猿の社会は、競争社会である。力の強いものが勝つ……極めて明快で健全な競争社会だ。横並びに競争する。だから彼らは、基本的に「正面から向き合う」という関係を持っていない。戦うか、屈服させるか、屈服するか、そういう不測の事態として向き合う。
しかし人間は、「正面から向き合う」というかたちで基本的な関係をつくってゆく。具体的な生活の場面だけでなく、観念的にもそういうかたちで人と人の関係をイメージしている。
人間の言葉は、正面から向き合い、たがいの身体のあいだの空間に言葉を投げ入れ合う、というかたちで成り立っている。
猿にとって二本の足で立つという姿勢は、とても不安定で無防備な姿勢である。群れの中でその姿勢を保つためには、いったん「競争」することをやめなければない。そうしてたがいに正面から向き合い、競争する意思のないことを確かめ合わねばならない。
正面から向き合う関係を持ったことによって人類は、二本の足で立ち続けることのできる能力と骨格を発達させ、言葉をはじめとする人間的な文化を生み出してきたのだ。
すべては「正面から向き合う」という関係からはじまっているのであり、それは「競争を無化する」関係なのだ。
「競争を無化する」ことによって人類は、人間的な文化を生み出してきたのだ。
「健全(フェア)な競争社会」などといわれると、ほんとに「アホじゃないか」と思ってしまう。そんな安っぽい言葉を振り回して、何がうれしいのか。うれしがっているアホな大人たちがうんざりするくらいあふれている世の中だ。
正面から向き合い、競争を無化して人と人はときめき合っているのだ。何はともあれこれが、人と人の関係の基本である。そういう「出会いのときめき」から人は生きはじめる。
そういう人間であることの「素性」を忘れてアホどもが「健全(フェア)な競争社会」などと大合唱している世の中であれば、そりゃあ人の心も弱ってくるさ。
現代社会で、横並びに競争することばかりさせられてそういう習性が心や体にしみついてしまえば、人と向き合う関係になることが怖くなってしまう。
人と向き合うことが人間の本性なのだからそういう衝動はあるのだが、それがうまくできなくて心が弱ってゆく。
人類は、横並びで競争する関係を無化して、正面から向き合う関係になる文化を育ててきた。
正面から向き合ってたがいの身体のあいだの「空間」を祝福してゆく。二本の足で立つという不安定で無防備な姿勢で生きている人間は、そのたがいの身体のあいだの「空間」に安どし、生きてあることのカタルシスを体験する。
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あるインテリが、「身体運動を共鳴し合うことが人と人の関係の根源である」といっていたが、これは、横並びの「競争」を止揚する論理である。これが人間の意識の根源的なはたらきなんだってさ。つまり、「愛」を科学的に語ればそういうことになるのですよ、といいたいんだろうね。アホらしい。そうして彼は、「運動共鳴」という脳神経系のはたらきがあるというのだが、こんなのものは、古臭くも俗っぽいただの道徳論であって、脳科学の話でも、哲学の次元の話でもない。
脳神経に、「運動共鳴」などというはたらきがあるものか。鈍くさい運動オンチはすぐこういうことをいいだすから、いやになってしまう。
正面から向き合う関係になってたがいの身体のあいだの「空間」を祝福してゆくことによって、たがいにみずからの身体の物性を忘れてゆく。つまり、たがいに身体の物性を消し合う関係になること。二本の足で立つという不安定で無防備な姿勢で生きている人間は、その不安を消去し合うというかたちで関係をつくってゆく。
そのとき身体は「非存在の空間の輪郭」として自覚されている。生き物の根源における身体は「非存在の空間の輪郭」であり、身体を「非存在の空間の輪郭」として自覚してゆくことこそ生きるいとなみであり、二本の足で立って身体の無力感や危うさを抱えている人間は、ことにそのいとなみにおいて切実なのだ。
運動共鳴をする身体の「物性」を自覚することが、人間の「生きられる意識」になっているのではない。人間の身体は根源において「非存在の空間の輪郭」なのだから、「運動共鳴」なんかしていない。
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赤ん坊は、身体の無力さや危うさにおいて、われわれよりさらに切実であるにちがいない。
赤ん坊が、お母さんが手を叩くのを真似て自分も叩く。
このとき、たがいの身体は共鳴し合っているか。
赤ん坊がお母さんの身体をみずからに身体に翻訳することは不可能である。両者の身体は、大きさもかたちもまるで違う。赤ん坊にとっての手がお母さんの手と同じものだと思うことはできない。そんなことはもっと大きくなり、お母さんと同じような動きができるようになってからわかることだ。
そのときそれがはじめての体験である赤ん坊は、自分の手がお母さんと同じ動きができるということすら知らないのである。
それでも、お母さんを真似て手を叩く。
そのとき赤ん坊がお母さんの手の動きを見て笑ったのは、そのしぐさによってお母さんの体の前の「空間」が閉じられたのがおもしろかったからだ。そして自分も、体の前の「空間」を閉じてみようとした。
お母さんの体の動きそのものがおもしろかったのではない。お母さんと自分が同じ体を持っているという自覚を持っていない赤ん坊は、お母さんの体(の動き)そのものに反応することはできない。
ただもう、体の前の「空間」に干渉することがおもしろかったのだ。そうして自分もまねしようと思ったのは、それほどにみずからの身体の物性の無力さと危うさを忘れようとする意識が切実で、その切実さが無意識のうちに「空間」に干渉してゆくことに対する興味を引き起こしたのだろう。
それは、身体の物性を忘れてしまう行為として模倣されたのであり、身体と身体が共鳴し合ったのではない。
