ショッピングモール再考

ショッピングモール再考*1346344077*[漂泊論]
   1・人間はもともと、人と人のつながりなんか求めていない
現代人はなぜ、ショッピングモールという空間に引き寄せられてしまうのだろうか。
ほどよくおしゃれで便利で都会的な買い物ができる。
こういうサービスは駅前商店街にはない。
だから、駅前商店街がさびれてゆくのは当然だ。地元の人と人のつながりがあるといっても、それは、買い物とはまた別の問題だ。そんなことでお客に買い物をしてもらおうなんて、虫がよすぎる。
そんなことだけで、ショッピングモールに勝てるはずがない。
人は、人と人のつながりよりも、買い物のたのしみの方を優先させる。
これは、資本主義の原理でもなんでもない。
人間はもともと、人と人のつながりなんか求めていない。
原初の人類は、まわりに他者と体がくっつき合っていることの鬱陶しさから逃れようとして、二本の足で立ち上がっていった。
つまり他者との関係から逃れようとして立ちあがってゆき、あらためてそこに新しい関係が生まれていることに気づいた。
それは、連携協力してたがいの身体のあいだに「空間=すきま」をつくり合う関係である。
人と人は、連携協力した「結果」として「つながり」を持つ。これが、根源的な人と人の関係のあり方である。
「つながり」は、連携協力した「結果」として生まれるものであって、最初からあるわけでも、求めているのでもない。
むしろ、つながりの鬱陶しさから逃れようとしているのが人間の本性だ。
その鬱陶しさから逃れて新しい関係を生みだしてゆくのが、人と人の関係である。
駅前商店街は、お客との連携協力として、お客の購買意欲を引き出すようなサービスの努力をしてこなかったのだから、さびれてゆくのが当然である。二本の足で立っている人間の本性として、さびれていって当然なのだ。資本主義のせいじゃない。
駅前商店街を擁護する知識人たちは、「地域の人と人のつながりを復活させなければならない」などというスローガンを掲げるが、人間性の根源にそんなスローガンはない。
「人と人のつながり」を目的にすること自体が、自然ではないというか、すでに病理的なのだ。
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   2・「人と人のつながり」などということをスローガンにするな
ちょっと話はややこしくなるが、人間は「つながり」を求めている生き物ではない。
そういうスローガンを持とうとすると、必ず失敗する。鬱陶しくて逃げ出したくなってしまう。
たとえば、高度成長以降のこの国では、家族そろって遊園地や旅行に行くなどして「家族のつながり」というスローガンを掲げてきたが、それによってかえって家族関係の崩壊を招いている。まあ、そんなようなことだ。そんなことばかりしていたら、お父さんも子供も、いずれは鬱陶しくなって逃げ出したくなる。
「人と人のつながり」などというスローガンを掲げたらいけないのだ。そんなスローガンを押し付けられたら、人は逃げ出したくなる。それが、人間の自然なのだ。
で、ショッピングモール礼讃派の知識人たちは、「ショッピングモールこそ新しい公共空間である」と主張する。
彼らもまた、「人と人のつながり」というスローガンを掲げてそう主張している。
しかし、そこに「人と人のつながり」があるかといえば、そんなこともない。
なぜなら、みんなそこで楽しく買いものをして自足しているのだから、「つながり」など持つ必要がない。そこは、「つながり」の必要などない存在になりに行くところである。
ショッピングモールは至れり尽くせりの施設なのだから、人々はその空間の中で自足してゆく。自足してしまったら、「つながり」など必要ない。
人間は、自足できない存在だから、連携協力して「つながり」を生みだしてゆくのだ。
ひとりひとりが自足できない存在であれば、そこから自然に連携協力が生まれてくる。
もしも高度成長以降のこの国で「人と人のつながり」が希薄なっていったとすれば、その旺盛な消費行動で誰もが自足していったからだ。
そしてショッピングモールは、そうしたムーブメントの総仕上げとして現在に機能している。
今、みんながショッピングモールによろこんでいるのだとしたら、それでもいい。避けがたい歴史のなりゆきなのだろう。しかしそれは、彼らがいうような「未来」ではなく、「現在」のかたちなのだ。
