承前
われわれはまず胎内空間で空間意識を持つ。
それは、どんな空間なのか。
みずからの身体と羊水との境界は自覚されているだろうか。
すでに生き物として生きはじめているのだから、それはきっとわかっているのだろう。
胎児は、すでにみずからの身体の輪郭を把握している。
身体という空間、胎児にとってそれはどのような構造になっているのだろうか。
胎児にとって、世界は完結している。
胎内は、われわれが感じている果てのない宇宙のような空間ではない。
世界が完結しているということは、「果てがない=無限」という意識がない、ということだ。
なんだか知らないけど、 「ユークリッド空間」に対する、「非ユークリッド空間」というのがあるのだとか。
その理論のことはよくわからない。「哲学はなぜ間違うのか?」というブログの管理人氏が盛んにこの二つの言葉を使っておられたから、ついつられて使ってしまったが、やっぱりやめにする。
とにかく僕は「身体運動で空間を認識する」という論理が気に入らないのだ。
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胎内では、足を伸ばせば、たちまち壁に当たる。そのとき胎児は、胎壁に当たっている足の裏を感じているのか、それとも胎壁を感じているのか。おそらく、足の裏のことを忘れて胎壁を感じる。われわれが抱きしめ合ったときに相手の体ばかり感じるのと同じだ。机の表面を指でなぞれば、指にささくれなどができていないかぎり、机の表面ばかり感じる。
であればその瞬間、胎児は、胎壁が身体の輪郭だと認識する。
胎児は、みずからの身体と羊水という世界(=空間)との関係を認識していると同時に、胎内の壁をみずからの身体の輪郭として認識してもいる。そのとき胎児は、身体のパースペクティブを内側と外側の両方から認識している。
胎児にとって、みずからの身体は「羊水=空間=世界」と関係していると同時に、胎内空間がすでに身体空間として完結してもいる。そしてそれは身体と世界が未分化であるというのではなく、世界が完結している、という意識である。閉じられた空間というのではない。感覚的には無限といえば無限なのだが、完結している。われわれの意識は、先験的にそういう空間意識をもっている。
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生まれたばかりの赤ん坊に意識があるのなら、胎児にだって意識はあるにちがいない。
アメーバだって、障害物をよけて動いたり餌を取り込んだりしているのだから、げんみつには意識がないともいえない。
胎児は、胎内空間で、身体を空間のパースペクティブとして「内側」からとらえてゆくトレーニングをしている。
そして母体の外に出てしまえばもう胎内の壁はないのだから、自分の身体だけが身体になる。そうなればもう、世界の果ては身体の輪郭でもある、というような空間感覚は成り立たない。
身体は身体だけの空間であると認識したからには、世界には果てがないという現世的空間的な空間感覚も背負って生きてゆくしかない。
われわれの意識は先験的に身体という非存在の完結した空間を持っているから、身体の外の世界にたいして無限の空間を感じてしまう。果てがないから果てがないと感じるのではなく、身体という非存在の完結した空間とは異質な空間だと感じるからだ。つまり、身体がこの世界に孤立して存在しているという、「個体」としての実存感覚の問題なのだ。
身体運動を仮想してそう感じるのではない。そう感じるから、たとえば自分の身体が果てのない宇宙空間に漂っているようなイメージも起きてくるのだ。
果てのない宇宙空間に漂っているようなイメージを浮かべるから果てのない宇宙空間を感じる、というのは、言語矛盾であり、論理矛盾だ。
意識は、実際の「身体運動」もしくは「仮想運動」によって空間を認識するのではない。身体が胎内世界とは異質なこの世界に存在しているという、「個体としての実存」において空間を認識しているのだ。
われわれの空間感覚は、身体という非存在の完結した空間のパースペクティブが基礎になっている。身体運動ではない。
われわれの意識は、身体(=脳)ではなく、何かよくわからない異次元空間ではたらいているように感じられる。そのように、意識はすでに非存在の異次元的な空間を知っている。そしてその意識は、身体と外界との境界ではたらいているようにも感じる。その「境界」が、「身体の輪郭」だ。「身体の輪郭」は、異次元的な非存在の空間として認識されている。
われわれは、胎内で、そういう空間感覚を持つようなトレーニングをしてきたのだ。すなわち、身体を「内側」から認識してゆく、というトレーニングを。
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超越論的というのか、根源的な意識にとって身体は、物質でも画像でもなく、異次元的な非存在の「空間」である。
胎内からこの世界に出てきてしまった今となっては、、胎内はまったく不思議な空間であるとわれわれは思うほかない。
