人間は、生きることがしんどい状況に身を置いて、そこから「ほっこり癒される」体験(カタルシス)を汲み上げてゆくという習性を持っている。
安全・安楽が欲しいのではない、「ほっこり癒される」カタルシスを汲み上げたいのだ。つまり、しんどいことが消えてゆく体験。そのためにはまず、しんどい状況に身を置かなければならない。最初から安全・安楽なら、「ほっこり癒される」というカタルシスも体験できない。
原始人は、住みにくいところ住みにくいところへと移住しながら、地球の隅々まで住み着いていった。安全・安楽が欲しいのなら、そんなことはしない。
まあ、腹が減ったとか痛いとか苦しいとか暑いとか寒いとか、生物学的な生きるといういとなみそれ自体がしんどいことであり、そこから「ほっこり癒される」体験をして生きているともいえる。
だから、どうしてもそういう危機を生きようとする習性になってしまう。
現代人が競争したがることを否定してもしょうがない。人間は危機を生きようとする生き物だ。しかし人間にとって「競争」はあくまで危機であり苦痛でありストレスだということは自覚しておいた方がいい。「フェアな競争」それ自体が人間にとってストレスであり、それに邁進することによって人の心は歪んでゆくのだ。
「フェアな競争」を止揚する状況こそが、現代人の心をむしばんでいるのだ。いまどきの大人たちはそれしか能がなくて、競争を無化する関係をつくれないから醜いのであり、彼らがどんなに格好つけても、若者たちからは騒々しいただの悪あがきにしか見えない。
フェアな競争を止揚することによって、人の心は歪んでゆく。
フェアな競争社会に身を置いているからこそ、一方で競争を無化する関係を持っていなければ生きられない。
生きてあることそれ自体が競争状態に置かれることであり、だから人は、競争を無化する「文化」を生み出し、そこから生きてあることのカタルシスを汲み上げている。
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「生き物には生きようとする本能がある」と信じられるなら、「生き延びる」ことこそこの生の第一義的な目的になるだろう。
しかし、そんな本能などないのだ。生き物は、「いまここ」でこの生を完結させようとする。それが、「世界に反応する」ということであり、「世界に反応する」という作用なしには、どんな生き物も生きられない。
生き物が「世界に反応する」という作用を持っているということは、この生を「いまここ」で完結しようとする衝動を持っている、ということだ。その衝動なしに「世界に反応する」という作用は成り立たない。
生き物は、「生き延びる」ことを第一義として生きているのではない。「世界に反応」しながら生きているのだ。
「生き延びる」ためなら、「安全・安楽」こそがいちばんの宝だろう。しかし人間=生き物は、「世界に反応する」ことをこの生の原理として生きているのであり、だから「ほっこり癒される」という「世界に反応する」体験にカタルシスを覚える。それは、「いまここ」でこの生が完結する体験である。
われわれにとっての「生きられる意識」とは、「生きようとする意識」ではなく、「世界に反応する意識」なのだ。
金を稼ぐとか学問や芸術やスポーツをするとか恋をするとか結婚するとか、人間の行動そのものが「ほっこり癒される」という「いまここ」でこの生が完結する体験に向かってなされている。
「快感原則」などという言い方もある。ようするに、そういうことだ。安全・安楽に生きようとか生き延びたいということが第一義的な衝動としてはたらいているわけではない。
人は、快楽という「いまここ」でこの生が完結する体験を汲み上げながら生きている。それが、ここでいう「ほっこり癒される」ということだ。
大震災もあったし、今年の冬は「ほっこり癒される」体験のちょっとしたブームになっている。
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人類は、直立二足歩行の起源以来、「ほっこり癒される」体験を汲み上げながら歴史を歩んできた。
氷河期の北ヨーロッパで暮らしていたネアンデルタール人の社会では、その厳しい寒さのために人がどんどん死んでいった。おそらく乳幼児は、半分以上が生まれてすぐに死んでいった。
それはもう、トータルに考えれば、大震災に見舞われるのと同じ状況だったともいえる。もしかしたらそういう想像に絶する厳しい環境を生きた彼らこそ、われわれ以上に「ほっこり癒される体験」を必要としていたのかもしれない。そこから、ネアンデルタール=クロマニヨンの文化が生まれてきた。
