進化の究極

まだ少しショッピングモールについて考えたいことがあります。
   1・未来はどっちだ?
映画の未来都市のCGなどでは、超高層ビルがひしめき合って、いったいここにはどれだけの人が住んでいるのだろうと思わせられるような途方もない規模に描かれていることが多い。
たとえば、東京だけで5千万人とか1億人が住んでいるというような未来が、果たしてやってくるのだろうか。
都市は人口が流入してくるところだが、そのためには、流入してくる人口も確保されていなければならない。
東京の人口が5千万人になるためには、やっぱり日本全体が5億人くらいにはなっていなければならないのだろう。
しかし、現在の日本は、人口が減り続けている。
だったら、2百年3百年先の未来の東京が、途方もない規模のビルがひしめき合っているというようになるとはかぎらない。
高層マンションが理想の住処だと思っている人は、そうはいない。たいていの人は、庭付き一戸建ての家を終の住処としたがっている。
やっぱり人間だって生き物なのだから、高層マンションで暮らしていると、心が不安で落ち着かなくなってくる。もちろんその不安で落ち着かない心がビジネス活動に向かうエネルギーになるのだろうが、死ぬまでその心で生き続けることはできない。最後にはどうしても、生き物として身体がなじむことのできる生活空間に落ち着いてゆこうとする。
今は都心の高層マンションに暮らしていることが一種のステータスになっているのだろうが、彼らが未来の人類の暮らしを体現している人種だといえるのかどうかはわからない。
それはあくまで現代社会のかたちなのだ。
現在の価値観や社会システムがそのまま未来に延長してゆくと考えたがる人は、あんがい多い。
まあ、人間の描く未来像なんて、たいていがそんなものだ。
これは、遠い未来のSF映画だけではなく、われわれの社会の10年先20年先のことだって、現在の延長として考えていると、たいてい間違う。
いまどきの経済予測なんて、来年のことすら間違うことの方が多い。
この社会がどのように動いてゆくかなんてわからないのだ。
社会のなりゆきなんて、気まぐれなもので、人間の思う通りには動かない。
ベルリンの壁がこんなにもあっけなく壊れるなんて、誰も予測できなかった。
ショッピングモールが10年先20年先も繁栄を謳歌しているとはかぎらない。それは、あくまで「現在」の現象なのだ。
「ショッピングモールは未来の都市の景観である」だなんて、いまどきのバブル世代の知識人たちは、何をとぼけたことをいっているのだろう。
ようするに、彼らはそう思いたいのだ。人間は、そういうかたちでしか未来を想像することができない。
彼らは消費者として生きていたいし、消費者として生きることが人間の普遍性であり自然だと思っている。
まあ女にもてないブ男や欲求不満の主婦たちは、そんなふうに考えたがる。
ものを売るがわにとっては、お客様は神様である。自分をプレゼンテーションしてつねに人より優位な立場でいたい彼らにとっては、神様の立場で歩きまわれるショッピングモールという空間は天国だ。
まあこの消費行動が習い性になっている団塊世代やバブル世代がこの世からいなくなったころには、世の中もずいぶん様変わりしているにちがいない。
消費行動が習い性になっているものは、自分を見せびらかして人より優位な立場に立とうとする意欲が強い。消費行動の快楽は、そこにある。
彼らは主体的に商品を選択しているつもりらしいが、そのときその商品によって欲望を喚起させられているだけである。
つまり、商品から選択され、選択させられているのだ。消費とは、そういう行為である。
彼らは、本能的に他者から選択されたいとう欲望が強い。しかしそれは、金で商品を買うようにはうまくいかない。うまくいかないから、消費行動でその恨みを晴らし続けるしかない。
人が消費行動に執着してしまうことには、何か不自然で病理的な契機が潜んでいる。
人は人を好きになる生き物だが、人から好かれたいと思うことの不可能性を負っている。人の心はわからないのだから、好かれたいと思うことにはつねに欲求不満がまとわりついている。
どんなに人からちやほやされようと、好かれたいと思うことそれ自体に欲求不満がまとわりついているから、内田樹先生や上野千鶴子氏や東浩紀氏のように、それでもまだ自慢話を垂れ流し続けて生きていかなければならない。
自然な状態において、人間は人に好かれていると自覚することはできないし、したがって人に好かれたいという衝動も持たない。
消費行為に慣れ過ぎると、人の心は不自然になる。欲求不満だから消費行為に走るし、消費行為に走るから欲求不満になる。
彼らは「ショッピングモールは人と人のつながりが生まれる公共空間である」という。つまり、そこで生まれる「つながり」とは「お客様は神様だ」という自分が優位に立てる関係であり、それを手放したくないのだろう。
