この世に天国や極楽浄土や生まれ変わりの教えがあろうとも、われわれはひとまず、死ぬことはこの世界から意識も体も消えてしまうことである、と思っている。
誰もが漠然とそんなイメージを抱いて死を怖がってしまうからそういう死後の世界のイメージが紡ぎだされてきたのかもしれないが、意識はもともと異次元の世界をイメージするようなはたらきを持っているのだから、それは死の恐怖を和らげるための単なる方便だともいえない。
信じたくなくても死後の世界を信じてしまっていたりする。
とはいえ、死ぬということはこの世に生まれてこなかったという「何もない」状態に戻ることだ、と思っている人はいる。その人にとっては、それこそが救いであり、真実であると信じられることだ。それも、なんとなくわかる。なんとなく、そうだよなあ、とも思う。そしてそう信じることもまた、意識のはたらきの根源的なかたちでもある。
どちらが真実かなんて、じつはわからない。この世に存在するのはまだ死んだことがない人間ばかりなのだから、そんなことは永久にわからない。
永久なんていうな、いつかきっとわかる、という人がいるかもしれない。そんなことをいってもその人だっていつかきっとわかると信じているだけのことであって、そんなことはわかってからいってくれ、といいたくなる。
すでにわかっている、という人ももちろんたくさんいる。そういう説明に対しては、「ああそうですか」といって静かに立ち去るしかない。
「いまここ」でわからないことは、永久にわからないことと同じであり、自分にわからないことは誰もわかないのと同じなのだ。この生は「いまここ」で完結している。それが真実だというのではない。われわれの意識はそういうはたらき方をしている、ということ。われわれにとってこの生は、「いまここで完結している」のだ。
「わからない」というかたちで完結しているのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
とはいえ、「天国や極楽浄土がある」と思うことも、「何もない」と思うことも、われわれの意識のはたらきの根源にそなわっている。
なぜなら意識のはたらきの根源における「身体」は、「非存在(=異次元)の空間の輪郭」として認識されているからだ。
われわれの意識は「異次元=天国・極楽浄土」をイメージするようにできているし、「非存在=何もない」をイメージするようにもできている。
胎内空間では、足の裏に当たる胎壁がたちまちみずからの身体の輪郭であるかのように反転して感じられる。この反転の瞬間、「非存在=異次元」をイメージする意識のはたらきが起きている。
そして胎内は、そのようにして世界が「完結」している。閉じられてはいないが、完結している。
この生は、異次元世界とつながっている、というかたちで完結しているのか。
それとも、何もないところに消えてゆく、というかたちで完結しているのか。
そうして、この生は「いまここ」において完結していると感じられる意識のはたらきもまた、そうした胎内体験に由来しているのではないだろうか。
われわれは、避けがたくそのように感じてしまう意識のはたらきを根源においてそなえている。
いずれにせよ、そういう意識のはたらきがあるということであって、異次元世界があるということも死んだら消えてなくなるということもよくわからない。
われわれは、異次元世界があると信じることの可能性も不可能性も、消えてなくなると信じることの可能性も不可能性も負っている。
この生がそういうダブルバインドの上に成り立っていることを考えるのが哲学であるのかもしれない。
そしてこのダブルバインドこそ、この生のこの世界の「完結性」のかたちでもある。
われわれの生は、にっちもさっちもいかない、というかたちで完結している。
意識は、異次元世界をイメージする。
意識は、消えてなくなることをイメージする。
このふたつのはたらきによってわれわれは、みずからの身体を「非存在の空間」として認識し、この生は「いまここ」において完結している、と認識している。
これが、われわれの「空間意識」の根源的なはたらきであり、このはたらきを基礎にしてこの世界のありようを認識しているのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・
指の腹で机の表面を撫でれば、机の表面ばかり感じる。そのとき指の腹に対する意識は消えている。そして指の腹に対する意識が机の表面という異次元世界にワープしている。この触覚は、意識における「異次元世界」をイメージするはたらきと「消えてなくなる」ことをイメージするはたらきの上に成り立っている。
この触覚は、まぎれもなく「空間意識」である。
この生の基礎は、「空間意識」として成り立っている。
そして「空間意識」は、「いまここ」において完結している。
異次元世界にワープして消えてなくなることは、「いまここ」のこの瞬間の出来事である。そうやって意識は空間を認識している。
