視覚や聴覚が空間意識をつくるのではない、先験的な空間意識が視覚や聴覚のはたらき方を規定しているのだ。そこのところの想像力のない人に何をいってもしょうがない。
人間の「空間」の感じ方は、ただ二次元的な距離や広さとか、三次元的な空気の広がりのことだけではない。人間の身体や物のかたちだって、ひとつの「空間」として計測されている。
われわれの根源的な意識は、みずからのこの身体を「空間のパースペクティブ」として認識している。
腹が痛いとか、胸が苦しいとか、肩がこったとか、歩き疲れて足が棒のようになったとか、そうやって身体を物体として感じることは、いわば身体が危機的状態に陥っているときである。そんな身体の物性を一切忘れてただ「空間」として感じているときこそ、身体の健やかな状態だろう。
われわれの意識は、すでに身体を「空間」として認識している。だから、前記のような身体が物体として感じられるときは、「空間」である状態に戻ろうとする。身体の苦痛を感じることは、身体の物性を感じることである。
物性を認識することは、「空間ではない」と認識することである。
意識は、先験的に空間を認識している。意識は、空間意識として発生する。
胎児は、空間意識で生きている。胎児にとって胎内は、無限の広がりを持った空間であると同時に完結した空間でもある。完結しているが、けっして閉じられてはいない。
空間意識の根源的なはたらきは、空間のありようを計測することではなく、「空間がある」と認識することである。そうして、空間が「ある」か「ない」かというデジタルなかたちで空間のありようを計測してゆく。
……というようなことをここまで書いてきた。
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われわれにとって「集団」は、ひとつの空間である。人間の集団の性格は、人間の空間意識によって決定されているのだろう。
まず人間は、むやみに大きく密集した集団をつくる。
チンパンジーの集団は、せいぜい100個体が限度である。それに対して人間は、10万人がサッカースタジアムに集まってきたりする。チンパンジーがそんな密集状態に置かれたらたちまち発狂してしまうだけだろう。
人間はなぜ耐えられるのか。
身体の「孤立性=完結性」を、チンパンジーよりも強く持っているからだ。身体の「孤立性=完結性」を強く持っているからこそ、他者と関係しようとするし、密集状態に耐えられもする。
チンパンジーの身体の「孤立性=完結性」は、100個体の集団が限度らしい。それ以上になると「孤立性=完結性」の意識が薄れ、他者と関係しようとする衝動も起きてこなくなり、密集状態の鬱陶しさばかりが募ってくる。
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イワシがあんな大きな群れをつくることができるのは、そんな密集状態でも身体をぶつけ合わなくても泳いでゆけるだけの身体のまわりの空間、すなわち身体の「孤立性=完結性」を確保する能力を持っているからだ。
そのときイワシは、たがいの身体が共鳴しあって同じように泳いでいるのではない。そんなことがしたいのなら、体をくっつけあって泳げばいい。それがもっとも共鳴し合う方法だ。
身体が共鳴し合っているというのなら、彼らはみんな同じ体のくねらせ方をして泳いでいるのか。そうではないだろう。10回くねらせて5メートル進む個体もあれば、15回くねらせないといけない個体もある。それぞれ微妙に体型も泳ぎ方も違う。
みんな勝手に泳いでいる。それでも同じ方向に進んでゆく。
そのときイワシの身体センサーは、他者の身体の存在そのものと潮(=空間)の流れに向かってはたらいているのであって、他者の「身体運動」に向かっているのではない。
彼らは、たがいに身体のあいだの空間を確保し合いながら泳いでいるのであり、そうやって、たがいに孤立し合っているのだ。
先頭グループのある一匹が旋回しようとする動きをすれば、その身体のまわりの潮の流れが変わって両隣りや後ろは、ぶつかりたくないからその流れに沿って同じように旋回態勢に入ってゆく。
しかし両端のグループ同士や先頭グループと最後尾のグループでは、旋回するスピードも時間差も旋回の角度の差もある。つまりそのとき、それぞれがみんな微妙に違う動きをしているのだ。違う動きをしているから、みんなで旋回しているようなかたちになるのだ。
同じ動き(運動共鳴)をしていたら、そうした集団のパフォーマンスにならない。
彼らは、同じ動きをしようとしているのではない。ぶつかりたくないだけだ。同じ動きをすればぶつかってもいいかといえば、そうはいかないだろう。ぶつかるまいとする結果として同じような動きになっているだけだ。同じ動きをすることよりも、「ぶつからない」という身体の「孤立性=完結性」の方がずっと大事なのだ。誰もがぶつかりたくないという一心で泳いでいるのであり、それがなければあの群れのパフォーマンスは成り立たない。
まあ、ぶつかりそうでぶつからない、というスリルと興奮もあるのかもしれない。
イワシにはイワシの熱狂というのがあるのだろう。
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イワシは、なぜあんなにも大きな集団をつくるようになっていったのだろう。
小さな魚はみな大きな群れをつくっているとはかぎらないし、群れない種類のイワシだっている。
したがって、大きな群れのひとかたまりになれば大きな魚のように見えて自分たちを守ることができるとか、そういう「種族維持の本能」で説明するのは、ちょっと違うだろう、と思う。
