人の空間意識を考えるなら、「歩く」ということは重要なテーマだ。
とはいえ、歩くことによって空間を認識するのではない。すでに空間を認識しているから歩くことをする。ここのところは大事だ。ここのところは譲れない。譲れば、僕が今まで考えてきたことは全部否定される。間違っているのならみずからを全部否定してしれを受け入れるしかないが、どうしても「身体運動で空間を認識する」ということなどあり得ないとしか考えられない。
生き物は先験的に空間を認識しているから、原初の人類の二本の足で立って歩くということがはじまった。
もしも二本の足で立ち上がって歩いてから空間を認識するのなら、二本の足で立ち上がる契機なんか成り立たない。二本の足で歩くという身体運動による空間認識の仕方を知らない猿が、どうして二本の足で歩きはじめることができるのか。四本足で歩くときと二本の足で歩くときは空間の認識方法が違うのか。身体運動で空間を認識するというのなら、現在のチンパンジーやゴリラは、二本の足で立って歩くときでも、四本足の歩き方で空間を認識しているのか。四本足の空間認識を当てはめながら二本の足で歩くことは、ずいぶん不安なことだろう。
人間が「ここからあそこまで歩いて10歩だ」と空間を認識するのなら、ムカデにとってその距離はいったい何歩になるのだろう。ムカデは空間など認識していない、てか?冗談じゃない。ムカデだって、あらかじめ空間を認識していなければ、一歩たりとも動けないのだ。そのときムカデは、自分の前に何もない、すなわち「空間がある」ということを認識して歩いている。障害物があると感じれば、よけて歩いてゆこうとするだろう。
「空間がある」と認識すること。つまり生き物は、この世界には自分の身体ではない空間という広がりがあると認識しているから「動く」ということをするのであり、これが空間意識だ。
動いてから空間を認識するということがあるものか。
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「空間がある」と認識することは、「空間ではないみずからの身体(=物体)がある」と認識することだ。生き物は、ここから生きはじめる。
そして対象との距離=空間は、対象の実在感の濃淡の度合いによって認識している。
対象が目の前の迫ってきてあわててよけるのは、対象との距離が一歩しかないと思うからではなく、対象の実在感の生々しさに驚いてよけているのだ。
われわれは、何かにぶつかりそうになったら驚くだろう。ただ単純に距離を認識しているという意識だけじゃないだろう。それだけでは、生きられないのだ。驚くからよけようとするのだ。ゴキブリだって、人間から丸めた新聞紙で叩かれそうになったら、驚いて逃げる。驚かなかったら逃げない。べつに自分が殺されるかもしれないと思っているのではない。その丸めた新聞紙や人間という実在感に驚いているのだ。
驚かなければ生き物は生きられない。対象の実在感の生々しさに驚く。その生々しさで距離を認識する。歩いて一歩、などという「身体運動」で距離を認識しているのではない。
四本足で歩こうが二本足だろうが、身体運動ではなく、対象の実在感で距離を認識しているのであり、その実在感が迫っていないのなら歩きはじめる。
ふだんは四本足で行動している猿が二本の足で立てば、みずからの身体の物性がより生々しくなり、それなりの鬱陶しくなる。しかしその生々しさのぶんだけ、対象の実在感との差異もよりクリアに感じられることだろう。つまり対象との距離=空間がよりクリアに認識されるということだ。
二本の足で立ち上がった人間は、そうやって猿よりももっと驚き怖れる存在になった。そうしてより切実にクリアにみずからの身体のまわりの空間を感じる存在になった。衣装の起源だって、そういうところにあるのだ。
何が「身体運動で空間を認識する」か。アホらしい。このことは、それでもいいとか、あれもよしこれもよしというわけにはいかない。僕にとっては、みずからの思考・思想の存立基盤にかかわる問題なのだ。
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四本足の猿であったときは空間がどんなふうに見えていたかということ以前に、生き物として先験的に持っている空間意識がある。
アメーバだって、先験的な空間意識は持っている。空間意識は後天的に学んでゆくのではない。われわれは、空間意識で生きはじめるのだ。
「意識は身体運動によって空間を認識する」ということなどあり得ない。われわれ人類は、そういう空間意識を共有しているのではない。
空間意識は、胎内でつくられる。生まれたばかりの赤ん坊は、まず空間を認識する。
われわれは、目で見たり耳で聞いたりする対象との空間=距離を、その「実在感」の濃淡で認識している。
「実在感」とは、空間意識における「違和感」である。すなわち「空間ではない」と認識する意識なのだ。
そして生き物が先験的に身につけている空間意識とは、身体を「非存在の空間」として認識している意識にほかならない。われわれはそういう「非存在の空間」をすでに認識しているから、「違和感」としての「実在感」に気づくのだ。
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われわれ人類がまだ猿の仲間であったころ、密集状態の群れで、体をぶつけ合いながら行動していた。