羊水はまあ身体の栄養でもあるのだから、身体と同じ物質だともいえる。したがって身体を物質として認識することもほとんどないにちがいない。何もない非存在の空間との対比において、はじめて物質であることを意識する。すべてが物質であるのなら、そこは空間のパースペクティブが感じられているだけだろう。
胎内はすべてが物質だからこそ、非存在の「空間」世界なのだ。
胎児は空間意識だけがあって、みずからの身体が物質であるという意識を持っていない。
われわれは先験的に身体を非存在の空間として認識している。
胎内世界の空間感感覚がそのまま生まれおちてからの身体意識になったとすれば、この身体は非存在の空間であり、空間として完結している。
生まれおちた赤ん坊は、そのとき思いきり孤立感を味わわされる。それははじめて体験する感覚なのだから、われわれは生涯にこれ以上の孤立感を味わうことはないにちがいない。
そして身体が完結した空間だからこそ、身体の外の空間に「無限」を感じてしまう。
その管理人氏は、もしも地球が小さな球体で一時間で一周できるのならわれわれは無限というイメージを持たない、といわれるのだが、そういうものではない。
われわれにとって身体空間はそれ自体として完結しており、その外は「絶対的な外部」である。だから、「無限」を感じてしまうのだ。地球が大きかろうと小さかろうと関係ない。
生まれおちた瞬間に「絶対的な外部」としての「無限」の空間を感じてしまうのだ。そのとき目が見えていないからわからないじゃないか、というべきではない。見えないからこそ、よけいにそう感じてしまうのだ。
われわれだって、目をつぶったときにこそ、自分のまわりに無限の空間が広がっていることを感じさせられるのではないだろうか。
目が見えない者でも体を動かせない者でも、「無限」の空間を感じている。いやそういうものたちこそ、われわれよりもっとクリアにそれを感じている。
一生家の中から一歩も出なくても、「無限」の空間は感じるのだ。
われわれの意識は、見ること、体を動かすことによって「空間」を感じているのではない。自分がこの世に存在すると感じられることそれ自体が、身体のまわりの無限の空間を感じることなのだ。
空間意識は、「身体運動」によってもたらされるのではない。自分はこの世に生きて存在する、という「実存感覚」なのだ。
そしてそんなふうに感じてしまうのは、身体が非存在の異次元的な空間として完結しているからであり、その空間意識は胎内でのトレーニングによってもたらされている。
われわれは、先験的に身体を完結した非存在の異次元的な空間としてとらえる空間意識を持たされてしまっているのであり、それとの対比によってこの世界のありようを認識し、さらには無限の宇宙空間を感じている。
われわれのこの意識は、身体でも外界でもない異次元のどこかではたらいていると感じられる。身体空間のパースペクティブもそこでつくられている。
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西洋人は、人の生死について、「われわれはどこからやってきてどこにゆこうとしているのか?」と問う。どうして、死後の世界はある、と考えるのだろう。彼らにとってこの世界は、神の世界として完結している。
それに対して古代以前の日本列島では、「すべてのものは発生し消滅する」とイメージしていた。日本列島においては、神すらも発生して消えてゆくものだった。
古事記に記述されている最初の神は、混沌の中から生まれてきた「むすびの神」である。「むすび」とは、「発生する」という意味である。「縁を結ぶ」とは、「縁をつくる」ことではなく「縁が発生する」ということだ。古代人は、そう考えていた。
たとえば、恋をした古代の男女は、私たちの縁が発生したことの証しとして今ここの足元に生えているこの草と草を結んでおこう、というような習慣を持っていた。彼らは、自分たちが縁をつくったとは思っていない。「今ここという状況」によって「縁が発生した」と考え、その確認行為として草と草を結んだ。結んでおかないと次の瞬間には消えてしまう、と思った。結んでおけば、発生し続ける、と思った。
すべては「いまここ」において発生し、消えてゆく。それが、古代人の「世界観=空間意識」の行き着くところだった。神すらも「いまここ」において発生し消えてゆく、と彼らは考えていた。それが、やまとことばの「むすぶ」という言葉だった。
つまり古代の日本列島の住民は、生と死とのあいだに「発生と消滅」という「現象」を挿入した。われわれは無から生じて無に還る、と。どこからやってきたのでもないし、どこにゆくのでもない。すべてはこの生においてはじまり消えてゆくだけである、と。これだってまあ、すべてはこの生において完結しているという世界観である。
