「漂泊論」・41・「ものぐるい」という「けがれ」

   1・女の中の混沌
さっき思いだしたのだが、日本語の「もの」という言葉の根源的なニュアンスをもっとも色濃く持っているサンプルとしては、「ものぐるい」という言葉を上げることができるのではないだろうか。
もののあはれ」の「もの」は、おそらく「ものぐるい」の「もの」だ。
女のものぐるい、という。女の方がラディカルにそういう心の動きを持っているらしい。
生理の時に突然わけもなくヒステリーを起してしまったりするときに、よくこの言葉が使われる。生理でなくても、女は日常的に女であることそれ自体に対する鬱陶しさやいたたまれなさのようなものを抱えていて、そこから意味不明の「ものぐるい」が起きてくる。
女は「ものぐるい」によって鬼=般若の顔になる。
このときの「もの」という言葉のニュアンスは、単純に「森羅万象」という「意味」だけではおさまりがつかない。
「もの」とは、わけのわからない物事がまとわりつくこと。すなわち、原初、「わからない」という心の根源のかたち(=無意識)から「もの」という音声となって発せられていった。
人間は、「わからない」という心の動きを根源において自覚して存在している。
「わからない」という自覚を持っているのが人間である。
「わからない」ということを「わかる=自覚する」ことを、「けがれ=ものぐるい」という。
猿は、ただわからないだけで、「わからない」と自覚することはない。
「わからない」と自覚すること、すなわちわからないとわかることのくるおしさを「ものぐるい」という。この生もこの身体も、わけのわからない鬱陶しい対象だ。
もののあはれ」とは、そのわけがわからないことの鬱陶しさがそそがれる体験のこと。
「あはれ」は、「空間」「消失」の語義。ここから「かわいそう」とか「はかない」という意味が派生してきたが、もともとは「消失」のカタルシスをあらわす言葉だった。
この鬱陶しい身体が消えてゆくカタルシスのことを「もののあはれ」という。
それは、「わからない」から「わかる」にたどり着くのではない。
「わからない」ことを「わかる=自覚する」ことが鬱陶しいのであり、その「わかる=自覚する」という体験を「けがれ」という。
「わからない」ことを「わかる」のが人間である。人間は、ここから生きはじめる。
この「わかる=自覚する」という心の動きを解体してゆくのが人間のいとなみであり、カタルシスなのだ。
われわれは、身体のことを、暑いとか寒いとか痛いとか空腹というかたちで気づいてゆく(=わかる)。「わかる」ことの「けがれ」の意識は、ここからはじまっている。わけのわからないものが体にまとわりついている状態に「気づく=わかる」ことを「もの=けがれ」という。
早い話が、人間にとって「わかる」ことは「ストレス」なのだ。それを「もの」という。
現代人は「わかる」という「ストレス」をためこんで生きている。そこから旅立って「わからない」という地平に立って「けがれ」をそそいでゆくことができないとストレスは解消されない。それは「消失感覚」であり、それを「あはれ」という。
暑さや寒さや痛みや空腹の鬱陶しさは、身体の物性の消失感覚によって解消される。つまり身体の物性が消えるとは、身体が「空間」として意識される、ということである。この「物性」」のことを「もの」といい、「空間性」を「あはれ」という。
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   2・「空間」を見る、という視線
たとえば、「木」を見る。
このとき木を物体として見るなら、たしかな「現実」であり、「存在」である。それに対して枝や葉によってつくられるさまざまな「空間」のあやを見ているとき、木の「物性」は忘れている。
われわれは、目の前のコップを取ろうとするとき、自分の身体とコップとのあいだの「空間」を見ている。この「空間」が把握されていなければ、コップに手を伸ばすという行為は実現しない。このときわれわれは、コップの「物性」を見ているのではなく、コップの輪郭の外側の「空間」を見ている。
指先で机の表面を撫でれば、指先ではなく、机の表面ばかり感じる。抱きしめ合えば、自分の身体を忘れて、相手の身体ばかり感じる。そのようにして、われわれは、対象を見ながら、同時に対象の輪郭の外側の「空間」も見ている。