4〜3万年前にアフリカからやってきたホモ・サピエンス(クロマニヨン)がネアンデルタール人を駆逐して滅ぼしたという集団的置換説の研究者は、従来から、原始時代のヨーロッパの文化は3万年前以降のクロマニヨン人のところで大爆発を起こした、と語ってきた。そうでなければ、「駆逐した」という理屈が成り立たない。
しかし考古学の発掘調査が進むにつれ、いまでは、ネアンデルタール人からクロマニヨン人への文化的な連続性を示す証拠がどんどん出てきている。
べつに、クロマニヨン人のところで大爆発を起こしたわけではない。人類が氷河期の北ヨーロッパに住み着いていったのが50万年前で、それ以来営々と築き上げられてきた文化の伝統の上に、クロマニヨンの文化が花開いていったのだ。
洞窟に壁画を描くということだって、クロマニヨン人のところからはじまったのではなく、ネアンデルタール人のころからすでにはじまっていたという証拠があらわれてきている。
当然のことだ。近代のアメリカ大陸でヨーロッパから移住してきた白人たちが圧倒的な兵力の差に物を言わせてインディアンを駆逐していったのとはわけが違う。
原始時代に遠いところに移住してゆくというような習性などなかったし、機関銃と石槍というような圧倒的な兵力な差などもなかった。
原始人には、遠いところに行って暮らせる能力などなかった。
アフリカのホモ・サピエンスがいきなり氷河期の北ヨーロッパに移住してゆけば、「ゆっくり成長してゆく」という体質である彼らから生まれた赤ん坊は全員すぐに死んでしまっただろう。
早く成長してその代わり早く老化してゆく、というネアンデルタール人の体質によってはじめて生き残ることができる環境だったのである。だから、彼らの子孫である現代のヨーロッパ人だって、そういう体質を色濃く残している。
体質的にも文化的にも、いきなりやってきた新参者よりもそこで長く暮らしてきたものたちの方が有利なのは当たり前のことじゃないか。
都会のサラリーマンがいきなり田舎に行って農業をはじめようとするなら、暮らし方も農業のやり方も、地元民に教わりながらやってゆくしかないだろう。
原始人は、そうかんたんに異種交配などしなかったし、する機会もほとんどなかった。
かんたんに「ホモ・サピエンスネアンデルタールの異種交配」などといっていい気になっているなんて、ほんとにアホだなあと思う。
4〜3万年前にヨーロッパに移住していったアフリカ人などひとりもいないし、そのアフリカ人が、長くそこに住み着いてきた伝統を持つ先住民であるネアンデルタール人を駆逐してしまうことなんかできるはずがない。
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ネアンデルタール人クロマニヨン人が洞窟壁画を描くとき、点線の模様が好きだという傾向があった。
物を小さくしてゆけば、最後は点になる。気持ちが収縮してゆくこと、そうやって安らいでくる、眠くなってくる。
「点」は、興奮している気持ちを鎮める作用がある。
彼らは、マンモスなどの大型草食獣との死をもいとわない肉弾戦の狩をしていたし、子供が次々に死んでいってもさらに産み続けるというように、彼らは激情家だった。
点線には、そういうふだんの激情や興奮を鎮める作用があったのだろう。
北欧の画家であるムンク「叫び」という絵に描かれた人間の狂気と苦悩は、おそらくネアンデルタール人にもあったのだろうし、われわれ日本人にはよくわからない。
研究者はいつも「象徴化の知能」によって絵を描くようになったといいたがるのだが、そういう知能の問題ではない。みずからの命のはたらきと競争するような彼らの苦悩や激情が、点線模様を描いて心を鎮めてゆくという行為を見つけていった。そしてそれは、50万年前からその極寒の地に住み着いてきた歴史と伝統から生まれてきた行為なのだ。
彼らは、その点線模様から「ほっこり癒される」という体験をしていった。
「競争」することは、人間であることの十字架であるのかもしれない。だからこそ人は、「ほっこり癒される」体験としての文化を生み出していった。
また彼らは、「田」という字のように、ひとつの平面の中に線を入れて平面を分割してゆく遊びも好きだった。これも、気持ちを収縮させ鎮めてゆく効果があったのだろう。人間はそうやって国境線を引いてきたのかもしれないし、そこからさらに分割して村や町として結束してゆくことも覚えていった。
平面を分割してゆくことにも、気持ちを鎮める作用がある。西洋でチェック模様が発達した源流は、ここまでさかのぼることができるのかもしれない。
「気持ちを鎮める」とは、この生を「いまここ」で完結させる体験である。極寒の北ヨーロッパを生きたネアンデルタール人の暮らしは、競争することよりもそういう体験を求めることに切実だった。