雑踏の中で知り合いの顔を見つける。その顔が何メートル先かという距離は、なんとなく見た瞬間に感じる。それは、歩いて何歩かというような距離感覚ではない。そのとき意識は、胎内での体験のように、相手の身体がみずからの身体の内側の輪郭であるかのように瞬間的にワープしている。それは、こちらから相手を見ることであると同時に相手の方から自分を見ることでもあるような、そういう意識の往還運動(あるいは反転運動)として距離(空間)を感じている。
そうして相手の姿がだんだん近づいてくるのがわかるのは、映画のフィルムのように瞬間瞬間そのつど距離を計測しているからである。その瞬間瞬間は、それぞれが「いまここ」で完結した空間意識である。そして瞬間瞬間があるということは。その瞬間瞬間のあいだに「消えてなくなる」現象が挟まれている、ということだ。そうでなければ瞬間瞬間は成り立たない。
意識はその「近づいてくる」という時間の連なりを、瞬間瞬間として体験している。
だんだん近づいてくるのだ。この「だんだん」という言葉は「瞬間瞬間」というニュアンスである。われわれはその「近づいてくる」という体験を、無意識のうちにそのように感じている。
つまり、「近づいてくる」という身体運動としてではなく、そのつど完結した瞬間瞬間として体験しているのだ。
したがって、その「近づいてくる」ということは、相手の実在感がだんだん生々しく濃密になってくるという体験でもあり、われわれはそうやって直接的に「いまここ」の体験として距離を感じている。身体運動という時間の帯で距離を感じているのではない。
われわれの空間意識は、「いまここ」のこの瞬間で完結している。
そのとき観念的には「近づいてくるだろう」と予測したとしても、視覚そのものは、瞬間瞬間を認識している。
われわれの空間意識が異次元にワープすることと消えてなくなることの上に成り立っているということは、瞬間瞬間の「いまここ」が完結している、ということを意味している。
意識にとって「異次元空間にワープする」とか「消えてなくなる」という空間感覚は、たんなる知識や観念のはたらきだけではなく、生き物としての「五感」を成り立たせているはたらきでもある。つまりそれが、この生の基礎になっている「生きられる意識」である、ということだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
意識にとっての身体の輪郭は、実在としての身体の外であると同時に身体に接する外界の空間の内側であるところの「非存在の空間」で認識されている。この空間意識が基礎になって生き物としての原初的な「五感」がはたらいている。われわれの「意識」は、この世界の空間に対して、そういうはたらき方をしている。
意識にとってのこの世界は、無限の空間の広がりであると同時に、完結している。
宇宙空間がどのようになっているかということなど僕の知る由もないことだが、少なくともわれわれの根源的な意識は、身体のまわりに広がる空間をそのようにとらえている。
この世界は無限の広がりであると同時に、身体の輪郭として完結している。そして、身体の輪郭は無限の広がりであると同時に完結している。
われわれの身体は、意識の中で消えてなくなる。それは、無限の広がりを持っているということでもある。
机の表面を指でなぞっているとき、確かに身体(=指)に対する意識は消えている。そうでなければ机の表面を感じることはできない。車の運転をして狭い道を通り抜けようとするとき、身体の輪郭がそのまま車の輪郭になったよう心地で、車が電信柱と接触しそうになったりすると肩がぴくぴく震えたりする。われわれの身体は無限の広がりを持っていると同時に、「この身体」として完結してもいる。
宇宙の果てそのものだって、われわれはみずからの身体の輪郭のようにイメージすることができる。たぶん、そうやって西洋的な全能の「神」という概念が生まれてきた。
宇宙空間が完結しているかどうかということなど、僕にはわからない。しかしわれわれの意識は、「完結している」と感じるはたらきを持っている。そしてそれは、われわれがかつて胎内にいたときに体験した空間感覚によるのだ。この世界の果てであるはずの胎内の壁がみずからの身体の輪郭面であるかのように感じられる体験、そういう感覚の上に、現世のこの生のいとなみが成り立っている。
「この世界は完結している」という感覚は、「消えてなくなる」という感覚でもある。そうして「この世界は完結している」ということは、「この世界は無限の広がりである」ということでもある。
われわれは、そう感じるほかない意識のはたらきを、「非存在の身体の輪郭」というかたちで先験的に持たされてしまっている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「この世界は完結している」という感覚は、「この生やこの世界はこの身体で完結している」という感覚でもある。そういう空間感覚から「神」という概念が生まれてきた。
