生きてあることのやりきれなさ・「漂泊論」73

   1・お祭りにしてしまわないと生きていられない
人間の歴史は、どうしてこんなところに来てしまったのだろう。
正しく進化してきた、といえるのだろうか。これが、人間の歴史の必然的な帰結だろうか。
人間は、自分たちの望むところにたどり着いたのだろうか。
原始人は気の毒で現代人は幸せだということもなかろう。ないけど現代人は、ひとまずそういうことにしておこうとする。そういうことにしないと生きていられない事情でもあるのだろうか。
歴史の流れであれ人が生きてあることであれ、ひとつの「漂泊」であって、人間にもともと何かを達成しようとする衝動などあるのだろうか。
そういう「漂泊」ということに耐えられなくて、現代人は、予定調和の人生を生きようとするし、予定調和の歴史観で語ろうとする。
誰にとっても、生きてあることは鬱陶しいことだという側面はたしかにある。
それでも、生まれてきてしまったからには、生きてゆくしかない。人間なんて、そうやって生きているだけの存在だからこそ、生きてあることの価値だの幸せだのを欲しがる。
べつに価値だの幸せだのというものがなくてもいいではないか。
それでもわれわれは、すでに生きてある。
息を吸わなくても息苦しいと思わなければ、腹が減ってもしんどいと思わなければ、けがをしても痛いと思わなければさっさと死んでゆけるのだが、心も体もつい生きるようなかたちではたらいてしまう。
生きることなんか、「自分」のあずかり知らない心や体が勝手にやってしまっている。そうして「自分」は、いつだってあとから「生きている」と知らされる。
うんざりしても、われわれは生きてしまっている。
われわれは、生きようとしているのではない。生きてしまっていることとなんとか折り合いをつけようとしているだけだ。
折り合いをつけようとした結果として、「生き物は生きようとする衝動(本能)を持っている」ということにしておきたいだけだ。
そんな本能などというものはない。ただもう、心も体も、この世界との関係のなりゆきとして生きてしまうようなシステム(構造)を持ってしまっているだけだ。
べつに生きていたいわけでもないのだけど……という思いは、誰の中にもある。だからこそ、ひとまず「生きようとしている」ということにして納得したいのだ。
われわれは、生きようとしているわけではないが、生きてしまっている。
生まれてきたかったわけではないが、生まれてきてしまった。
「人間(生き物)は生きようとする本能を持っている」ということにしておきたい人はたくさんいる。
しかしそれでも人は、どこかしらで「べつに生きていたいわけでもないけど……」という思いを抱えて生きている。だからこそ、さまざまな予期せぬ人間模様や人生模様が生まれてくる。
生きるとは、予期せぬ出来事を生きることだ。予期せぬ出来事と出会うから、心がときめく。
あなたにもし、ときめく心があるのなら、それは、心の奥に「べつに生きていたいわけでもないけど……」という思いを抱えているからだ。
生きてあること自体に価値や幸せがあるのなら、世界や他者にときめくことなんかあってもなくてもいい。自己愛に浸ってそういう価値や幸せをまさぐってばかりいることによって、ときめく心も幻滅する心も希薄になってゆく。
自分が生きてあることに幻滅しているから、心は自分から離れて世界や他者にときめいてゆく。
人間は生きてあることに対する幻滅を負っている存在だ。それが生物学的な意味での生命力になるのだし、そこから人間的な文化や文明が生まれてきた。
それでも人間は絶望しないで生きてしまう。生きることなんか、命のシステムが勝手にしてしまっている。
「自分」にできることは、生きることでも死ぬことでもない。すでに生きてあるという事実とどう折り合いをつけるかだ。
そして折り合いをつけることは、生きてあることに価値を賦与することではなく、生きてあることを忘れて世界や他者にときめいてゆくことだ。
深く幻滅すれば、深くときめいてゆく。
われわれは、知らぬ間に生きてしまっているし、知らぬ間に世界や他者にときめいてしまっている。
生き物に、生きようとする衝動(本能)などというものははたらいていない。
したがって人間は、根源的には、未来をつくろうとする衝動は持っていない。
つまり歴史は、人間がつくろうとしてつくってきたものではなく、生きてしまったことの結果なのだ。
現在のこの世界は、人間の意思や願いによってつくられたのではなく、「なりゆき」としてこうなってしまっただけなのだ。
そして未来も、「なりゆき」にまかせるしかない。
人間社会は、未来をつくろうとする意思で動いているのではない。
われわれは、生きてある今ここと折り合いをつけようとしているだけの存在なのだ。
生きてある今ここと折り合いをつけようとしているときにこそ、命はもっともダイナミックにはたらく。そういう衝動によって、歴史はなるようになってゆく。
・・・・・・・・・・・・・・・・
   2・漂泊する心