ショッピングモールなんて、あくまでも「現在の消費のかたち」にすぎない。「未来」でもなんでもないし、「公共空間」ではさらにない。
どっちもどっちだ。
「人と人のつながり」とか「公共空間」などというものは、根源的には人間の目的にも正義にもなり得ない。そういう目的を持ってそれを正義だと振りかざした瞬間から人は病んでゆき、それを失う。
「人と人のつながり」なんて、鬱陶しいだけなのだ。人間は、そこから逃れようとする。そうして「結果」として、さらに新しく高度な「人と人のつながり」を得る。
「人と人のつながり」を鬱陶しいと自覚することが、新しい「人と人のつながり」を得る契機になる。
それは、「目的」や「正義」であってはならない。
みんなそれを、鬱陶しがって生きているではないか。
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   3・バブル世代が闊歩している
現在のショッピングモールを称揚している知識人は、40代のいわゆる「バブル世代」に多いのだとか。
まあ「バブル世代」というと響きが良くないから、彼らは、自分たちのことを「ゼロ年代」などといって気取っていやがる。2000年代に入って世に出てきた連中なのだ。しかし彼らの性根は、すでにバブル景気の時代にすっかり毒され決定されてしまっている。
われわれは、そこで何かを病んでしまった。
ショッピングモールは、「バブルの時代のように生きよう」というコンセプトの上に成り立っているのだろう。
だから彼らは、ショッピングモールの空間に入るとなんだかうきうきする、という。
そこはまあ、効率よく充実した消費ができる空間なのだから、バブルの時代のように生きたい人間はうきうきするのだろう。バブルの時代を生きる性根が骨身にしみついている人間には。
そこはたしかに、消費を活性化させる空間なのだ。
しかし、この国の人間全体が彼らのようにそのことに邁進して生きられるかどうかはわからない、物理的にも精神的にも。
アジアの新興国と違って現在のこの国では消費が冷え込んできている、といわれている。
だから、都会では、若者に車が売れなくなってきたり、アウトレットモールや100円ショップが流行ったりもする。
とすればショッピングモールは、そういう現象を押し戻してバブル景気を再現しようとしているのだろうか。
バブル世代の知識人たちは、消費が冷え込んでいることを嘆き、消費を活性化させなければならない、と合唱している。
まあ、多くの政治家や経済人も、この国をそのようにして立て直さなければならない、といっている。
いったんバブリーな暮らしに浸ってしまったものは、もうもとの貧しい暮らしには戻れない。
そうして借金地獄に陥る。
バブルのころから顕在化してきたカード破産は今でも後を絶たないし、国債発行に頼るこの国の経済も、まあそのような状態かもしれない。
消費こそが善で消費せよと煽りたてる世の中なら、質素な暮らしに戻ることなんかできない。
消費が好きな現在のアッパーミドルこそが国の経済を立て直す、消費が好きなわれわれの消費欲を満たすものこそ善であり、消費者がこの国の経済を活性化させる……と彼らはいいたいのだろうか。
消費が好きなバブル世代は、就職氷河期になる前の給料も求人も豊かだったころに社会参加し、そのまま組織の働き頭として順調に社会的地位を伸ばしながら、今なおこの国の消費経済の中心になっている。
現在のアッパーミドルの中心はバブル世代であり、ショッピングモールがいちばん好きなのは、アッパーミドルのバブル世代なのだ。
ひとまず潤沢に消費活動ができる経済力があるのなら、ショッピングモールの文化に浮かれても、カード破産に陥らなくてもすむ。しかし彼らは、何かが病んでいる。
まあ、消費を活性化することも、人と人のつながりというスローガンを掲げることも、次の時代の「新しいもの」にはなり得ていない。
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   4・消費者であることのアドバンテージ
商売をするものにとってはお客様は神様で、消費者になるとはそういう立場になるということだろう。
消費者であるかぎり、他者との関係において優位に立てる。店のお客になることだけでなく、それで女をものにすることもできる。
