たぶんこのブログに書いてあることの多くは、世の中の常識を無視した思考の上に成り立っている。
「そんなことあるものか」と思うことがたくさんある。
というか僕には、世の中の常識というものが、よくわからないのです。
僕は現代のこの世界に生きている人間だが、パソコンに向かってこのブログを書いているときは、現代人でもなんでもなく、ただの人間であり、ただの生き物になっている。パソコンによって現代文明に冒されている、という意識なんか何もない。僕にとってパソコンこそ生き物の根源に遡行できる大切な道具だと思っている。
ネアンデルタール人のことも、そういうスタンスで書いている。
テーマがなんであれ、そういうスタンスであるかぎり書かずにいられないし、そうでなくなったら書くのをやめるのだろう。
人の頭(脳)のはたらかせ方というのはそうとう個人差があるらしく、僕のそれは、世の中の常識をかんたんにスルーしてしまうような情けない仕組みになっているらしい。
しかしそのようにして世の中には常識をわきまえていない人間はけっこういるし、誰だってそういうふうになってしまう瞬間はあるにちがいない。たとえばギャンブル場にいるときとか、女を口説いているときとか、人殺しをするときとか。
「旅の恥はかき捨て」というが、かき捨てにして忘れてしまうしかないことのひとつやふたつは誰だって持っているだろう。僕はたくさん持っているが。
誰もが世の中の常識をわきまえているとはいえないし、わきまえている人間だけが人間についての何もかもを知っているとはかぎらない。
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個人攻撃は慎むべきだ。見苦しい。
それでも、どうしても「そんなことあるものか」思わずにいられないことがある。
「人は身体運動によって空間を認識する」ということ、この一点だけが気に入らない。
「身体運動によって」ということがまず納得できないし、それはつまり、後天的な体験によって空間のとらえ方を学んでゆく、ということになるのだが、このことも納得できない。
人は後天的に身についてゆく身体運動でこの世界の空間のとらえ方を学ぶのではなく、先験的に空間意識を持っているし、意識は空間意識として発生する、ということ。そこのところを問いたいのだ。
われわれは、かつて一匹の精子だった。
精子に空間意識はないか。
意識とは何かという定義は難しいところだが、とにかく空間と関わりながら卵子に向かって泳いでゆく。つまり、空間と関わることを命の仕組みとして持っている。
意識とは命の仕組みである、というなら、1匹の精子にだって空間意識はある、ということになる。
しかも、泳いでいるのなら、身体意識だって持っていることになる。持っていないともいえるにせよ、持っているともいえる。
アメーバにも意識はある、と思う。アメーバは自分の体のかたちを変えて捕食行動をする。自分の体を細長く輪のようにして餌をとり囲むのだとか。こういうことは、身体意識や空間意識がなければできるはずがない。
命の仕組みとしての意識のはたらきは、空間や身体と関わっている。
生き物の命の根源的なかたちは、体が動くということにある。それは、空間との関わりを持っているということだ。空間とのかかわりを意識しなければ体は動かせない。空間意識を持っているから、体を動かそうとするのだ。
人間は、体がくっついてしまったら体を動かせないことが骨身にしみている存在である。その人間が、「空間意識などなくても体は動いている」などということを言っちゃいけない。
身体意識や空間意識こそもっとも原初的な意識である、ともいえる。この二つは、セットになっている。身体意識とは空間意識であり、空間意識とは身体意識なのだ。
アメーバは、みずからの身体を「空間」として取り扱っている。だから、あんな捕食行為ができる。
意識は根源において、みずからの身体を「空間」として認識している。
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人間の胎児だって、おそらくそのように、空間意識として意識がはたらいている。身体の輪郭を自覚しているとしても、それは「空間」として自覚されている。
胎内は、身体を物体として自覚できる環境ではない。羊水も身体も同じような物質なのだから、物質としてのアイデンティティがない。
われわれは、空気という空間との関係として身体を物体として自覚するのだ。
生まれたばかりの赤ん坊は、まず空気という異質な空間に気づき、それによってみずからの身体の物性に気づかされる。
人間は、生まれおちたときにどれほど「空気という空間」に驚かされたことか。
驚いたから、人は身体の物性をよりどころにして生きていこうともする。
