「フェアな競争社会」など、人間にとっては苦痛なのだ。人間は、他者と競争しようとする生き物ではなく、他者と向き合おうとする生き物だ。
他者と向き合うことによって、二本の足で立つという姿勢を獲得していったのであり、猿だって二本の足で立ち上がることくらいいつでもできるがその姿勢を長く維持できないのは、基本的に「正面から向き合う」という関係を持っていないからだ。
猿の背骨は湾曲していてその姿勢を保つことに向いていない。人間は、正面から向き合うという関係とともにその姿勢を保つことのできる背骨のかたちを獲得していった。
もともと人類は、競争を無化しようとする習性とともに歴史を歩んできたのであり、そうやって二本の足で立ち上がり、地球の隅々まで拡散していったのだ。
人類の社会が競争社会化していったのは、氷河期が明けて共同体(国家)が発生してきた以降のことである。
だから、競争社会の論理で原始時代を語ることはできない。
氷河期明け以降は、競争を無化する文化を発展させながら共同体(国家)を発展させてきたのだ。
もしかしたら、競争を無化する文化が発展したから、共同体(国家)が生まれてきたのかもしれない。
共同体(国家)は、競争を無化する文化を基盤として成り立っている。だから、「社会保障」ということをするのだろう。
人間は、競争を無化する文化を持たなければ生きられない。だから、競争が成り立たない「家族」という空間をつくろうとする。あるいは、氷河期明け以降に家族という空間が定着したから、共同体(国家)をつくって競争することを覚えていったのかもしれない。
とにかく、人間の暮らしの基礎として「競争を無化する文化」がある、このことを僕はいいたいのだ。
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「競争を無化する文化」とは、「他者と向き合う文化」のこと。このかたちが直立二足歩行する人間と人間の関係の基本のはずだが、現代人はこの関係におびえてしまっている。
そりゃあ、「健全(フェア)な競争社会」などということを大合唱している世の中であれば、日本人ならどこかしらでおびえてしまう。われわれは、そういうやわな民族なのだ。そのことをいいとか悪いとかといってもしょうがない。われわれはそういう「競争を無化する」文化の歴史を歩んできた民族であり、それがわれわれの「素性」なのだ。この素性をたがいにさらすことによって人と向き合う文化の中でわれわれは歴史を歩んできたのだ。
この素性が出てしまうから、この国は外交交渉がうまくできない。
われわれは、「健全(フェア)な競争社会」を生きることが下手な民族なのだ。
ひところ、小学校や幼稚園の運動会の徒競争で一着二着の順位をつけないことが流行り、これをわけしり顔の知識人がよく「悪しき戦後民主主義の思考だ」というような言い方をしていたが、これはちょっと違うと思う。
競争する文化を歴史的な伝統として持っていないから、そういう成り行きになってしまうのだろう。
人々がそれだけ戦後の競争社会から追い詰められている世相を反映しているのだろう。民主主義に洗脳されたのではなく、「フェアな競争社会」という民主主義に追い詰められて、一着二着を決めることすらできなくなってしまったのだ。
現代社会において人々の心が弱っている、ということは確かにある。弱らせたのは、不景気のせいじゃない。たぶん、競争社会のせいだ。戦後社会は、バブルのときまで、柄にもなく競争社会を邁進してきた。そのつけが一挙にあらわれた。われわれはむやみな競争社会を生きることのできない民族なのに、それでもまださらに競争社会化させてこの不景気を立て直そうとしている。
まあ、団塊世代から現在の40代のバブル世代までの「戦後世代」はひとまず競争社会を生きる習性を持っているが、この国の伝統文化に回帰した心の動きを持ってしまった現在の若者たちはもう、競争社会化の流れについてゆけない。
現在、戦後世代の大人たちばかりが「健全(フェア)な競争社会」を叫び、それになじめない若者たちのライフスタイルはそこからどんどん離れていっている。彼らはもう、戦後世代が若かったころのように、いい車を欲しがったり海外旅行に憧れたり豪華なディナーのデートをするというような消費意欲はない。食うものなんかコンビニ弁当でけっこう、車なんかなくてもいい、そしていったん入った会社にしがみつくということもしない。そういう若者たちに競争社会を生きる夢と厳しさを持たせようと戦後世代は躍起になっている、という話をよく聞くのだが、果たしてその笛の音に彼らが踊りだすかどうか。
少なくともこの国の歴史は、そういう「競争」という笛の音に踊ることができるような伝統文化を持っていない。
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人間社会に置かれてあるかぎり、われわれは、人と向き合うことのできる文化を基盤として持っていなければ生きられない。