なぜ体をぶつけ合っていることが鬱陶しいかといえば、先験的に持っている「空間意識」がうまく機能しなくなるからだ。体をぶつけ合わなくても、ただくっついたり、くっつきそうなくらいに接近してしまうだけでも、他者の身体の過剰な実在感を感じて、みずからの身体に対する「空間意識」がざわざわする。
そういう密集状態が恒常化すると空間意識が麻痺してきて、みずからの身体の物性に対す意識が肥大化してくる。ここのところが大事なのだ。他者の身体が鬱陶しいだけでなく、みずからの身体に対する鬱陶しさも募っていったのだ。
人類の直立二足歩行の起源は、誰かひとりが率先して立ち上がったのではない。みんなで立ち上がっていったのだ。
それは、原初の人類にとってとても不安定な姿勢であり、早く走る能力も敏捷さも失ってしまう。そうして、胸・腹・性器等の急所をさらす無防備な姿勢である。であればもう、敵と戦うことも、仲間どうしの順位争いをすることもできない。
それは、群れの中でいちばん弱い存在になってしまうということであり、誰かが率先して立ち上がるということはあり得ない。
みんな一緒でなければ起こり得ないことであり、弱い存在になることを受け入れてでも立ち上がるしかなかったのだ。
それくらい密集状態が鬱陶しかったし、生き物にとって空間意識がうまくはたらかなくなることはそれくらい危機的な状況であるということだ。
たとえば、まわりがサバンナに囲まれ孤立した森であったために、誰も逃げ出すことも追い払うこともできない状況があったのだろう。そのような状況で猿としての「順位制」を失い、立ち上がっていったのだ。
とにかく直立二足歩行の起源は、「みんながいっせいに立ち上がっていった」ということを前提に考えないとつじつまが合わない。
誰もが、その「空間意識の危機」と「物性に対する鬱陶しさ」を抱えている状況になっていたのだ。
みんながいっせいに立ち上がると同時に、誰もが勝手に立ちあがっていった。
いちばん強く賢いものが群れをそういうかたちにしようとして率先して立ち上がったのではない。それぞれが勝手に立ちあがってゆくという状況があった。それは強くて賢いということを失う姿勢だった。強くて賢いものですら、他者を追い払うということも忘れて立ち上がっていったのだ。
密集してひしめき合った群れの中の猿が二本の足で立ち上がれば、みずからの身体の占めるスペースが最小限になり、身体のまわりの空間を感じることができる。これが、直立二足歩行の起源だ。
それは、みずからの身体を「物体」としてではなく「空間」としてとらえなおそうとする試みでもあった。
生き物にとって空間意識とは、いわば本能なのだ。この世界のありようによって後天的に覚えてゆくとか、そのような鈍くさい運動オンチの観念のはたらきではない。
みずからの身体のまわりに空間が広がっているのを感じることにおいては、人間もアメーバもなく、その認識はすべての生き物が先験的にそなえている。生き物はその認識を携えて生きはじめるのだ。
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そして意識は、直接「空間を見る」ということもできるというか、しているのだ。
われわれが目の前のテーブルの上のコップを見ているとき、コップを見ると同時に、コップと自分の身体とのあいだの「空間」も見ている。
「空間を見る」とは、すでにそれだけで空間を計測している、ということだ。
空間がどのようになっているかと認識するのではない。まず「空間がある」と認識するのであり、それがそのまま空間がどのようになっているかと認識することでもある。生き物は、先験的にそういう空間の認識の仕方を持っている。
ゴキブリは、丸めた新聞紙で叩かれそうになったとき、そうやって驚いている。
そのときゴキブリは、丸めた新聞紙が見えたのではないのかもしれない。ただ「気配」としてそう感じただけかもしれない。ゴキブリの反応は、それほど素早い。つまり、生き物の空間意識はそれほどに先験的で根源的であるということだ。
生き物は、先験的に身体意識=空間意識として「驚き怖れる」という意識を持っている。その意識から原初の人類の二本の足で立って歩くという行動の習性が生まれてきたのだ。
二本の足で立って歩いたら空間がどのように見えるかという試みとしてそうしたのではないし、立てば遠くのものが近くに見えるようになったわけでもない。遠くのものが見えるようになったということがあるにせよ。
この世界の空間の濃淡や物性の濃淡に対する「驚きや怖れ」が生じたから立ち上がって歩きはじめたのだ。
そうして立ち上がって歩くことにそうした「驚きや怖れ」が消えてゆくという「快楽=カタルシス」が生じたのであり、そういう「遊び」だったのだ。
歩くことは、空間を認識するという「労働」ではない。
そして空間を認識することの基準は、「身体運動」にあるのではなく、「非存在の空間」としての「身体のパースペクティブ」にある。
この世界の空間は、「心地よさ」や「鬱陶しさ」としても認識されている。まったく、生き物であるということはやっかいな宿命だ。
原初の人類は、他者の身体というこの世界の物性の濃密さと空間性の希薄さに驚き怖れ、二本の足で立ち上がっていった。
まあ僕にとって「空間意識」について考えることは、この「驚きや怖れ」について考えることであって、空間を認識するとか計測するとか、そんなお気楽でそらぞらしいことではないのですよ。
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