しかし、身体の物性にこだわり過ぎると、身体はうまく動かなくなるし、病気にもなる。病気とは、身体の物性にわずらわされることだろう。
身体にこだわって身体から裏切られる、ということはよくある。
身体を「空間」として扱わないと、うまく身体は機能しない。というか、身体がうまく機能しているとは、身体が「空間」として扱われていることだ。
われわれは、胎内で、身体を「空間」として扱うトレーニングをしてきている。
意識は、空間意識として発生する。アメーバに意識があるとすれば、空間意識だろう。
われわれは、先験的に「空間」を認識する意識を持っている。生まれおちて体を動かしているうちにそういう意識が芽生えてくるのではない。空間意識は、アメーバだって持っている。
われわれは、この地球のありようによって空間感覚を身につけてゆくのではない。先験的に持っている空間感覚で、この地球のありようを感じているのだ。その空間感覚は、生き物であることの属性として、すでに胎内でトレーニングされている。
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身体を動かすことは、身体感覚ではなく、空間感覚なのだ。
身体感覚が空間感覚なのだ。
身体を動かせば、身体は空間に溶けてゆき、身体の物性に対する意識が薄れてゆく。そのとき身体は、「空間の輪郭」として、あらかじめ計測された外界の空間にはめ込まれてゆく。
生き物は、空間感覚として身体を動かしている。身体を動かすのは、空間を認識する行為ではなく、身体が空間になってゆく行為であり、そこに身体を動かすことの醍醐味がある。
空間はあらかじめ計測されてあるのだから、根源的には、身体を動かす行為に空間を計測しようとする衝動ははたらいていないし、空間を計測するために身体を動かすのでもない。
ここからあそこまで歩いて10歩だというその距離は、歩く前からおおよそわかっている。歩くという運動を仮想しなくてもおおよそわかっている。普通、10歩か11歩かということを確かめる、などということはしない。それは、あらかじめ感覚的に計測された空間を数値に換算しているだけの観念的な行為にすぎない。生き物は、歩いて計測する、などということはしない。
見知らぬ人と体がくっついてしまえば、その存在感の生々しさに辟易してしまう。そして遠ざかれば、遠ざかったそのぶんだけ、その人の存在感は薄れてゆく。
生き物は対象との距離を対象の存在感の濃淡によって計測するのであって、対象に近づく身体運動の量に換算して計測しているのではない。
晴れた日はいつもより対象が近くに見えるし、霧にかすんでいれば遠くに見える。そうして近づいたときとき、いきなり目の前にあらわれたような錯覚に陥る。身体運動で計測していたらこんなへまはしない。
「身体運動で空間を計測する」などという話はあまりにもいい加減で、これ以上批判しても無意味かもしれない。しかしこれは、マルクスの下部構造決定論と同じで、身体運動をひとつの労働(生産行為)とみなし、人間の本性を「経済」の問題として語ろうとしている思考である。ようするに近代社会の垢にまみれた俗っぽい発想なのだ。
僕が気に入らないと思ったのも、そういう俗物根性が見え隠れするからだ。
世の中の常識をわきまえた人は、そういう限界を抱えてしまっている。
意識は、動く前にあらかじめ空間を計測してしまっている。
そして生き物の属性が体を動かすことにあるのなら、生き物にとってそれは、「労働」ではなく「遊び」であり、そこに快楽としての生きてあることを浄化する作用がある。つまり、身体を動かすことによって身体を落ち着かせているのだ。
われわれ人間は、立ったままじっとしているのが苦手だ。なぜなら、じっとしていると身体の物性を意識させられるからだ。
歩いている方がかえって身体のバランスは安定している。なぜならそのとき、身体が空間に溶けて、身体の物性を忘れてゆくからだ。
われわれは歩くことによって身体を落ち着かせている。それは、人間だけの自然(本能)から逸脱したかたちではなく、身体を空間として認識するというそれこそが自然(本能)そのもののかたちなのだ。
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身体は「非存在の空間」として認識されている。
身体を動かすことは、空間を認識するための「労働」ではない。じっとしていられない身体をなだめ、そこから快楽(浄化作用)を汲み上げる「遊び」なのだ。
「ここ」から「あちら」に移動する。それは、「ここ」に存在する身体の物性を消去する行為である。移動すること、すなわち身体を動かすことは、身体を消去する行為なのだ。