だからキリスト教では、「神はみずからの姿(身体)に似せて人間をつくりたもうた」という。
僕はもちろんそんなことを信じているわけでもないが、意識はそういう発想をしてしまうようなはたらきを持っている、ということはいえるにちがいない。
まあ、宇宙だろうと神の問題だろうと、意識のはたらきの問題だろうと僕は思っている。
ともあれ、この身体がこの世界に存在するという感覚はそれほどやっかいで精妙なはたらきにちがいない。
僕には哲学者のいう「世界内存在」という概念を吟味する趣味はないが、そういう文脈でとらえてもらってもけっこうだ。しかし僕はそれを、哲学者からではなく、胎児から学んだ。
世界はこの身体で完結している、という感覚は、胎内体験に由来している。それが真実だというのではない。意識はそういはたらき方をしている、ということだ。
そのようにしてわれわれは、対象との距離(空間)や対象の姿を、「身体運動」などという鈍くさい手続きなしにたちまち認識する。
「完結している」ということ。
この生は「いまここ」で完結している、ということ。
そしてこの生は「いまここ」の「この身体」で完結しているのだから、他者の身体や身体運動と共鳴し合うということもない。人間の関係性や集団性は、そんな安直で単純なものではない。
ひとりひとり勝手に動いているのだ。それでも、みずからの身体を消して他者の身体に憑依してゆくということができる。抱きしめ合えば相手の身体ばかり感じるように、指の腹で机の表面をなぞれば机の表面ばかり感じるように、それは、「共鳴する」のでも「一体化」するのでもない、みずからの身体を消して対象に憑依してゆくのだ。
身体を消すのだから、身体運動で空間を認識するということもあり得ない。
鈍くさい運動オンチは、この世界の空間のありようをあれこれ吟味する。しかしわれわれは、この世界に空間が「ある」か「ない」かというそれだけを問いながら、瞬間瞬間のデジタルな感覚で空間と関わっている。
意識は、「この生はいまここで完結している」というタッチで空間を認識するのだ。「この世界はいまここのこの身体で完結している」、と言い換えてもよい。
そういう人間の意識の「孤立性=完結性」を基礎として「空間意識」になり、「集団性」にもなっている。
・・・・・・・・・・・・・・・・
人と人の身体は、「共鳴」するのでも「一体化」するのでもない。そういう安直な「コミュニケーション」というかたちで人間の関係性や集団性が成り立っているのではない。「この生はいまここで完結している」、「この世界はこの身体で完結している」という意識のはたらきの「孤立性=完結性」、すなわち「ディスコミュニケーション」の上に人間の関係性や集団性が成り立っているのであり、ほんとうはみんなそうやって仲良くしたり恋をしたりしているのだ。
少なくともそれが原始人の関係性や集団性であったはずだ。
原初の人類は、他者の身体と接触もしくは接近しすぎている鬱陶しさからの解放として、二本の足で立ち上がっていった。それは群れのみんながいっせいにそうしたことだが、それぞれが勝手にそうしていったことでもあった。なぜならそれによって得られたのはみずからの身体の「孤立性=完結性」だったのであり、またそれによって、他者の身体に対する親密さも回復していった。
われわれの身体は孤立・完結しているからこそ、他者の身体に対する親密さを覚えるのだ。
根源的には、他者の身体と「共鳴」するとか「一体化」することはとても鬱陶しいことなのだ。原初の人類は、その鬱陶しさが骨身にしみて二本の足で立ち上がっていった。
この生もこの世界も、「いまここ」において、「この身体」で完結している。
「この身体」は、「非存在の空間のパースペクティブ」として認識されている。それは、現世ではなく「異次元空間」に描かれており、そこに、身体の「孤立性=完結性」がある。
「他者の身体と共鳴する」だなんて、そんな嘘くさいおとぎ話はやめてくれ。
この生は、身体の「孤立性=完結性」の上に成り立っている。これが、われわれにとっての「生きられる意識」だ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一日一回のクリック、どうかよろしくお願いします。

人気ブログランキングへ
_________________________________
_________________________________
しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

幻冬舎書籍詳細
http://www.gentosha-r.com/products/9784779060205/
Amazon商品詳細
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4779060206/