僕は、この世界の空間を認識するのに身体など関係ない、と言っているのではない。
「身体運動」ではなく、「身体空間のパースペクティブ」を物差しにして、「広い」とか「狭い」とか「高い」とか「低い」とか「大きい」とか「小さい」とか「遠い」とか「近い」ということを認識している、と言いたいのだ。
「あのビルは高い」とか「あの人は自分よりも背が高い」とか「大きなリンゴだ」と認識することだって、まぎれもなく「空間感覚」であろう。
そのときわれわれは、そういう「存在するもの=物質」を「空間のパースペクティブ」として認識し、「身体空間のパースペクティブ」に当てはめながら、「高い」とか「低い」とか「大きい」とか「小さい」と感じているのだ。
それを、「身体運動」とやらでどう認識し計測するというのか。
見上げるあのビルが高いということは、スーパーマン鉄腕アトムになったつもりで屋上まで飛びあがることを「仮想」してみる、てか?
悪いけど、僕にはそんな妄想をする趣味はない。それでもあのビルが高いということは、みずからの身体空間のパースペクティブの貧弱さと比べてひしひしと感じる。
子供のころに通った道を大人になってから再訪すると、こんなに狭い道だったのか、と驚くことがある。それは、みずからの「身体空間のパースペクティブ」が物差しになっているからだ。
われわれの空間感覚は、「身体運動」が物差しになっているのではなく、この身体がこの世界に存在するという実存感覚としての「身体空間のパースペクティブ」が物差しになっているのだ。
「身体運動」が物差しだなんて、だったら目が見えない人や体を動かしたこともない人は、われわれよりも空間感覚が劣っているのか。
そんなことがあるものか。
そういう人たちの方がむしろ、われわれよりずっと鋭敏な空間感覚を持っているにちがいない。なぜならそういう人たちは、みずからの身体がこの世界に存在するという実存感覚を、われわれよりもずっと切実に豊かにそなえているからだ。
僕はビルの高さを感じるのに、そんな鈍くさい「仮想運動」という手続きなんか必要としない。
そのブログに疑問のコメントを入れたら、「イソギンチャクは空間を認識しないで体を動かしている」なんて、人をなめたような答えが返ってきた。。
イソギンチャクでも、潮の流れや獲物が近付いたことなどの「空間」を認識している。イソギンチャクでも、みずからの身体空間のパースペクティブは持っているのだ。
「身体運動を仮想する」というのなら、自分もイソギンチャクになったことを仮想してみればいい。そしたらイソギンチャクが、それほどのバカじゃないことがわかるだろう。
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無意識としての非ユークリッド空間。
僕は、非ユークリッド空間が、科学者の数式の上だけで成り立っているものだとは思っていない。人間の無意識がそういう空間概念を手繰り寄せたのだろうと思っている。もちろんその理論のなんたるかなど、僕にはわからない。とにかく無意識のことだから。
しかし、人間の体の動きや意識のはたらきのややこしさをコンピューターでは再現できないだろう。科学者の数式でも表せないだろう。そういうややこしさの基礎は、おそらく胎内でつくられたのだ。
胎児は、異次元の空間感覚を持っている。
「空間のゆがみ」などと言われても、われわれにはなんのこっちゃ、ということでしかない。しかし、やまと言葉の「むすぶ=発生する」という言葉のニュアンスは、そういう「空間のゆがみ」を持ちださないと説明がつかないし、そういう異次元の感覚はわれわれの無意識のどこかに刷り込まれてあるはずで、その空間感覚は胎内でトレーニングされた、と僕は思っている。
人間が生まれて死んでゆくことは、どこかからポッとあらわれてどこかにポッと消えてゆくことだ、と日本列島の古代人は考えていた。それは、この世界の普通の空間感覚では説明がつかない。そういう空間感覚が人間の無意識の中に刷り込まれてあるから、「非ユークリッド空間」という概念だの「むすぶ」というやまとことばだのが生み出されてきたのだろうと思う。
天国や極楽浄土だって、まあそういう異次元の空間での話だろう。
この世界の三次元空間ではなく、異次元の空間からポッとあらわれてポッと消えてゆくということを、われわれはイメージできないか。してるじゃないか。みんなしてるじゃないか。
