生き物であることの根源的な与件は「動く」ということにあるのかもしれないが、われわれは「身体を動かす」という「未来」を共有して存在しているのではないし、動くことによってこの世界の「空間」を認識しているのでもない。
生き物にとって動くことはたんなる「結果」であって、「目的」ではない。「空間」を認識した結果として、動くということをする。
われわれはまず「空間がある」ことを知り、その結果としてみずからの身体の「物性」に気づく。身体が動くということは身体の物性と関係することであるのなら、それをイメージすること自体が、「空間」を知ったことの「結果」だということになる。
われわれは、「空間」を知ったことの「結果」として動きはじめる。あるいは動くことをイメージする。
そこに「身体=物体」と「空間」との関係が生じていること、この前提を持っていることが生き物であることの与件であり、この前提の上に「動く」ということが起きる。それはもう、自動車が走ることでもロケットが宇宙を飛ぶことでも同じなのだ。
自動車やロケットは生き物ではないが、「動く」ということにおいては、その前提を持っているということだ。
生き物の身体は先験的に空間との関係に置かれて存在している。われわれはここから生きはじめる。身体が動くことによって空間を知るのではない。空間を知ることによって身体が動くのだ。
身体が動くことを知っているということは、それ以前に「空間がある」ことを知っているということだ。
空間がどうなっているかというようなことを言い出すから、話がややこしくなり表層的にもなってしまう。そんなことの感じ方は、ひとりひとりみんな違うのだ。それでも、この身体のまわりに空間が広がっているという「現実」は、誰もがこの生の前提として共有している。
身体運動によって現実が生起するのではない、この身体のまわりに空間が広がっているという「認識」すなわち「驚きや怖れ」によって現実が生起するのだ。まあこのへんが、理科系と文科系の一般的な発想の違いなのでしょうかね。あくまで一般論だが。
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われわれは、この身体が「いまここ」に存在しているという事実によって空間を認識しているのであり、その「現実」を共有して生きているのだ。
「空間」は、「いまここ」の実存感覚としてすでに認識されている。
人間は、誰もが死ぬ、ということを共有しているのではない。そんなことは人間が平等であることの根拠にはなりえない。なぜならわれわれは、死んだことがないのだから、ほんとうに死ぬのかどうかわからない存在なのだ。また、体の強い弱いや金のあるなしで死ぬことを免れたり死なねばならなかったりすることの不平等は当然存在するし、この先の時代になればその不平等はさらに大きくなるのかもしれない。
それでも人間は、「今ここ」において存在するというかたちを共有しているし、この生は「いまここ」において完結しているというかたちで人は空間を認識し、この生を生き、死の恐怖を解決しようとしている。
年寄りだろうが若者だろうが、「いまここ」においてこの生が完結しているというかたちを共有しながらわれわれは生きているのだ。それが意識のはたらきの根源のかたちであり、われわれはそうやって空間を認識し、生きてあることの醍醐味を汲み上げている。
この生は「いまここ」において完結している、ということにおいて人間は平等なのだ。
われわれは人間として生き物として、「身体を動かす」という「未来」など共有していないし、そんなスローガンで生きていたら、鈍くさい運動オンチになるばかりだし、肩こりがひどくなるばかりだ。
体を動かせなくなった人はもう、「仮想運動」によってしか空間を認識できないのか。そういう人にそうやって空間を認識せよというのは、とても残酷なことにちがいない。
しかしそれでも人は、「いまここ」において、そんな手続きなしにたちまち空間を認識するのだ。
おまえらだって体が動かなくなったら、きっとそのことがわかるだろう。何をのうてんきなことをほざいていやがる。
人と人は「体を動かす」という「未来」を共有しているのではない。
われわれは、今すぐ死んでゆきそうな人と、いったいどんな「未来」を共有しているというのか。
それでもわれわれは「いまここ」を共有しているし、この生は「いまここ」において完結しているのだ。
「いまここ」において完結する、というかたちで人は空間を認識しているのだ。おまえらみたいな鈍くさい運動オンチにはわかるまい。