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   2・機械という作為性
都市の未来のかたちを問うなら、人間とは根源においてどのように思いどのように行動をする生き物だろうか、ということも問われなければならない。そういう生態とともに、未来の都市のかたちが決まってゆく。
人間がどんなに作為的に都市をつくろうとしても、最後には人間としての自然に添ったかたちに収斂してゆく。
つまり、現在のアメリカやこの国の新自由主義や消費社会は、人間の自然によって淘汰されはじめている。われわれはいま、そういう歴史の曲がり角に立っているのではないだろうか。
グローバル資本主義は、現在の世界の趨勢かもしれないが、それが人間の未来の社会のかたちであるとはいえない。
アメリカ人にとっては、人間とは神に支配されている存在であり、「神の意志」を実現してゆくことが進化であるらしい。
しかし、人間が考える「神の意志」なんか、しょせん「人間の意志」でしかないだろう。
アメリカ人は、「神の意志」というスローガンのもとに「正義」を捏造し、徹底的に作為的になってゆく。
彼らにとってあるべき人と人の関係は、たがいに神の正義を共有しつつ、たがいに支配しあっている関係になってゆくことである。つまり、たがいに神の正義に支配されている存在になること。
そうやって神の正義=意志を信じつつ、どこまでも作為的になってゆく。
だから彼らは、人間の作為の実現である「機械(マシーン)」が好きである。それは、神の意志=作為の実現でもあるのだろう。
彼らにとっては、すべてのものには神の意志=作為がはたらいているのだから、生き物が進化すればどんどん機械に近づいてゆくことになる。
彼らにとっては、オートバイも自動車も飛行機も、もっとも進化した生き物のような存在である。
「エイリアン」という映画に登場する異星人の姿は、なんだかハーレー・ダビットソンのオートバイみたいなデザインだ。
都市の景観だって、彼らは、精密機械の内部構造のように描きたがる。
神の意志=作為によって完璧に支配された社会こそ、彼らの描く未来像なのだ。
消費行為は、お金という「神」によって支配と被支配の関係が完璧に成立し、しかもそこで両者はよろこびに包まれている。それは、徹底的にメカニカル(=作為的)で安定した人と人の関係である。
アメリカ人にとっては、消費行為こそ究極の人と人の関係なのだ。そこから、「アメリカンドリーム」というスローガンが合意されてゆく。
したがってショッピングモールという徹底的にメカニカル(=作為的)な消費空間は、アメリカ人にとっては究極の進化した都市としてイメージされている。
彼らは、消費行為によって心の安定を得ている人種なのだ。そしてそれはひとまず神の支配のもとに安定した状態だと自覚されているのだが、彼らはまさにその消費行為を信奉する思想によって、どの国の人間よりも不安定な欲求不満と強迫観念をたぎらせている人種になっている。
お金という神を介した消費行為は、もっとも安定した人と人の関係であると同時に、もっとも人の心を空虚で不安定にする関係でもある。
そのとき売るがわも買うがわも、「他者に選択されている」という実感を抱く。しかしそんな実感は、消費行為の場でしか得られない。もともと人の心などわからないのだから、根源的には不可能で不自然な実感なのだ。
人の心なんかわからない。だから、ふだんの消費という関係ををともなわない人間関係の場では、その「自分は他者(あるいは神)に選択されている」という実感が得られず、つねに欲求不満と強迫観念をたぎらせていなければならない。
人の心などわからないのだから、「人に好かれている」という実感を持つことは不可能なのだ。
それでも人は人を好きになる。そこに、人間の人間たるゆえんがある。
なのに彼らは、「人に好かれている=他者に選択されている=人と人のつながり」という実感から生きはじめようとしている。そうやってアメリカ人はいま、世界でいちばん不安定な欲求不満と強迫観念をたぎらせた人種になっている。抑鬱剤とかの薬をがぶ飲みしちゃってさ。
いや、現在の日本人だって同じ穴のムジナだ。「人と人のつながり」などというスローガンがいかに不自然かということを思い知った方がよい。それは、「結果」として生じるものであって、自然としての人間のスローガン=目的には原理的になり得ないのだ。
20世紀の世界をリードしてきたアメリカの思想は今、人間としての自然に淘汰されようとしている。
ショッピングモールだって、いずれは人間としての自然に淘汰されるほかない不自然で作為的な空間であり景観にすぎないのだ。
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自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
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