都市文化の成熟の行方

   1・通過儀礼としてのショッピングモール
もう少し、ショッピングモールにこだわります。
今や大型ショッピングモールは、新興地の町はずれの景色のひとつになりつつある。
もちろん東京という大都市にもある。羽田空港、お台場、東京スカイツリー、等々に併設されている。
だから、都市の景観のように語られることも多い。
しかしそれらは、地方からの観光客が集まってくるところである。そういうところに、コンパクトに都市的な匂いを味わい消費できる施設があれば、そりゃあよろこばれる。あくまで、東京以外の人間のための施設なのだ。
東京にだって、地方から出てきた人々が住んでいる。だから、そういう人々のための消費施設も当然生まれてくる。
都市への人口流入は、昔からつねに起きている。
人口流入が起きているところが都市だともいえる。
とくに戦後は、工業化や高度経済成長とともに、その現象がかつてないほどダイナミックに起きた。
もはやもともとの都市住民よりも、新しく流入してきた人口の方が多くなり、それらの人々が高度経済成長とともに都市の有力な消費者層になっていった。
彼らが新しい都市の暮らしに馴染むためにもっとも必要なものは、都市住民として認められ、都市住民として自覚することである。
都市流入者のそういう願いを満たすための新しい消費施設となったのが、1969年に開業した池袋のパルコというショッピングモールだった。
まあこれが、ショッピングモールブームのはしりだったのだろう。パルコは、都市住民になりたがっている若者たちから圧倒的に支持された。パルコで買った服を着て街を歩けば、都市住民になったような気分になれた。
そのときパルコは、都市住民になるための通過儀礼の場だった。
古くからの都市住民は、すでにどこで買いものをするかということが決まっているから、わざわざパルコになんか行かない。しかしパルコの中には、そうした都市住民を顧客にしている小売店が出店していたのだった。
パルコは、都市流入者たちの消費欲をみごとにとらえた。それは、都市住民として認められ自覚したいという願望だった。
パルコというショッピングモールは、都市流入者を都市と和解させる場であった。それはもう、お台場や羽田空港東京スカイツリーのショッピングモールと同じだろう。
ショッピングモールは、都市化の景観であるが、都市そのものの景観ではない。
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   2・都市の景観と町の景観
では、ほんとうの都市の景観とは、どのようなものなのだろう。
高度資本主義は、世界中を都市化させる。
今や、日本中が都市化してきて、日本中にショッピングモールがつくられてきている。
都市とは、人間が住む場所のもっとも進化したかたちなのだろうか。
ニューヨークが都市だとすれば、パリは町だろう。
東京が都市だとすれば、京都は町だろう。
パリも京都も、ニューヨークや東京よりもずっと歴史は古いのに、いまだに都市になり切れないで「町」の風情を残している。
都市がさらに進化すれば「町」になってゆく、ということだろうか。
人間が住む場所のもっとも進化したかたちは、「町(タウン)」なのだ。
東京がどんなに都市化しようと、古くからの住民は、「町」としてそこに住もうとしている。
麻布や白金台や四谷や浅草の住民は、東京という都市を住みかとしているのではなく、麻布や白金台や四谷や浅草という「町」を住みかとしている。
都市流入者や都市周辺の新興地のものがどんなに都市住民を気取っても、古くからの都市住民からは相手にしてもらえない。
都市住民は「町」を持っているが、都市流入者は「町」の文化を身体化していない。
新興地の住民も、歴史としての「町」の文化を持っていない。
その土地の歴史は、「町」の文化をつくる。浅草には浅草の文化があり、白金台には白金台の文化がある。それぞれの住民は、「町」としてそれなりに文化的な棲み分けをしている。
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   3・身体がなじむということ
「町」の景観とはどんなものだろうか。
「三代住めば江戸っ子」といわれるが、人は都市住民になれば「町」を意識しはじめる。「江戸っ子だってねえ」、「神田の生まれよ」、というように。
東京=都市だけを意識しているあいだは、まだ都市住民ではない。「住み着く」とは、「町に住み着く」ということだ。
都市流入者の一生のあいだでも、だんだん「町」を意識するようになってくる。それは、暮らしの中の「景観」になじんでくるからだ。
夕飯の準備の買い物に、よその町までは行かない。
朝夕の挨拶は、同じ「町」の住民どうしで交わされる。
そのようにして「町」の景観に馴染んでゆく。
身体が馴染んでゆくのだ。歩いてゆける範囲、すなわち歩いて眺める景観が「町」の景観である。
身体が「町」になじんでゆく。
ビルだけが、都市の景観ではない。
柴又の寅さんの映画には江戸川の土手の景観が定番だし、そのときに大きなショッピングモールが見えたら興ざめだろう。
「町」を歩いて印象的なのは、パルコのビルよりも、小さな花屋の店先だったり、路地を横切る野良猫だったりする。そのようにして、身体が「町」になじんでゆく。
京都の人にとっては、ビルよりも、町から眺める鴨川や比叡山のほうがずっと身体に馴染んだ「都市の景観」にちがいない。
比叡山は、四条河原町から眺めていちばん美しいのだ。
「ショッピングモールは都市の景観である」だなんて、「田舎っぺが何を垢抜けないことをほざいてやがる」と京都の人にいわれるだろう。
ショッピングモールの景観には、歴史や町の文化を持たない野暮ったさがどうしてもついてまわる。その建物は、都市住民になりたがっている新興地の住民や都市流入者の強迫観念を反映している。