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人と人は「身体が動く」ということを共有しているのではない。動く人もいれば、動かない人もいる。そして、個人においても、子供のときと大人になったときでは動き方が違うし、病気になったり怪我をしたりすれば動けなくなったりもする。
一緒に歩いていても、目の前の石ころに気づいている人もいれば気づかない人もいる。そして、一緒に歩いていても、自分だけ石につまずいて転んでしまうこともある。「危ないよ」と言われながらいつも転んでばかりいる僕みたいな人間はいくらでもいる。人生なんて、そんなものだ。
人が感じる空間のありようも身体のありようも、みんなひとりひとり違うのだ。
それでもわれわれは、この世界(空間)があるということ、この身体があるということ、すなわちこの身体が「いまここ」に存在するという認識や、この身体のまわりに空間が広がっているという認識は等しく共有している。
人間が共有しているのは「いまここ」なのだ。身体を動かすという「未来」ではないし、そういう「未来」によって空間を認識するのでもない。
「いまここ」のこの世界のありよう、この身体のありようの感じ方は、ひとりひとり違う。それでも、この生は「いまここ」において完結している、というこの胸のどこかしらの感慨は等しく共有している。
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直立二足歩行前夜の人類の群れにおいて、誰かひとりが率先して立ち上がり、みんなに「立ち上がった方がいいよ」と教えてあげたのではない。
ひとりひとりが勝手に、それでもみんないっせいに立ち上がっていったのだ。そういう人間の群れの不思議というものがある。
人間の社会は、基本的には、ご立派なリーダーに率いられて動いているのではない。ひとりひとりが勝手に、それでもみんないっせいに動いてしまうような「いまここ」を共有している。
ミニスカートが街に流行することだって、まあそういうことだ。
そういう「いまここ」のことを、なんといえばいいのだろう。「状況」といえばいいのだろうか。「風土」といえばいいのだろうか。「時代」といえばいいのだろうか。まあ、そんなようなことだ。
そのとき誰もが「いまここ」のこの世界に存在しているという実存感覚を共有している。誰もがこの街の好ましい景色になりたがっている。見せびらかしたいという「未来」に対する思いが共有されているのではない。見せびらかしたい女もいれば、そうではない女もいる。それでもともに、「いまここ」の街に対する思いというか、自分が街の中に存在しているという「いまここ」の思いだけは誰の中にも共有されているのだ。
直立二足歩行の起源にしても、みんながいっせいに二本の足で立ち上がるような「状況=風土=時代」、すなわち「いまここ」があったのだ。
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人類の直立二足歩行の起源は、「二本の足で立っている」ということを共有していったことにあるのであって、歩こうとする「未来」に対する意識を共有していったのではない。
二本の足で立って歩くことは極めて不安定で危険な行為だったのだから、そんなことが目的になるはずがない。そういうことは、猿の段階ですでに知っている。
それでも立ち上がらずにいられなかったのは、そのとき、身体の外にこの世界の空間が広がっているという「空間意識」の危機が共有されていたからだ。
人間は、この世界の空間がどうなっているかということを共有しているのではない。「空間のありよう」に対する認識は、ひとりひとり違う。そういうことではなく、身体の外に「空間がある」という「いまここ」を共有しているのだ。この世界の空間の中にこの身体がある、という「いまここ」の「実存」を共有しているのだ。そういう実存意識の危機を共有しながら二本の足で立ち上がっていったのだ。
人類学においても哲学においても、安直に「人間は未来意識を共有している」と規定してしまうと、必ずつまずく。
二本の足で立ち上がって何かしようとしたのではない。立ち上がらずにいられない「いまここ」があったのだ。
「いまここ」が共有されたときに歴史が動く。ひとりひとりが勝手に、それでもみんないっせいに同じようなことを思い、同じようなことをする。そうやって歴史が動いてゆくのであり、そうやって人間の群れが成り立っている。