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日本列島の弥生時代の田んぼは、平地でも、今よりもずっと小さく区切られていた。そうしないと、ひとつの区画全体に均等に水を張っていきわたらせるということができなかったのだろう。
畑なら一つの区画ですむところを、五つにも六つにも区切って田んぼをつくっていた。区切るということが好きな民族でなければやっていけなかったにちがいない。とくに日本列島では、一面が平らという土地などめったにない。微妙な高低差はつねにある。それでも日本列島の住民は、田んぼをつくって稲を育てることにこだわっていった。
日本列島の住民もまた、平面を分割することの「癒し」に対する愛着の深い民族であったらしい。
また、和服の小紋とか鹿の子絞りなどの模様は、「点」に対する愛着であり、これほど高度な「点」の模様は世界でも類例がない。日本列島の住民もまた、生きてあることの「嘆き」を癒されたいという思いはとても切実な民族であった。
そうして西洋の水玉模様の丸がすべて完成した「オリジナル」の点であるとすれば、和服の鹿の子模様の点は、ひとつひとつが布を丸めて縛ることによって生まれてくる手づくりで、染め上がってみるまでそのかたちはわからない。それらは、すべてが微妙にかたちの違う「コピー=にせもの」の点である。そこに美を見出してゆく作法。正しいかたちの「点」などない。したがってそこでは「競争」が成り立たない。日本列島の民族は、そうやって競争を無化してゆく作法の文化を洗練発達させてきた。
競争がないから、たくさんの点をひとつに集めて味わいを出してゆくことができたのだろう。点であることの癒し、競争がないことの癒し。
「オリジナル=ほんもの」を競うのではない。すべてが「コピー=にせもの」になることによって競争を無化してゆく。これが、日本文化の伝統である。
だから、江戸時代の農民は「みんなで貧乏しよう」といったし、戦後の日本企業の終身雇用制は、もっとも進んだ共産主義である、などといわれたりもした。
われわれは、「正しい=オリジナル」という基準を持った「健全(フェア)な競争」にストレスを覚えてしまう民族である。
日本列島がなぜ「手づくり」の文化が発達しているかといえば、「健全(フェア)な競争」を無化してしまう美意識を持っているからだ。
弥生人が田んぼをいくつにも区切って稲作をしていたのも、「健全(フェア)な競争」を無化して手づくりをしてゆくことに愛着する日本列島の住民ならではの心の動きから生まれてきたのだろう。
日本列島の住民は、この生を嘆きつつそこから競争が無化されて「ほっこり癒される」体験を見出してゆこうとする伝統文化を持っている。そういう「素性」を持ってしまっているからわれわれは、現代の競争社会に決して小さくはないストレスを感じてしまう。
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たぶん日本列島の伝統文化は、「健全な競争社会」よりももうワンランク上の社会をイメージしている。
未来に向かって競争することを解体して、「いまここ」でこの生を完結させようとする文化。
なんのかのといっても、人類社会は、昔よりもずっと健全(フェア)な競争をするようになってきている。しかしそれで誰もが生きやすくなったかといえば、そうでもない。
もう、生きることそれ自体がしんどくなってしまっている。しかも、しんどくなってしまっているのに、それでも競争社会ゆえに「死にたくない」と焦っている。
原初の人類は、競争を無化しながら誰もが弱者になってゆくかたちで二本の足で立ち上がっていった。もしかしたらこのかたちが、人類社会のはじまりであると同時に究極であるのかもしれない。
なぜなら生き物は、究極において、未来に向かって生き延びようとするのではなく、この生を「いまここ」で完結させようとする存在だからだ。
「ほっこり癒される」とは、ともに弱者となって向き合っていることに安堵する体験のこと。たとえば、自然の前では人間はちっぽけな存在だ、などという。そうやって誰もが弱者になってゆくことによって、人間どうしの共感が生まれてくる。弱者になることこそ、人間の究極なのだ。そういう究極をイメージしながら人類社会は歴史を歩んできたのではないだろうか。
誰もが弱者になる社会とは具体的にどんな社会かということなど社会学者でもない僕にはよくわからないのだが、ともあれ人間は、つねにそういうかたちの「究極」をイメージしながら生きているのではないだろうか。
何はともあれこの生を「今ここ」で完結させること、これがわれわれの生の究極のかたちではないだろうか。
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