しかし「無」という概念を持っているかいないかの違いはある。そして「無」は「無限」でもあるのだが、無限すらもないのだ、と言っているともいえる。発生し消えてゆくのだから、空間すらもない、という空間意識。「無限」も「無」もない。すべてはわからない、というところで彼らは納得してゆくことができた。
すべては考え方の問題で、どこで腑に落ちるかという問題なのかもしれない。
わからないものはわからないのだ。だったら、とりあえず「無から生じて無に還る」ということにして生きよう、と日本列島の古代人は考えた。
「無から生じて無に還る」ということだってわからない。ただ、そう考えるのがいちばん腑に落ちるような歴史風土の中で彼らは生きていた、ということだ。
どこで腑に落ちるか?われわれはそこにたどり着くまでは、「なぜ?」と問い続けてゆかねばならない。
古代人は、腑に落ちるかたちとしてそう考えたのではない。死ぬまで問い続けるかたちとしてそう考えた。問い続けて 最後に死んで消えてゆけば、そこが腑に落ちるという着地点になる。だから、死んだらみな仏になる、という。
「いまここ」はたえず発生し消えてゆく。「いまここ」は、問いとして発生し、腑に落ちる前に消えてしまう。問い続けることが生きることだ。腑に落ちることはできないと腑に落ちて彼らは生きていた。
死ぬことは、腑に落ちること、腑に落ちるとは、問いが消滅すること。
意識は、「いまここ」に対する「問い」として発生する。完結した非存在の空間という身体意識を持った私が、身体の外の異質な空間に対して「なぜ?」と問うこと、そうやって人は無限の空間をイメージしてゆく。身体の外に空間が広がっていると感じることそれ自体が、無限の空間を感じている意識である。
つまり日本列島の古代人は、身体という非存在の空間に気づいていた。それは、異次元の完結した空間であり、「むすぶ」という言葉が生まれてくる背景には、そういう日本列島の住民の空間意識がはたらいている。その空間意識が、無限の果てのない空間というイメージを引き寄せる。
いや、そんなことは、人間なら誰だって気づいているのだ。原始人や赤ん坊だって気づいている。
どうしていまさらのように「身体運動によって空間に気づいてゆく」などといわねばならないのか。それは、身体運動の問題ではなく、「この身体が今ここにある」という「実存感覚」の問題なのだ。
身体が動かなくても目が見えなくても人間は、「空間」に気づいているのだ。
鈍くさい運動オンチが何をくだらないことほざいていやがる。
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そりゃあ「哲学はなぜ間違うのか?」というブログの管理人氏は、東大からハーバードを出て筑波の宇宙センターの所長にまでなった人で、誠実にそして悠々とわが道を歩んで思考を続けている立派な人ですよ。そういう一流の人は、そういう態度を持つことができる。
東大出の人間なんてみんなただの頭でっかちさ、などと思わない方がいい。それなりに頭がいいから東大に入ったのだ。それは、認めるしかない。
僕は僕なりにその管理人氏の明晰な頭脳を尊敬している。そして悠々とわが道をゆくというその思考態度を、たいしたものだともうらやましいとも思っている。
しかし、だからといって、そういう人の考えることはすべて正しいとはかぎらない。数学や物理学と違ってこういう問題に決定的な答えは出ない。
だから、エチケットを守って議論を進めてゆくことが建設的かどうかもわからない。
必ず答えが出る問題だったら、僕だってそうするさ。
でもこういう問題では、いや俺の方が正しい、といくらでも言い張ることができる。
だから、「鈍くさい運動オンチが何言ってやがる」という言い方もされなければならない。
実験をして正確な答えが出るという問題ではないのだ。
僕だって、「無学な人間の屑が何を厚かましいこと……」と言われることは覚悟している。
文句があるなら誰でも言ってくればいい。逃げはしない。僕だって人間の真実が知りたいのだ。
「身体運動で空間を認識する」なんて、ほんとにくだらない。
身体運動などできなくても身体運動をイメージできなくても、それでも人間は「空間」に気づいているのだ。
その管理人氏がどんなにすぐれた科学者ですぐれた人格者であろうとも、僕は僕なりに、「この世のもっとも弱いもの」という立場から人間の普遍に迫ろうとはしているつもりだ。
どちらが普遍に迫っているのか、そのことは問わずにいられない。最初から向こうの方が深く遠くまで考えているという前提を認めるような態度など、絶対取りたくない。
僕は、悠々と生きている一流の人間ではないから、不作法だってする。悠々とわが道をゆくということなどできない。
あっちにぶつかりこっちにぶつかりして考えてゆくしかない。
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社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
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