科学者だけがそれを知っている、と思ってもらっては困る。科学者はそれを数式として表現し思考することができるというだけのこと。胎内の赤ん坊は、まさにそうした異次元空間を生きているのだ。
胎内が異次元空間になっている、というのではない。胎児の空間感覚がわれわれとは異質で異次元的だ、と言いたいのだ。
胎内の壁がたちまちみずからの身体の輪郭になってしまうとは、そういうことだ。そのとき胎児の意識は、一瞬のうちにみずからの身体の輪郭の「内側」にワープしている。そこは、胎壁であると同時に、みずからの身体の「内側」の壁でもある。胎内は、そういうふうに感じるしかない構造になっているし、そこは閉じられた空間ではなく無限のかなたの異次元空間なのだ、完結してはいるが、閉じられてはいない。
そういう空間がある、と言っているのではない。そういう空間感覚がわれわれの無意識の中に刷り込まれてある、と言いたいのだ。
とにかくそれでも、やまとことばの持つ無意識的なニュアンスや人間の身体意識や空間意識は、じつはわれわれが考えるよりももっと、さらには宇宙科学者の計算やコンピューターよりももっと高次元で不思議で精妙なはたらきをもっている。
根源的な意識にとっての身体は、たんなる物体ではなく、「非存在の空間」なのだ。この「非存在の空間」のことを、なんといえばいいのか
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けっきょく僕の言う「身体空間のパースペクティブ」というイメージをうまく説明できていないことがよくないのだろう。
たしかに、うまく言い表すことができない。だから安直に「非ユークリッド空間」という言葉を借りてしまったのだが、それはもうやめよう。
ここでいう「身体空間のパースペクティブ」とは、「非存在の空間」のことであって、物体としての身体の輪郭のことではない。
それは、体積であって、体積ではない。あくまで「非存在」の異次元の空間でイメージされている。
われわれの意識は、身体(=脳)と外界との境界の異次元の空間ではたらいているように感じられる。そのときわれわれは、身体と外界との境界にあって身体でも外界でもない異次元の空間を感じている。その空間が身体のパースペクティブになっている。
そしてこの空間感覚の原型は、おそらく胎内でつくられ、その異次元の空間にワープしてしまうはたらきが、無意識として刷り込まれてあるのだろう。
胎児が足の裏で感じる胎内の壁が、そのままみずからの身体の内側の輪郭になる、ということ。それはきっと、宇宙の果てまで行ってもとのところに戻ってくるような感覚だろう。その空間は、完結しているが閉じられてはいない。
現世のこの世界を知ってしまったわれわれがそこに戻っても、牢屋に入れられているよりももっと窮屈で発狂してしまうだけだろうが、おそらく胎児にとってその空間は閉じられた空間ではない。彼にとって足の裏を胎壁に当てることは、宇宙の果てまで旅をするのと同じなのだ。現世のこの広い空間を旅するのではなく、異次元の空間にワープして戻ってくる、という感覚。たぶん胎児は、あの中で旅をしているのだ。そこは、閉じられた空間ではない。
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早い話が、机の表面を指で触って指ではなく机の表面ばかり感じるという感覚だって、胎内空間でのそういうトレーニングのたまものであり、それはものすごく高度で不思議な能力ではないだろうか。
そのとき胎児は、足の裏で感じる胎壁がもし自分の身体とは別のものだと感じたら、その違和感に耐えられなくて、二度と足を伸ばすということをしなくなるだろう。胎児だって、生き物だから、みずからの身体の輪郭は自覚している。それでも違和感を持たないとすれば、それが自分の身体の輪郭の内側だと感じるからだろう。
われわれが指で触った机の表面ばかり感じているのも、それがみずからの身体の輪郭の内側だという意識があるのだろう。そうやって、みずからの身体の輪郭を確認している。
非存在としての身体の輪郭は、身体の外側にあって外界の内側にある。その異次元の空間を確かめているのであり、そこが意識がはたらいている場所でもある。だから、机の表面をありありと感じることができる。
ただ触覚といっても、指の腹に意識があるわけでもなかろう。それなのにわれわれは、指の腹で机の表面を感じているつもりになっている。これは、とても不思議なことだ。