身体の物性の鬱陶しさを抱えているわれわれは、身体を消去しようとする衝動を持っている。そうやって人は旅をする。
いや、生き物の身体が動くのはようするにそういうことだ。生き物とは、身体の物性の鬱陶しさを負わされた存在なのだ。
とくに人間はその傾向を深く負わされているから、移動の衝動は強い。じっとしていると、身体の物性の鬱陶しさがどんどん濃くなってくる。
移動することは身体の物性を消去する行為であり、消去して身体を「非存在の空間」にしてゆく。そういうかたちにして、はじめて身体は落ち着く。
生き物は、「動く」という生命活動をするような仕組みになっている。それは、「労働」ではなく「遊び」なのだ。じっとしていられないから動く、それだけのこと。動けば「身体=生命」が落ち着く。生き物はまず、そういうかたちで生きはじめる。
なぜ落ち着くかといえば、身体の物性が消去されて、身体が「非存在の空間」になるからだ。生き物は、先験的に身体を「非存在の空間」として自覚しているのであり、そのかたちに遡行してゆく行為として「動く」ということをする。「非存在の空間」として自覚しているから、身体の物性が鬱陶しいのだ。
またわれわれは、身体の物性の鬱陶しさを持っていなければ生きていられない。持っているから、痛いとか苦しいとかと感じることができる。そういう命の仕組みになっている。
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生き物は、先験的に身体を「非存在の空間」として認識している。この場合の「非存在」とは、現世的な空間をいうのではない。異次元空間としての「非存在」が認識されている。
とすれば、身体の物性としての「実在感」とは、そういう「異次元的な非存在」のイメージとの対比としての違和感だと言える。
そういう「違和感=実在感」の濃淡として、われわれは対象との距離=空間を認識している。つまりそうやって認識することができるくらい、われわれは、身体が「非存在の空間」であることを先験的に自覚している。
「実存」といっても、それを確かめることが生命の仕組みとしての意識の基礎になっているのではない。「異次元的な非存在の空間」のイメージが基礎になって意識のはたらきが成り立っている。生き物にとっての生きてあることのカタルシスは、この身体がこの世界に存在すると確かめることにあるのではなく、「異次元的な非存在の空間」に遡行してゆくことにある。つまり、身体が消えてゆく感覚にある。そこのところで僕の考えることは、西洋の近代哲学というか世間の常識と逆立している。
世間の常識をわきまえない人間は、そういうふうにしか考えられないのだ。
われわれはそういう「非存在の空間」のイメージを持っているから、何かがどこかからポッとあらわれてポッと消えてゆくというような異次元空間をイメージしてしまう。意識は、そういう「いまここ」を感じている。
「いまここ」とは、ポッとあらわれてポッと消えてゆく瞬間のことだ。この宇宙だって、「いまここ」のポッとあらわれてポッと消えてゆく瞬間の現象かもしれない。物理学ではそういうことはあり得ないのだろうが、われわれの意識は、そういうことをイメージするような仕組みを持っている。それは、胎内空間でそういうイメージを持ってしまうようなトレーニングをしてきたからであり、この世界における命のいとなみが身体を「異次元的な非存在の空間」として認識することの上に成り立っているからだ。
はたして、何もない空間のどこかから何か(物質)がポッとあらわれるということがないといえるだろうか。ないともいえるし、ないともいえない。少なくともわれわれの意識のはたらきは、そういうことをイメージしてしまうような仕組みになっている。科学者に、そういうことを突き止めてくれと願うのは、無理難題だろうか。
まあ僕は、この生は、何もない空間からポッとあらわれてポッと消えてゆくものだと思っていますよ。そういうことがあり得ようとあるはずがなかろうと、ひとまずわれわれの意識はそういう「いまここ」を認識してしまっているし、そういう認識の上にこの生のいとなみが成り立っている。
われわれは、「非存在」の身体の輪郭を認識している。この「非存在」の身体の輪郭は、「異次元」の空間としてイメージされている。だから「何もない空間からポッとあらわれてポッと消えてゆく」という現象をイメージしてしまう。われわれの意識がそういう異次元空間ではたらいていると感じられるかぎり、どうしてもそういうイメージは持ってしまう。
意識にとって「空間」とは、「身体運動」、すなわち「画像としての身体」や「物体としての身体」で認識できるような、そういう現世的なものではないのである。
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