意識は身体の物性に共鳴しない。人間にとって身体は、ふだんは物体としてではなく、「非存在の空間の輪郭」として自覚されている。身体を「非存在の空間の輪郭」として自覚してゆくことが、われわれの生きるいとなみになっている。
身体の物性から逃れようとして、身体の前の「空間」に反応してゆく。これが、身体運動における意識のはたらきである。
身体が動くためには、身体のまわりに「空間」がなければならない。その「空間」に反応してゆくことが身体運動であり、意識の根源においては、その「空間」に反応するのであって、他者の身体(の物性)に反応するのではない。
つまりそのとき赤ん坊は、お母さんの身体(の物性)に反応するのではなく、お母さんと自分の身体とのあいだの「空間」に反応しているのだ。
まったく「運動共鳴」だなんて、知ったかぶりをして何を短絡的なことをいっているのだろう。身体運動は身体のまわりの「空間」に反応して起きるのであって、身体と身体が共鳴して起きるのではない。どんなに共鳴したって身体のまわりに「空間」がなければ動きようがないのだ。
「空間」に反応することが、身体が動くための絶対的な条件である。われわれの意識は、先験的に、まず「空間」に反応してゆくようにできているのだ。
そういう根源としてのたがいの身体のあいだの「空間」を祝福してゆくのが、人と人の関係の基本であって、身体と身体を共鳴し合うことではない。
早い話が、相手がどのように動こうと相手の勝手だろう。それを認め合わなければ、スポーツなんか成り立たない。それを認め合うのが人と人の関係の基本であり、人間としてのたしなみというものだ。
「運動共鳴」とはつまり、自分の身体の動きが相手の身体の動きの強制力になっている、とでもいいたいのか。人は、他者と同じ体の動きをしなければならないのか。アホらしい。おまえらの考えることは卑しい。まあ、親とか権力者という通俗的な人種は、「ヒューマニズム」とやらに名を借りて、往々にしてこういう考え方をしたがるよね。
しかしそれは、人間の真実でも根源でもない。
「運動共鳴」をしないことこそ、人と人の関係の基本なのだ。
人と人の関係において「正面から向き合う」ことが基本になっているのは、同じ身体運動をするためではなく、たがいの身体のあいだの「空間」を祝福するためである。
同じ身体運動をするのなら、かけっこのように横並びになった方がいい。つまり「運動共鳴」が人と人の関係の基本であるというのは、「競争」の論理なのである。
ほんとにくだらない。われわれは、競争をするために生まれてきたのではない。
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正面から向き合っている人どうしが、同時に前に向かって歩き出せば体がぶつかってしまう。
それは、「運動共鳴」が無化されている関係である。そういう関係を持とうとするのが人間の習性なのだ。
出会って、たがいに立ち止まる。そうして、あいさつをし、会話がはじまる。これが、人間の基本的な行動習性だろう。人と人は、立ち止まって「運動共鳴=競争」を無化した関係をつくってゆく。
立ち止まって、お辞儀をしてあいさつをする。むかしの人は、今よりもっと深く体を折り曲げて挨拶していた。道端でただの知り合いに会っただけでも、90度以上体を折り曲げたし、畳に座って向き合えば、頭を畳にこすりつけるようにしてあいさつしていた。
それは、相手を見つめるということ、すなわち「競争」はしないという態度表明である。
同じような身体の動きをしても、意識は相手の身体に向いていない。相手の身体に向くことを消去するのがお辞儀という姿勢であり、「運動共鳴」ではない。
それは、たがいに相手の身体の「孤立性=完結性」を尊重しようとする態度である。そしてこれは、原初の人類が二本の足で立ち上がったことそのままのコンセプトでもある。
人と人は、根源において、たがいの身体の「孤立性=完結性」を尊重し合おうとする。
「向き合う」という関係の非対称性、そこに人と人の関係の根源のかたちがある。
お辞儀は、「あなたと向き合っていることをお許しください」という態度表明である。だから人は「ごめんください」とか「すみません」という。そして西洋でも、「イクスキューズ・ミー」とか「ソーリー」とか「アイ・ベッグ・ユア・パードゥン」などといって挨拶する。この関係性においては、日本も西洋もないのだ。
生き物の世界においては、他者と正面から向き合うことは、他者の身体の「孤立性=完結性」を侵害することであり、と同時に人間においては、それによってたがいの身体の「孤立性=完結性」を保証し合うということをしている。
生き物は、競争を無化した身体の「孤立性=完結性」を生きる。なぜなら、それが保証されていないと身体を動かせないからだ。
だから、「運動共鳴」なんかしていない。
イワシだってたがいの身体の「孤立性=完結性」を保証し合いながら群泳しているのであり、人間はことのほかその意識が切実で、ことのほかその方法論が複雑なのだ。そしてそれが保証されていなければ、観念的制度的な「競争」も「運動共鳴」も成り立たない。
何はともあれ、挨拶することは競争を無化してたがいの身体の「孤立性=完結性」を保証し祝福し合う行為だ。われわれのこの社会でのいとなみは、ここからはじまる。
現代社会は、この基本が揺らいでしまっている。だから人々の心が傷つきやすくなったり弱ってしまったりする。
はじめに「競争」とか「運動共鳴」といった社会制度を確立してそこに人間を当てはめてゆくということをしようとすると、人の心はどんどん弱ってゆく。
社会制度と人の根源的な心の動きは、逆立している。社会制度に人の心をはめ込んでゆくことはできない。
社会制度はなるべく緩やかにして、人の心との兼ね合いの「なりゆき」で決まってゆくのがいいのだろう。
まったく、「運動共鳴」などという、何やら手垢にまみれた人道主義めいたへりくつで生き物の意識の根源を語られては困るのだ。そんなものはただの政治の問題であって、哲学の問題ではない。
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