たがいの身体のあいだの空間にお金を置く……たしかにこれは、人と人が向き合うためのもっとも有効な方法のひとつかもしれない。戦後世代は、この方法に邁進してきた。だから、彼らの消費意欲はいまだに盛んだ。
そしてお金は、競争に勝った者のところに多く流れてゆく。競争の文化を持っていなければ、この社会システムはうまく作動しない。
付け焼刃の競争の文化では、この不景気の状況は踏ん張れない。
みんな心が弱ってしまっている。
だから、元気にならなければ、という。
そうじゃないのだ。
心が弱っているからこそ、人と人がときめき合うということも起きてくるし、美しいものやこの世界にときめくということも起きてくる。
心が弱っているということは、そう悪いことでもない。心にそういう部分を持っている人の方が魅力的だったりする。
まあ僕は、魅力的な若者が増えているような気がするし、この社会の人と人の関係がそう悪くなっているとも思わない。
バブルのころのみんなで浮かれ騒ぎしていたことの方がいい人間関係だったともいえないだろう。その結果としてたくさんの魅力的な大人たちを生み出したともいえないだろう。
世の中には、「ひどい人生だった」とか「疲れた」とか「悲しい」という思いを抱えて生きている人だっている。ポジティブにまさぐることができなければ人生じゃない、というわけでもないだろう。そういうまさぐり方ばかりしようとするから、いまどきの戦後世代の大人たちは魅力的じゃないのだ。
ひどい人生しか生きられなかったくせに「ひどい人生だった」といえないのが、今どきの戦後世代の大人たちだ。ひどい人生だからだめなのではなく、「ひどい人生だった」といえないから魅力的じゃないのだ。
彼らは、人間をトータルにというか普遍的に見ようとする視線がない。
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「哀愁」という言葉がある。1950年代から60年代にかけてのころの演歌や歌謡曲のタイトルとして盛んに使われた。「哀愁波止場」とか、「哀愁の町に霧が降る」とか「哀愁のからまつ林」とか、日本人はこの言葉が好きだった。「哀愁」とか「哀愁のカサブランカ」という映画もあった。
しかし、あまりに使われすぎたせいか、なんだかセンチなだけのひどく俗っぽい響きになってしまい、いつの間にかすっかり聞かれなくなった。その後の日本社会が経済成長の浮かれ騒ぎに邁進していったということもあるのかもしれない。
まあ競争社会においては、ネガティブな響きの言葉である。「不定愁訴」といえば、わけもなく心や体が萎えてしまうことを指す医学用語だ。
今では、「哀愁の漂う人だ」といえば、ただのみすぼらしさを皮肉っているだけである。
しかし言葉は汚れてしまったけど、日本人はやっぱりどこかしらでこのイメージに対する愛着を持っている。
「愁(うれ)い」という。これは、ただの憂鬱とはちょっとニュアンスが違う。「愁いがあるまなざし」といえば、人間としての深みや色気をあらわそうとしている。「秋の愁い」というときは、秋ならではのしみじみとした人恋しさや世界に対する感慨をあらわそうとしている。
手垢のついた言葉だが、日本人がそれほどに好きだから手垢がついてしまったのだ。
「哀愁」とは、もとはといえば、「はかなし」とか「あはれ」という、この国の伝統的な心性から生まれてきた言葉だろう。
死語というわけでもない。今となっては大まじめに使える言葉ではないが、「はかなし」や「あはれ」の伝統は、たしかにわれわれの心の底に息づいている。
不定愁訴の原因は、医者にも本人にもよくわからない。ただなんとなく、心や体が「愁(うれ)い」に浸されてしまう。
今や、この国全体が不定愁訴の状態になっているのかもしれない。
しかしこの「愁い=嘆き」を止揚してゆくことによってこの国の文化が生まれてきたのであり、もともとそういう民族なのだ。。
競争して自分だけの生きがいを勝ち取ってゆくのではなく、競争を無化してたがいに「愁い=嘆き」の中に生きた心地を見出してゆく文化。原初の人類はそのようにして二本の足で立ち上がったのだし、人間から「愁い=嘆き」を消し去ることはできない。
われわれは、「愁い=嘆き」とともに生きている。そしてそのとき「競争」は無化されている。
生きてあることの「愁い=嘆き」は、誰もが共有できるし、実際、人間であるなら共有しているのだ。われわれは、「なんとなく」そういうことを感じて生きている。
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東日本大震災で日本人が感じ共有していったのは、この「哀愁」だったのだと僕は思っている。
この体験によって日本人が変わったのかといえば、そんなこともない。むしろ、日本人であることをあらためて思い知らされた、というべきだろう。