もしもこの国の未来が、都市文化の成熟(進化)とともにあるのだとすれば、それはショッピングモールによって実現されるのではない。
都市文化が成熟(進化)するのなら、ショッピングモールは衰退するほかない。
アメリカの田舎町じゃないんだから。
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   4・都市の成熟の行方
人間の歴史が必ずしも成熟に向かうとはかぎらないが、行き着く先はどこにあるか、という問題はあるにちがいない。
都市が進化すれば、「町」になってゆく。
人々は、「町」というレベルでまわりの景観に身体をなじませてゆく。
人間だって身体を持った生き物なのだから。
われわれは、身体を持った生き物として生まれ、死んでゆく。
人は、身体を世界に馴染ませてゆくというかたちで生きている。それが、「文化」という名の生きる作法である。
都市に身体をなじませることはできない。「町」というレベルの世界に身体はなじんでゆく。
だから都市は、必ずその内部に「町」を持っている。
意識は、身体のレベルで世界に反応してゆく。
荻窪に家があるなら、荻窪という「町」の住民だし、そこから大手町の会社に行けば、大手町という「町」の住民になる。アフターファイブに六本木のレストランやバーでデートをすれば、六本木という「町」の住民の気分になる。そうして渋谷道玄坂のラブホテルにしけ込めば、渋谷という「町」の住民になる。
都市にだって、「町」という景観がなければそこを歩くことはできない。
「町」という景観は、身体ががなじむことができる景観である。
だから、路地裏の猫だって、ある人にとっては「町」の景観であり、都市の景観にもなる。
そういう意味で、はたしてショッピングモールの建物や内部の空間は、都市の景観や「町」の景観になり得ているだろうか。
われわれは、そこに身体をなじませることができているだろうか。
まさか「私はイオンのショッピングモールの住民です」というわけにもいくまい。
しかし、いつも六本木でデートしていれば、気分ははもう六本木という「町」の住民なのである。それは、身体が六本木という「町」に馴染んでいるからだ。
都市が成熟すれば「町」になる。これが、歴史の法則だ。
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   5・ショッピングモールは疑似的な都市空間である
もちろん、ショッピングモールのことを「ショッピングタウン」だという人もいるだろう。
しかしそのとき身体は、そこになじんでいるだろうか。
お台場のショッピングモールには、天井全体がスクリーンとなって昼間の空が映し出されたり、夕暮れの空になったり夜の星空になったりする場所がある。
そういう疑似的な空間になれば、身体もまた疑似的になる。そこでは、疑似的な身体が疑似的な空間になじんでいる。閉じ込められているのに、閉じ込められているという感じがしない。閉じ込められているというそのことが快感になる。
閉じ込められることが快感になる装置。一種の胎内回帰の体験だろうか。
支配するとは、閉じ込めることであり、閉じ込められることに快感を与えることである。
共同体とは一種の疑似空間であり、そのようにして人を支配してゆくシステム装置である。
閉じ込められ支配されることの快感を生きているものは、身体も世界も疑似的なものになっている。
ヨーロッパの教会の天井には、天国や地獄の絵が描かれてあったりする。そうやって世界が疑似空間として完結し、人の心を支配している。
まあ、お台場の天井のスクリーンも、そのやり方を踏襲したのだろう。新しいようでそれは、きわめて古典的宗教的な支配の手法である。
そのとき人は、疑似身体を持つことによって、身体を喪失している。つまり、身体が空間になじむ、という作法を喪失している。言い換えれば、ほんとうの身体を意識すれば、ものすごく閉塞感を感じてしまう空間である。
ショッピングモールの中の空間は、胎内空間という疑似空間であり、疑似的な都市の空間なのだ。
そうして身体もまた疑似的になってゆく。
ショッピングモールのトイレでお産をしてしまった女子高生は、その事態に対する身体的な実感が希薄だったために、産み落とした赤ん坊もリアルな存在に感じられなくて、ビニール袋に入れ、そのままま虚ろな心でフードコートの隅に置き去りにしてきてしまった。
ショッピングモールとは、そういう空間なのだ。
そこは、あくまで疑似的な都市であって、ほんとうの都市そのものではない。
われわれの意識は、胎内回帰をすれば救われるのか。
そういうわけにはいかないだろう。けっきょくは、生まれてきてしまったことと和解しなければこの生ははじまらない。
歴史は、なんのかのといっても、生まれてきてしまったことと和解する方向に流れてゆく。人の心も、けっきょくはそのようにして落ち着いてゆく。
擬似的な世界の擬似的な身体で、疑似的な支配し支配される関係のよろこびに浸っても、生きていればほんとうのこの鬱陶しい身体を思い知らされる。
この鬱陶しい身体を抱えているという現実と和解しなければ、生きられない。そういう和解の作法は、ショッピングモールにはない。
都市に住めばなおのこと、この鬱陶しい身体をなじませることのできる「町」がなければ生きられない。
生きていれば、意識はつねにこの鬱陶しい身体に引き戻されてしまう。この事実と和解しなければ、人は生きられない。
胎内回帰すればそれでいいというわけにはいかない。人の心は、いつだって生まれてきてしまったという事実と和解しようとしている。そのようにして都市はやがて「町」になってゆく。「町」として細分化されてゆく、というか。
人は、「町」にしか生きられない。それは、人間もまた、身体を持った生き物という存在だからだ。
ショッピングモールが未来の都市文化のかたちだなんて、そりゃあんまりですよ。
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