生き物に種族維持の本能なんかない。
それはきっと、空間意識の発達の具合によるのだ。
サンマやカツオやサケなどのひたすら泳ぎ続ける回遊魚は、だいたい大きな群れをつくる。
泳ぎ続けたから空間意識が発達した、とはいえない。それでは、なぜ泳ぎ続けるようになったのか、という説明がつかない。
大きな群れをつくったからひたすら泳ぎ続ける習性になっていったのだ。
最初から泳ぎ続ける能力があるのなら、一匹だけで泳ぎ続ければいい。それがいちばん気楽だ。他の個体とのあいだの空間に神経を使う必要もない。
彼らは、群れをつくって他の個体とのあいだの空間に神経を使いながら泳ぎ続ける習性になっていったのだ。群れの中で他の個体とのあいだの空間を保つためには、ひたすら同じ方向に泳ぎ続けるのがもっとも効率的である。そうやってひたすら泳ぎ続ける体や習性になっていったのだろう。
まず群れがあって、他の個体とのあいだの空間を維持しようとして泳ぎ続けるようになっていったのだ。泳ぎ続ける習性を持っていたからではない。
とりあえず最初に、数匹か数十匹で泳ぎまわるような習性が生まれたのだろう。それは、他の個体とのあいだの空間を保とうとする意識がほかよりは少し発達した魚たちだった。また群れで泳いでいれば、さらに他の個体とのあいだの空間に神経を使う意識が発達してくる。
そうしてさらに群れが大きく密集してくれば、もう同じところをうろつきまわって餌を探すという行動が困難になる。群れが膨張してゆく状況の中で他の個体とのあいだの空間を保とうとしているうちに、しだいに同じ方向に泳ぎ続けて遠くの餌を探しにゆくという習性が生まれてきた。
遠くに餌があると知ったからそういう習性になったのではない、そういう習性になったから遠くの餌に向かうようになっていったのだ。
みんなで同じ方向に泳ぎ続けているかぎり、他の個体とのあいだの空間は保たれる。
他の個体とのあいだの空間を保ちながら泳ぐことの快楽を知った魚たちがまず群れがつくってゆき、しだいに大きな群れの回遊魚になっていったのだ。そうしてそこまでエスカレートしていったのは、生き延びる戦略というよりも、そうやって大きな群れをつくって同じ方向に泳ぎ続けることの熱狂=快楽があったからにちがいない。
べつにそこまでしないと生き延びられないというわけでもなかったし、もともと生き物に生き延びようとする目的や戦略などないのだ。
近場をうろつきまわっているだけのイワシだっている。
もし大きめのマイワシが一匹で泳いでいたら、そのミサイルのような体形の身体能力からいって、ほとんどの生き物はそれを捕まえることができないだろう。群れをつくっているから動きが制限されて、ほかの生き物に食われてしまう。また、マイワシが群れをつくっていなかったら、それを常食にしようとする生き物もほとんどあらわれてこないにちがいないし、マイワシ自身の繁殖力もいまほど盛んにはなっていない。であれば、それは、生存戦略に最適の選択だとは決していえない。
おそらく「空間意識」の問題なのだ。「身体運動」は、あとからついてきた問題に過ぎない。
他者の身体とのあいだに空間をつくって身体の「孤立性=完結性」の中に身を置こうとする「空間意識」、それが大きな群れをつくって同じ方向に泳いでゆく回遊魚の習性をつくっていった。
身体の「孤立性=完結性」は一匹で泳いでいるよりも群れの中にいる方がもっとクリアに自覚されるし、その自覚が熱狂=快楽にもなる。
世の凡庸な生物学者は、生き物の進化の過程を語るとき、「餌のため」とか「生き延びる戦略」とか、すぐそういう「経済」の問題に収斂させてしまう。
そうじゃない、生き物にとって生きることは「経済=労働」ではなく「遊び」なのだ。新しい進化論は、そういうパラダイムで問い直されるべきではないだろうか。そこから、生き物としてのわれわれの「生きられる意識」のかたちが見えてくるのではないだろうか。
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生き物は、身体の「孤立性=完結性」を確保しようとする。なぜならそれによって身体が動くことが約束されるからであり、それがあってこその集団性なのだ。
原初の人類は、他者の身体とのあいだの「空間(=すきま」」を確保してゆくというかたちで二本の足で立ち上がった。そのようにして人間の歴史がはじまった。だから、この身体の「孤立性=完結性」を約束する「空間」を他者と共有し確保してゆこうとする意識が、チンパンジーよりはるかに切実である。
人と人は「身体運動」を共有して集団をつくっているのではない。人と人が共有しているのはたがいの身体のあいだの「空間」なのだ。イワシだって、そうやって集団をつくっている。
人と人は身体運動を共有して集団をつくっているというのなら、軍隊の行進や北朝鮮マスゲームは人間の自然なのか。彼らの身体と身体はおおいに「共鳴」し「一体化」しているにちがいない。
そんなことが人間の自然なものか。自然であるのなら、訓練の必要なんかない。人間はそういう運動共鳴の苦痛と困難さを身にしみて知っている。彼らは、人間の自然に逆らってそんなことをしているのだ。
共鳴しないで身体の「孤立性=完結性」を確かめることこそ自然なのであり、群れの中でそれを確かめてゆくことは熱狂=快楽になる。そうやって十万人がサッカースタジアムに集まってくるのだ。
人間だけでなく、生き物の集団を成り立たせているのは、身体の「孤立性=完結性」なのだ。そしてそれこそが、生き物に先験的にそなわった「空間意識」にほかならない。
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