少女は、エロスに目覚めたがゆえに、男から逃げて孤立してあろうとする。男を拒否しつつ男にあこがれている。
思春期の惑乱、まあそのようなものが、人類の旅の起源になったのだろう。
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     3・敗走のエロス
人類拡散の契機になったのは、たとえば「食糧調達のために草食獣の群れを追いかけていった」とか、そういうことではない。
そういう「追走」の物語ではない。
それは、いまここに生きてあることのいたたまれなさから逃れようとする「敗走・逃走」の衝動にあった。
そういう「エロス」の衝動が、人類拡散をもたらした。
四足歩行の猿が二本の足で立ったこと自体が、すでに「敗走・逃走」のエロスの衝動によるものだったのであり、人類拡散は、すでにそのときからはじまっていた。
人類は、700万年前ころに、アフリカの中央部だけに生息する猿として発生した。
最初はまあ、チンパンジーと同じような猿だった。しかし、体格も知能もまだそうした猿たちとたいして違わない300万年前ころには、ほぼアフリカ全域に拡散していた。いまだにアフリカ中央部にとどまっているチンパンジーと違って、すでに最初から拡散する猿だったのだ。
そうしてアフリカを出ていったのが200万年前ころといわれているのだが、そのときでもまだ猿とたいして違わない体格で、もちろん草食獣を追いかけて狩をすることなど、まったく知らなかった。そんなことをするようになったのは、すでにユーラシア大陸の全域に拡散したあとの、せいぜい数十万年前以降のことだ。
二本の足で立ち上がった原初の人類は、ほかの猿よりもずっと深く生きてあることのいたたまれなさを抱え込んでいた。それが、拡散の契機になった。
それは、「エロス」の衝動であり、逃げようとする衝動だった。
そういう衝動が、人間を人間たらしめている。
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     4・この国の若者たちは追いつめられている
ともあれ僕は、けっきょくいつもと同じことをいっているだけである。
「追走」とは「作為性」のことで、「敗走・逃走」とは「せずにいられないこと」のことだ。
この生なんかうんざりだけど、それでも人間は生きるようにできている。その事実とどう折り合いをつけるか。その事実にせかされながら人間の文化や文明が生まれてきた。
しなければならないことなど何もない。それでも人間は、その事実にせかされて何かをせずにいられなくなる。
たぶん、追走することを全部やめたとき、そのことに気づかされる。
思春期の少女は、胸やお尻がふくらんできて、困惑し途方に暮れている。そうやって彼女らは、未来に向かって追走することを失っている。しかし、それによってはじめて何かにせかされながら生きてあることに気づく。
少年だって、別の人種ではない。彼らもまた、みずからの身体の成長に戸惑っている。そうして、自分がいまここに生きてあることに対して、「わからない」と身もだえして生きている。大人のように、この生の秘密がわかったつもりにはなっていない。
彼らは、社会的な合意の価値観から離れて、自分たち固有の「現在」を模索している。それは、「追走」することをやめ、生きてあることのいたたまれなさから「敗走・逃走」している態度である。
大人たちは、「命の尊厳」とかなんとかいって、そういう「せずにいられないこと」を持っていないから、知性も感性も鈍磨してしまっている。胸の中の空虚を埋めようとしていつも何かを追いかけているだけで、若者のような胸がはちきれそうな思い(=ときめき)というものがない。
文明人であることは、困ったものだ。あれやこれやと価値を追いかけながら、それが人間の本性だと居直っている。
そういうところから追いつめられて若者は、「かわいい」とか「萌え」の文化を生みだした。そしてそれがなぜ「ジャパンクール」として世界中の若者から支持されているかといえば、追いつめられたところから生まれてくる「敗走・逃走」の文化だからだ。
この国の若者ほど大人から追いつめられているものたちもないのかもしれない。
バブル景気の騒ぎでボケてしまったこの国の大人たちには、人間の普遍性としての、生きてあることのいたたまれなさが希薄であるらしい。そういうことは、若者の方がずっとよく知っている。知っているものでなければ、世界に通用するような文化は発信できない。
「かわいい」とか「萌え」というのは、ひとつの「エロス」なのだ。そのことを、次回に考えたいと思う。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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