そのとき意識は、指の腹と机の表面との境界ではたらいている。そこは、机の表面であると同時に、机の表面ではない。指の腹であると同時に、指の腹ではない。
そのとき意識は、机の表面を確かめながら、同時に身体の輪郭を確かめている。指で触っているのにまったく指を感じないですむなんて、とても不思議なことではないか。それは、机の表面が指の表面でもあるからだ。そしてそういう感じ方は、おそらく胎内でトレーニングされてきた。足の裏が触っている胎壁をみずからの身体の輪郭だと感じることは、実際のみずからの身体を忘れることでもある。この感覚なのだ。
指の腹を何かでコーティングしたら、机の表面も感じなくなる。だからやっぱり指の腹に意識があるのか。そうじゃない。指の腹に意識があるのではなく、指の腹に対する意識があるのだ。そこをコーティングすることは、指の腹に対する意識を失うことであり、それを失えば机の表面にワープしてゆくこともできなくなる。それは「身体の輪郭」に対する意識であって、身体に対する意識ではない。身体の輪郭は、身体であって身体ではない。異次元の空間としての身体の輪郭は、そういう二律背反というかパラドックスのところで成り立っている。
身体を確かめることが身体を忘れることでもある、というタッチの感覚。そういう感覚で、われわれはみずからの身体の輪郭を、非存在の空間のパースペクティブとして持っている。
胎児の胎内空間に対する感じ方を説明するのは難しい。正直に言えば僕だってよくわからない。でも、そういうふうになっている、と考えないとつじつまが合わない。
抱きしめ合えば、接触面全体で相手の身体を感じる。触覚は、手だけでなく、体全体ではたらいている。それは、われわれが「身体の輪郭」をこの世の物体としての身体ではなく、「非存在(=異次元)の空間のパースペクティブ」として認識しているからだ。
意識は、先験的に「空間」を認識している。身体運動をしてはじめて空間を感じるのではない。「この身体」を先験的に「非存在の空間」として認識しており、それを基礎として、触覚になったり、あのビルは高いとかあの山は遠いというような空間認識をしたりしている。
身体運動なんかしなくても、この身体がこの世界に存在しているという実存としての先験的な空間感覚があるのだ。
そしてそういう身体空間の感じ方の基礎は、おそらく胎内でつくられたにちがいないのだ。それだけは、ひとまずいっておきたい。
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胎内におけるこの空間認識を基礎に持っているから人間は、死後の世界もあるかもしれないと感じてしまうのだろう。死んでもまだこの世界の内側なのではないか……というイメージ。
「空間のゆがみ」とか「空間の裂け目」とか、それは、この世界の現象を扱う科学だけの問題ではない。われわれはそういう感じ方を、意識のはたらき基礎としてすでに持ってしまっている。触覚という原始的動物的な感覚でさえ、そういう異次元的な意識のはたらきの上に成り立っているのだ。
われわれの意識は、死後の世界を否定できないようなはたらき方をしている。それは死後の世界があるかないかという問題ではない。
身体の輪郭を忘れることが身体の輪郭を認識する、という体験。それはつまり、死ぬことはもう一度生き直すことだというイメージでもあるだろう。
そういう異次元空間があるのではなく、そういう異次元空間を感じる意識のはたらきがあり、それを基礎にしてこの生が成り立っている。
「非ユークリッド空間」がどんなものかは知らないが、それが人間の身体意識や空間意識とはまったく別のものだとは僕は思わない。この世界や宇宙空間がどうなっていようとも、それは、意識のはたらき方の問題でもあるのだ。この世界や宇宙空間がどうなっていようとも、人間は、無意識(あるいは意識のはたらきの基礎)として「ユークリッド空間」も「非ユークリッド空間」もすでに感じているのだ。すでに無意識として持っているから、科学者がそれを発見したのだ。
この世界の感じ方は、この世界のありようによって決定されているのではない。この世界の感じ方が、この世界のありようを決定するのだ。科学者は、この世界の感じ方を記述しているのだ。
いや、こんな大それたことを僕がいってもしょうがないのだが、とにかく意識は先験的に空間を認識しているのだ。