木の幹を見ているとき、幹の内側の物質なんか見えるはずがない。表面が見えるだけである。そのとき意識は、表面ではね返されて、自分の身体に返ってくる。だから、自分と幹との距離=空間を感じることができる。
対象に向かう意識は、つねに表面ではね返され続けている。
そのようにしてわれわれの意識は、この世界の空間を漂泊している。
日本列島の住民は、「木」を見ながら、枝や葉っぱの「物性」ではなく、枝や葉っぱの輪郭の外側の「空間」を見ている。そこから「あはれ」という感慨が生まれてくるのであり、それはまた、人間の普遍的な世界の見方でもある。
意識は、この世界の空間を漂泊している。
古代や原始時代の日本列島の住民にとって「木」は、「気=空間」であった。だから「き」という。それは木の「物性」をあらわしている言葉ではない。「空間性」をあらわしている言葉なのだ。
「あはれ」とは命のはかなさを嘆く言葉である、などといわれるが、日本列島の住民は、風にも光にも「あはれ」を感じている。それは、ただ万物の生々流転を詠嘆しているだけの心の動きではない。そんな詠嘆はあとから付け加わってきたもので、起源においては、意識がこの世界の「物性」ではなく「空間性」に向いている状態から生まれてきた言葉=音声なのだ。
「あはれ」の語源は、「空間性」に気づく感慨の表出として生まれてきた言葉である。もちろん、古代人がそんな概念を自覚していたはずもなく、ただもう無意識のうちに「あはれ」といってしまう心の動きを持っていたということで、彼らは、無意識のうちに「物性」ではなく「空間性」に関心が向いている心の動きを持っていた。
いや現代人だろうとアメリカ人だろうと、普遍的に人の心はそのように動くのだ。
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   3・自然=根源に遡行してゆくということ
この生は一瞬の泡のようなものだ、という。そういう感慨は誰の中にもある。しかしそのことを事実として受け入れることができるかどうかということは別である。現代人は、それが事実だとわかっていても、受け入れることはできていない。この生をなんとかして充実して豊かなものにしたいと思う。「生きた証が欲しい」などという。ときには、この有限の生を永遠として感じたい、ともいう。
意識が「物性」に向いているかぎり、わかっていてもけっしてそれを受け入れることはできない。そうやって、現代人は死に対して悪あがきしている。
その事実は、「空間感覚」として、はじめて受け入れることができる。そのセンスを持っていなければ、どんなに頭で納得してもだめなのである。
それは、「悟り」などというものではなく、「空間感覚」なのだ。そういう「空間感覚」を持っている人は、悟りも修行もしないでも、最初からこの世界や命の「無常」を受け入れることができる。古代人や原始人は、みんな受け入れることができた。
そして人の心は、そういう根源=自然に遡行してゆこうとする運動性を持っている。
吉本隆明という人は「観念は無限に上昇してゆく」などといっていたが、それでも人の心は、根源=自然に遡行してゆこうとするのであり、そういうかたちでこの生のいとなみが成り立っているのだ。
それでもわれわれの意識は、コップの輪郭の外側の「空間」を見ながらコップとの関係をつくっているのだ。
だから物理学者は、物体の質量だけでなく、表面積や体積を計算する方法も考え出した。物体の運動について考えることは、物体の外側の「空間」について考えることでもある。
われわれの身体が動くのは身体の輪郭の外側に「空間」が存在しているからであり、われわれはその「空間」を感じながら身体を動かしているのであり、身体そものも、「物体」ではなく「空間」として取り扱っている。
鈍くさい運動オンチほど、身体を「物体」として扱い支配したがる。
意識はつねに「空間」を漂泊している。それを、古代人は「あはれ」といった。
「観念は無限に上昇してゆく」などということは、人の心の「病理」であって、「自然」ではない。だったら人類はやがて、世界中の人間が「おれは神だ、おれが宇宙だ」と言い出すのか。ほんとにあのバカ、何いってるんだろう。
われわれのこの身体が動くことは、意識の根源=自然に遡行しながらこの世界の「空間」を感じてゆく体験である。あのバカは、そういう根源=自然に遡行してゆくタッチを失って「観念だけの存在(本人がそう言っている)」になっていったから、ろくに歩くこともできないヨイヨイのじじいになってしまったのだ。