いまどきの婚活ブームだって、ほとんどそうした経済行為の色合いが濃い。おたがいが、できるだ優位になって売りつけ買い上げる立場になろうとしている。彼らは、そういう消費の習性で人と人の関係をつくっている。
彼らは、他人に対して優位に立つという快感をよく知っていて、その快感がないと生きられない。消費という行為は、そういう快感を与えてくれる。
人と人の関係を「消費」というレベルでしかとらえられない。そういう人にとっては、ショッピングモールはたしかに「公共空間」であるのかもしれない。
われわれの心はすでに、現代社会の消費という関係に毒されてしまっているのだろうか。
人は、不平不満を抱えて成長してゆく。
不平不満のない思春期なんかない。
そこで、どんな不平不満を体験するかということが問題だ。
自分はなぜこの世に生まれてきたのだろう、さっさと死んでしまいたい……と思う若者もいれば、自分が思うほど人から愛されたり評価されたりできないことの不平不満を大人になってから取り返そうと思う若者もいるにちがいない。
まあ、後者の不平不満は、自分で金を稼いで消費者になったり人を支配する立場を獲得したりすることによって解消される。
バブル世代は、そうやって大人になった。
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   5・彼らの心の空白
買い物はストレス解消だ、とよくいわれる。
主婦のいちばん好きな家事は買物(おつかい)らしいが、そうやってストレスを解消しているのだろうか。
買い物の快楽が心の空白を満たすことにあるのだとしたら、その空白とはどんなものだろうか。
夫や子供との関係の不満、あるいは自分の人生の空しさに対する不満。
けっきょく人は、自分の人生の空しさを埋めるように買い物に耽溺してゆくのだろうか。
必要なものを買うことはたんなる労働であって、たのしみにはならない。
あらかじめ必要なものではなく、その商品を前にしてはじめて欲しくなる。欲しくなって、その欲望を満たす……というたのしみ。
ふだんは、もっと充実した人生を生きたいという欲望を満たせないで暮らしている。しかし買い物は、生まれてきた欲望をたちまち満たすことができる。そういう代替行為として、買い物のたのしみが成り立っているのだろうか。
欲望を満たすことが生きることであり、欲望を満たせなければ生きる甲斐がない……と彼女らは思っているのだろうか。
これが、戦後の日本人の生きる作法になっているのだろうか。
商品によって欲望を喚起される、ということが習い性になってしまうと、目の前に商品がない場所に立って、今の自分にとって何が必要か、というイメージが湧いてこない。
たとえば、いまどきの主婦は、正月のおせち料理で何をつくろうかというイメージが湧いてこない。商品としておせち料理を差し出されて、はじめてそのイメージになる。
つくるのが面倒なんじゃない。そのイメージがもてないのだ。
買い物がたのしみだという生き方をしていると、そういうことになる。
生きるいとなみそのもにおいても、自分が今ここにおいてせずにいられないことなど何もない。商品を前にして、はじめて「買わずにいられない」という衝動が起きてくる。
人間を生かしているのは、「せずにいられない」という衝動なのだ。
現代の資本主義社会は、人間の頭を商品に対する反応としてしか動かないようにしてしまったのか。
まあ、そうなってしまったら、そりゃあ買い物が何よりのたのしみになることだろう。ショッピングモールは、人間の頭をそのようにしてしまう。というか、そのような頭になってしまっているから、ショッピングモールをよろこぶ。
自分の中が空白だから、意識はつねにそこに向いて、世界に向いてない。
世界に対するはちきれそうな思いがない。おせち料理に何をつくろうか、とイメージすることすらできない。
商品を差し出されて、はじめて商品という世界に向く。商品を差し出されなければ、意識はつねに自分の中の空白に向いている。
世界や他者に対するはちきれそうな思いがない。
現在は、何もかも商品化される。子供との「夏の思い出づくり」も、あれこれ商品化されているらしい。そんなものは結果として自然にもたらされるだけのものなのに、思い出さえも商品になっていないとつくれないらしい。