そのときわれわれは、この生の「哀」と「愁」に深く浸されたのだ。それは、戦後の日本社会がいつの間にか置き忘れてきてしまった感慨だった。
そうして、今までの競争原理の言葉が、一瞬、全部無効になった。「がんばる」とか「元気になる」という言葉が、ひどく空々しく響いた。
「いまここ」の「哀しみ」や「愁い」を打ち捨てて元気なればそれでいいというものではないだろう。
自分の目の前で友人や家族が津波に流されて死んでゆくのを体験した人の「哀しみ」や「愁い」など捨て去るべきものなのか。そうやって元気になることの空々しさや自己欺瞞がそんなに素晴らしいことか。そんなことをいっても、彼らは、その「哀しみ」や「愁い」を死ぬまで引きずってゆくしかないのだ。人間なんて、その「哀しみ」や「愁い」を食べて生きてゆく生き物にちがいない。
その「哀しみ」や「愁い」が人間を生かしている。
自己欺瞞の空(から)元気に走って自滅していった人だっている。つまり、その「哀しみ」や「愁い」と向き合うことができなくて生命力を失っていったお年寄りや故郷を捨てていった人もいれば、それをかみしめて生き延びたお年寄りや故郷に残った人もいる。
この国の「はかなし」や「あはれ」の伝統的な美意識においては、そういう「哀しみ」や「愁い」というものの尊厳というのはあるし、それを忘れないのが当たり前の人の心というものだろう。
「哀愁」というのは、なかなかバカにできない言葉であり、われわれはその感慨を携えて生きているのだ。
「哀」と「愁」が、人と人を向き合わせる。被災者やボランティアの人たちは、その感慨を共有しながら向き合っていたのだ。
「哀」と「愁」を通奏低音にして、「癒される」ということが起きる。
そのとき、外国でよくあるようなむやみな略奪や暴力行為がほとんど起きなかった、といわれている。この国には、そういう競争を無化する文化の伝統がはたらいているからだろう。
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「哀愁」を見てしまった人はもう、「癒される」という体験がないと生きられない。そうやって競争が無化される感慨を共有しながら人と人は向き合っている、ということをわれわれは東日本大震災で体験した。
それでもまだ「健全な競争社会」などと薄っぺらなことをほざいている大人たちが大勢いるということは、ほんとうにうんざりなのだが。
われわれは、封建時代よりもずっと健全な競争社会を実現しているのだ。しかしそれで人間が賢くなったわけでも救われているわけでもないだろう。少なくともわれわれは、昔の人よりずっと人間関係に苦労し、さらにはずっと死ぬことにおびえながら暮らしている。
競争を無化する文化が脆弱になっているからだ。
競争を無化しないと人と人は向き合えないし、向き合えるのが人間なのだ。それが、二本の足で立つという不安定で無防備な姿勢で生きている人間という生き物の「素性」である。競争なんかしていたら、二本の足で立っていられないのだ。そういう宿命の上に、人間という存在が成り立っている。そういう人間であることの宿命を、われわれは東日本大震災で思い知らされた。
だから日本人はいま、弱っている。「不定愁訴」に陥っている。しかし人は、弱っているときにこそ、人間であることの根源と向き合い、生きた心地をより深く豊かに汲み上げてゆくのだ。
生き物には、滅びてゆこうとする衝動がそなわっている。そしてその衝動こそが、われわれ生き物を生かしている。生命力とは、あんがいそんなものではないだろうか。
三陸地方の人々は、危険を承知であの場所で暮らしていた。そしてあんなひどい災害にあっても、まだそこで生きようとしている。それは、人間が無意識の中に滅びようとする衝動を持っているからであり、それこそが生命力だからだろう。
また、滅びようとする衝動をどこかしらに抱えているから、あんなにもたくさんの人々が逃げようとする意欲をたぎらせることができなくて津波に飲み込まれてしまった。人間が、安全第一で生き延びようとするだけの存在だったら、もっと多くの人がもっと早く避難していったことだろう。そしてそういう人々が生命力が弱かったとはいえない。むしろ、強い人たちだったはずだ。
三陸の人々は、滅びようとする衝動を共有していた。しかしそれこそが普遍的な生命力のかたちであり、その衝動を共有して人と人はときめき合っているのだ。
人間の滅びようとする衝動は、みずからの生を正当化しない。みずからの生は「哀愁=嘆き」に浸されてある。だからこそ他者や世界にときめき、生命が躍動する。人間は、「哀愁=嘆き」を食べて生きている。
自分の人生を正当化したがるなんて、生命力の弱い人間のすることなんだよね。自信がないんだろうね。そういう人間にかぎって、死ぬ間際になって「不定愁訴」に食いつぶされてしまう。
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