身体運動で空間を認識するのではない。すでに空間は認識されているのであり、そこからこの生がはじまる。
意識は、空間感覚として発生する。
この身体があるから空間を感じる、といっても、「この身体」がすでに「空間」として気づかされているのだ。
胎内の赤ん坊は、お母さんとの一体感にまどろんでいるのではない。すでに「個体」としての身体意識も空間意識も持っているのであり、たぶん、われわれが想像もつかないような不思議な空間感覚を体験しているのだ。それが基礎になって、現世におけるわれわれの五感がはたらいている。
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われわれの五感のはたらきだって、そうとう不思議ではないか。その不思議は、おそらく胎内空間でのトレーニングが基礎になっている。
われわれは、5メートル先の物音と10メートル先のそれとを、ちゃんと聞きわけることができる。それは、なんとなくわかる。
その聞きわけ方に、いったいどんな「身体運動」がイメージされているというのか。
それは、こちらが音のところまで移動した感覚ではなく、音の方がこちらまで移動してきた感覚である。しかも一瞬にして移動してきた、と感じている。音だって毎秒三百数十メートルという速度があるのだから、その速度を感じるかといえば、ぜんぜん感じない。「いまここ」で発した音のように感じる。「今ここ」なのに、距離=空間だけはちゃんとわかる。
その音は、現世的な運動として「移動」してきたのではなく、瞬間的に「ワープ」してきたように感じている。
われわれは、どうしてそんな感じ方ができるのだろう。
胎内でそういうトレーニングをしてきたからだろう。
身体運動が基礎になっているのなら、移動してきたように感じるだろう。しかし、今この瞬間にそこで音が発せられているように感じる。
それは、身体がそこに移動してゆくというような距離感ではない。
そこに音が存在している、という実存感覚なのだ。
その音の実在感が、距離=空間として翻訳されている。翻訳できる空間感覚を、われわれは、胎内でのトレーニングで身につけている。われわれはその距離=空間を、無意識でわかっている。「聞こえる」ということそれ自体が空間の認識になっている。距離=空間の計測などしていないのだ。ここでいう「ワープする」とは、そういうことだ。ワープして距離=空間を計測してしまっているのだ。
とにかく、ただ聞くという体験だって、ものすごく高度で複雑な空間感覚がはたらいているのであって、身体運動などというチンケな体験で可能になることではない。
その体験に、「身体運動」という手続きは必要としない。われわれが空間を認識するためには、「身体運動」という手続きよりも、「胎内体験」という人生の手続きというか過程の方がずっと重要なのだ。
われわれは、日常的に空間をワープするという体験をしている。これが、胎内でトレーニングされてきたわれわれの空間感覚の基礎にほかならない。
「見る」ということだって、同じだろう、対象とのあいだの空間=距離を一瞬にしてワープして帰ってくる体験だ。
とにかく、目が見えなくても、生まれたときからずっと体を動かしたことがなくても、われわれと同じように、ときにはそれ以上鮮やかに空間を認識することができるのだ。
胎内では、足の裏で触る胎壁が、一瞬にしてみずからの身体の内側の輪郭に変わる。
われわれがビルを見上げて高いと思ったり、目の前の人が自分より背が高いとか低いということを比べなくてもたちまちわかってしまうのは、その対象の身体の輪郭がまるで自分の身体の「内側」の輪郭であるかのように意識がワープしてゆき、つまりそうやって対象の身体の輪郭に自分の身体の輪郭をはめ込み、その高さや低さを測定しているのだ。背比べをするようなまだるっこしい「身体運動」をイメージしているのではない。直接そこに自分の身体をはめ込んでいるのだ。
そしてこういうことは、胎内でそのようなトレーニングをしてきた、と考えないことにはつじつまが合わないのだ。
僕は、「胎内体験」にこだわる。それは、すべての人間に当てはまる真実が知りたいからであり、できることならすべての生き物に当てはまる普遍にたどり着けたらと願っている。
というわけで、頭でっかちの鈍くさい運度オンチばかりが共有している空間感覚を押しつけられても困るのですよ。
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