親も子も、世界や相手に対するはちきれそうな思いがあれば、思い出は自然につくられる。
自分の中が充実しているから自分に向くのではない。自分の中が空白だから、自分に向いてしまうのだ。
自分の中が充実しているとは、自分が好きで自分をまさぐり続けていることではない。それ自体自分の中が空虚な証拠なのだ。
自分の中が充実しているとは、自分を忘れて世界に対する思いで胸がはちきれそうになっている状態のことだ。そうやって人は「祭り」に熱中してゆくのであり、そうやって今年の正月のおせち料理は何をつくろうかとあれこれ思いめぐらすのだ。
生きてあることは自分忘れて世界や他者にときめいてゆく非日常のお祭りであって、自分という日常を確かめまさぐり続ける消費行為ではない。
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   6・「買う」時代から、「つくる時代」へ
商品を前にしないと心が動かない、すなわち自分を忘れてときめくことができないなんて、何か変ではないか。
しかし近ごろは、料理も、ひところの「買う時代」から少しずつ「つくる時代」に移行しはじめているのだろうか。そうやって料理レシピの本が売れているのだろうか。
スーパーの魚売り場に刺身が並んでいるのは、僕としてはちょっと不思議な光景だ。刺身くらい、自分でつくれるだろう。いやまあ、いいんだけど。
刺身はともかくとして、主婦がただ買いものだけに身をやつしているだけの時代から、少しずつ自分でつくったり交換したりすることのたのしみも覚えはじめてきているのではないだろうか。
商品に支配されることの病理というのは、とうぜん自覚されるようになってくる。バブル世代自身はすでに身についてしまった性根だからもう無理としても、その姿を眺めて育った世代は、同じように生きようとは思わないだろう。
「買う」時代から、「つくる時代」へ……そういう兆しは、探せばいくらでもあるにちがいない。
やっぱり団塊世代やバブル世代は、何かを手づくりする、ということを知らな過ぎる。
僕の母親は、着物は、生地を買ってきて自分で縫っていた。江戸時代の庶民なんか、みんなそうしていた。まあ、誰もがそうやって暮らしている時代があった。
縄文時代の女たちは、生活に必要なものは、土器にしろ漆器にしろ着るものにしろ網や籠にしろ、みんな自分でつくっていた。だから、土器などは、分業制になった弥生時代よりもつくりはずっと凝っていた。
縄文時代に、消費文化などなかった。人々はいろんなものをプレゼントし合っていたが、売るとか買うというような関係はなかった。
そういう「自分でつくる」という伝統がこの国にはある。いや、世界中どこでも、それが人間社会の普遍的な伝統だろう。
ちょっと話が長くなりすぎてしまった。そろそろ終わりにしよう。
ともあれ、いつまでもショッピングモール全盛の時代が続くとはかぎらない。
自分で何かを手づくりするということは、この生のしんどさや鬱陶しさをなだめてくれる。
自分をプレゼンテーションして優位に立った人との関係をつくってゆくのは、団塊世代やバブル世代が得意とするところだ。その能力は、西洋から輸入した思想と消費文化によって鍛えられた。
しかし、この国の歴史において、そんな関係があたりまえになってきたのは戦後のここ数十年だけのことである。
「世のため人のため」とか「市民の自覚」などといいながら、彼らの意識は、つねに自分に向いている。人にときめいているのではなく、大好きな自分を人に売り込みたいだけなのだ。
いま、大人たちがそんなことばかりに身をやつしているのを、若者たちがうんざりして眺めている。
われわれは、人と人の関係の基礎になっている「言葉」というものの機能について考える。
言葉とはもともと、たがいに相手に対するはちきれそうな思いを抱えたものどうしが「たがいに反応し合う」という即興の会話の道具として生まれてきた。
そういう「手づくり」の人と人の関係が、果たしてショッピングモールという空間の中にあるだろうか。
団塊世代内田樹先生や上野千鶴子氏にしろ、バブル世代の代表である東浩紀氏にしろ、人がみな自分を売り込み見せびらかすことばかり身をやつしている世の中なんて、うんざりだ。
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