人間社会はなぜ現在のようなかたちになったのかという原因なんか、じつはわからない。なるようになってきただけだ。
たとえ原因があったとしても、人間はそういうことにあまり興味がない。
たとえば僕がだめな人生を送ってしまったのはなぜかといえば、だめな人間だったからだ、というだけでは説明がつかない。
だめな人間が必ずしもだめな人生を送るとはかぎらない。
運がいいとか悪いといっても、よくわからないことだ。
われわれが「なぜ?」と問うとき、ほんとうにその原因や目的を知りたがっているだろうか。
「あなたはなぜあんなろくでもない男に惚れてしまったの?」というとき、その原因や目的を知りたがっているのではない。そんなものは、おおよそ察しはついている。ただもう「バカねえ、信じられないわ」といいたいだけだ。
オリンピックの選手に、われわれファンが「なぜ負けてしまったのだ」というとき、べつに原因や目的が知りたいのではない。負けてしまったというそのことに納得がいかないだけだ。
われわれは、あり得ない物事が起きたときに、「なぜ?」と問う。その「あり得ない」ということそれ自体に対するやりきれない感慨の表出として。
それは、子供が「なぜ飛行機は空を飛ぶのか?」と聞いているときだって同じである。そのわけを知りたいのではない。その「あり得ない」ということそれ自体に対する驚きやときめきの表出としてそういったまでだ。
人間がなぜそんな問いをを持つかといえば、自分が今ここに生きてあることそれ自体に対して「あり得ない」「わけがわからない」というなやましさややりきれなさの感慨を持っているからだ。
「なぜ?」は、根源的にはそういう問いなのだ。
わけが知りたいのではない。それは、つねにあとになってから知らされることだから、わけを知ってもどうにもならないのだ。それはもう、取り返しのつかない事態である。
彼女がつまらない男に引っかかったのも、オリンピックの選手が負けてしまったのも、もう取り返しがつかないのだ。
わけなんか聞いている場合ではない。いまここのこの事態とどう折り合いをつけるかという問題があるだけだ。
相手の身になって思えば、そういうことになる。それがたがいに共有する問題であって、わけが知りたいということなんか、こちらの勝手な好奇心にすぎない。自己愛ばかり強くて「他者」という意識がないから、そういう聞き方になる。
いまどきは、そんな聞き方をしたがる大人がけっこう多い。それで人間通の人格者ぶっているのだから、ほんとに始末に悪い。自分の満足ばかり求めて、相手のことなんかなんにも思っていない。
自分のこと、というか、自分の未来ばかりまさぐっている。そういう自己愛のつよい人間が、未来の社会を自分の思うようにつくりたがるのであり、人間の歴史が人間が構想した通りに動いてきたと思いたがる。
「世のため人のため」といいながら、じつは彼らの思想や歴史観には「他者」がない。
根源的には、人間の行為や思うことは、他者や世界との関係から起きてくる。何かを思うことも何かをすることも、つまりはそういう状況からうながされているだけなのだ。
人間の歴史も、われわれがこの世に生まれてきていまここに生きてあることも、ひとつの「漂泊」なのだ。
われわれは、存在そのものにおいて、すでに「漂泊」しているのだ。
「なぜ?」と問うことは、原因や目的という「故郷」を捨てた「漂泊」の感慨なのだ。
人のころは、自分を離れて「漂泊」している。そうして「他者」と出会う。
われわれの心は、自分を納得させようとしているのではない。「わからない」という事態の中を「漂泊」し、「わからない」という事態と折り合いをつけようとしているだけだ。
つまり、この世に生きてあるという事態はわけがわからないことであり、そのやりきれなさや心細さが心の底に流れていて、いつもそのことと折り合いをつけようとしている「なぜ?」という問いが生まれてきた。そうして、その問いから、人間的な文化や文明が生まれてきたのだし、それが命のはたらきなのだ。
人は、わかったつもりになることによって、心が停滞してときめくことを失い、顔つきがブサイクになり、インポになったりもする。
自分を納得させることに耽溺してしまったら、知性も感性も停滞し、ときめかなくなる。
人の心は「漂泊」している。そしてそれが生命力でもある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1日一回のクリック、どうかよろしくお願いします。

人気ブログランキングへ
_________________________________
_________________________________
しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

幻冬舎書籍詳細
http://www.gentosha-r.com/products/9784779060205/
Amazon商品詳細
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4779060206/