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   4・「あはれ」の原初的な体験
誰も身体とのかかわりなしに生きてゆくことはできない。心はいつもそこに引き戻されてしまう。それが自意識の基礎的なかたちであり、その自意識の「けがれ」をそそいでゆくことが生きるいとなみになる。
人間は、身体の物性を自覚することの鬱陶しさが骨身にしみついている。だから、「空間」に対する意識が特化している。
われわれは、二本の足で立っている猿として、たがいの身体のあいだに「空間=すきま」をつくって向き合っている存在している。この「空間=すきま」がなければ生きられない存在であり、この「空間=すきま」を止揚してゆくことのカタルシスを体験してゆくことを生きるいとなみにしている。
直立二足歩行前夜の原初の人類は、身体の「物性」に対する鬱陶しさが極まっていた。それが契機となって「空間」に対する意識が特化してゆき、二本の足で立ち上がるということが起きてきた。
「空間意識」が特化していることが、人間を人間たらしめている。
どんなに文明が発達しようと、この生がみずからの身体と関わってゆくいとなみであることから逃れられるわけでもない。そのようにして人間の意識はつねに根源=自然に遡行してゆく。つまり、身体の「物性=けがれ」をそそいで身体を「空間」として取り扱ってゆこうとする根源=自然に。
観念が上昇してゆくことの「けがれ」を自覚し、根源=自然に遡行しようとして人は旅に出る。観念それ自体が根源=自然に遡行しようとするのだ。
人間は快適さを追求する生き物であるが、快適さに慣れれば、やがて快適であることそれ自体に対する「倦怠=けがれ」が生まれてくる。「無限に上昇する」というわけにはいかないのだ。
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   5・もううんざり、ということ
現在は、そういう「倦怠=けがれ」が自覚されはじめている時代であるのかもしれない。
女の「ものぐるい」は、意識が身体の物性にとらわれている「けがれの自覚」から起きてくる。そうして、身体の物性を消去してゆくことによって「みそぎ」が果たされる。そういう体験から「あはれ」という言葉=音声が人の口からこぼれ出るようになってきた。
そしてこれは、原初の人類が二本の足で立ち上がったことと同じ体験であり、それ自体がすでに「みそぎ」の旅に出て漂泊してゆく体験だった。そのとき人類は、他者の身体とのあいだに「空間=すきま」を見出し、みずからの身体の物性が消去されてたんなる「空間の輪郭」になったような心地を覚えた。それはまさに「あはれ」という感慨だったはずである。
生き物は、身体の「物性=けがれ」を自覚したところから生きはじめ、それを消去しようとして体を動かしてゆく。体を動かすことは、体を「空間の輪郭」として取り扱うことなのである。
意識は、「空間」という「ない=わからない=根源」に遡行してゆく。人間の文化だって、この作法として生まれてきたのだ。
この「空間=わからない」という意識が特化しているのが人間なのだ。
この世界の物事に対して「わからない」と反応し「何・なぜ?」問うてゆくのが人の心であり、われわれはそういう作法の上に人と人の関係の文化をつくっているのであって、わかっていることを教え合い伝達し合うことが醍醐味なのではない。
話が少し脱線してしまったが、つまり、女の「ものぐるい」はそのまま原初の人類が二本の足で立ち上がったときの契機と同じ心の動きであり、それはまさに、そういう人間としての根源=自然に遡行してゆく心動きなのだ。
人の心=観念は、つねに根源=自然に遡行してゆく運動性を持っているのであり、この生のいとなみは、じつはそういうところで成り立っている。そういうタッチを持っていなければ、われわれは目の前のコップを取ることすらできなくなってしまうのである。
われわれの観念は、「無限に上昇してゆく」ことなんかできない。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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