それはつまり、空間(=世界)のありように対するとらえ方はひとりひとり違うけど「空間(=世界)がある」という「いまここ」の実存感覚はみんなが共有しているということだ。
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この世界の空間のありように対する信憑がなければ怖くて体を動かせなくなってしまう。つまり、身体運動によって空間を認識するのではなく、身体運動の前にすでに空間を認識している、ということだ。
この世界に「空間がある」と認識することがそのままこの世界の空間のありように対する認識になっている。怖がらなくても体を動かせるのは、すでに空間を認識しているからだ。
仮想運動によってあらかじめ空間を認識するといっても、その仮想運動すら、空間を認識していなければ描きようがない。
誰もが同じ空間のありようを認識しているのではない。誰がどんな空間のとらえ方をしているかということなんかわかるはずもないし、実際ひとりひとりみんな違うのだ。
棚の上のものにひょいと手を伸ばせば届く人もいれば、踏み台の上に乗って背伸びしないと届かない人もいる。両者は、同じ空間をとらえるのに、身体運動も空間に対する感じ方も違う。棚の上に何があるかという勘がはたらく人もいれば、見ないとわからない人もいる。
みんなが同じ空間を共有しているということなどあり得ない。ただ「空間がある」というそのことが共有されているだけであり、その前提の上に立ってそれぞれ固有の空間の感じ方をしているのだ。
みんなが同じように見えるのなら、絵描きの個性なんか存在しない。彼らは、そのように描こうとしてそう描いているというよりも、そのように見えるからそう描いているのだ。同じスーパーリアルの手法で同じ景色を描いても、第三者からはまったく別の世界のように見えたりする。リンゴジュースの缶の写真みたいなリンゴの絵だって、おいしそうに見えるリンゴもあれば、そうでないのもある。
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われわれが共有しているのは、この世界のありようでも身体運動で空間を認識することでもなく、「この世界(=空間)が存在する」ということだけだ。
身体運動がこの世界の「現実」をつくっているのではない。
われわれの意識のはたらきにおいては、「身体がこの世界に存在する」という自覚によってこの世界の「現実」が生起しているのだ。
人間が思い描くこの世界の像は、きっとひとりひとり違うのだ。ひとりひとりが勝手にこの世界の像を描き、勝手に動いている。それでも、この世界が存在する、この身体のまわりに空間が広がっている、という信憑だけはひとまず共有されているから、ときにはその信憑が動因となってミニスカートが流行ったり、時代(歴史)が動いたりする。
原初の人類が二本の足で立ち上がったのは、この世界(空間)の見え方を共有してゆくムーブメントだったのではない。彼らは、「この身体のまわりに空間が広がっている」ことに対する信憑を共有していただけであり、その信憑にせかされて、たがいの体がくっつき合うことから逃れて二本の足で立ち上がっていったのだ。
生き物は、この世界の「空間」に驚き怖れている。それは、この身体が物質であるということに気づいてしまったからだ。もともと空間はこの身体のパースペクティブとして完結しているはずのものだった。少なくとも胎内空間はそのようになっていた。そのようにこの生は「いまここ」において完結しているというイメージをわれわれは先験的に持っているのであり、そういう完結性に遡行しようとすることが生きるいとなみであるのかもしれない。そうやって人は、「神」だの「国家」だのという完結性のかたちをイメージしているのかもしれない。
つまり、空間(の完結性)に対する親密さに遡行すること、これが「動く」ということであり、生き物の生きるいとなみであるのかもしれない。
動くことは体が空間に溶けてゆくことであり、そのときわれわれは、空間のありようを認識しているのではなく、空間の完結性に身を浸している。
空間は、「ある」という「いまここ」で完結している。「空間の完結性」、それが問題だ。これは、人間はなぜ「神」という概念を持ったか、という問題でもある。
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