「漂泊論」・40・「わからない」という場から生きはじめる

   1・詐欺師の素質
青信号は進めで赤は止まれということならまだなんとかわかるが、あの人はいい人か悪い人かということなど、そうかんたんにはわからない。世の中にはそういうことをじつにかんたんに決めつけてしまう人もいるが、ほんとうは誰にもわからない。
相手の気持ちを見抜いて相手を説得したり支配したりするのが上手な人がいる。しかしそれは、ほんとうに相手の心の動きがわかっているのかといえば、そうともいえない。こう言えばこう反応してくるというパターンを知っているというだけで、心そのものがわかっているともいえない。わかっていたら、説得したり支配したりできるはずがない、という場合は多い。往々にしてそれは、相手の心を無視してなされている。無視できるくらい鈍感だからそういうことができるともいえる。鈍感というか、想像力の問題だ。
詐欺師は、人情の機微がわかっているのか。詐欺師ほどわかっているつもりの人間も珍しいが、われわれ普通の人間は、そんな自覚はない。ないから、世の中が成り立っているともいえる。人の気持ちなどわからないし、そうかんたんに人をだましたり丸めこんだりすることはできない、と思っている。
世の中が人の気持ちがわかっているつもりの詐欺師みたいな人間ばかりなら、うかうか街も歩けない。
おたがい相手の気持ちなどわからないし相手の気持ちは尊重するしかない、というところで世の中が成り立っているのではないだろうか。
むやみに詮索しない、むやみ相手の気持ちを見透かしたようなことは言わない、というマナーはあるにちがいない。それで、世の中が成り立っている。そういうマナーを踏み越えて、詐欺師やえらそうにふるまう人間が跳梁跋扈する。
わかっているつもりになんかならない。
じつは、「わからない」という場こそ人間社会を成り立たせているのではないだろうか。
われわれは、ひとまず「わかる」という制度的な場から生きはじめ、「わからない」と問いながら人と人の関係の文化をつくり育ててゆく。恋や友情や遊びや学問や芸術だって、そのようにして生まれてくる。
しかしいまどきの世の中は、その制度的な「わかる」ということが目的化され、ひとつの処世術になっている。
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   2・「わからない場」から生きはじめるということ
四足歩行の猿が二本の足で立つことは、とても不安定で、胸・腹・性器等の急所を外にさらして、攻撃されたらひとたまりもない姿勢になることである。
したがって二本の足で立っている猿である人と人が向き合っているということは、たがいに相手の姿勢の弱点に干渉しないことを示し合うことでもある。そのために、たがいの身体のあいだに攻撃することが不可能な「空間=すきま」をつくり合い、この「空間=すきま」によってひとまず相手の弱点が「わからない」存在になるのだ。
会話をすることは、たがいの身体の仇の「空間=すきま」に言葉を投げ入れあうことであり、それによって人と人は最小限の「空間=すきま」でたがいの身体の安全を保障し合っている。
その「空間=すきま」を止揚し合うことが、たがいの身体の安全を守っている。そして、「空間=すきま」を止揚するなら、相手のことは「わからない」という立場にならならなければならない。
われわれは、相手のことがわかることを不可能にする「空間=すきま」を共有している。
相手のことが「わからない」存在になることが、人と人の関係の根源的な作法である。
またそれは、自然界においてより身体的に弱い存在になることなのだから、生き延びようとする意欲を捨てているということである。
二本の足で立ち上がって暮らすようになれば、まわりの景色の見え方も歩き方も他者との関係も一変する。そのとき人類は、何もかも「わからない」というところから生きはじめたのだ。
「わからない」という場に立つことこそ、人類が人類になった瞬間だった。「わからない場」こそ、人間の「生きはじめる場」なのだ。
その「わからない場」に立つことによって、猿よりもはるかに豊かで深い問いを発する生き物になり、やがて言葉や道具の発明などのさまざまなイノベーションを実現してゆくことになった。
この「わからない」という心の動きこそ、われわれが、人と人の関係をはじめとするこの生を生きる作法の基礎になっている。
この「わからない場」に立つ作法を持っているから、「わかる」という体験も深く豊かになってきた。
「わからない場」に立つことこそ、人間性の基礎である。
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   3・「わからない」というときめき
私は、あなたが美人であることにときめいている。
しかしそれは、私の一方的な思いこみ(印象)であって、客観的な事実であるのかどうかはわからない。世の中には、あなたのことを美人ではないという人もいるし、私のあなたの顔に対する印象と、あなた自身が自分の顔について抱いている印象とも違う。
あなたは、自分の顔のことをいやな顔だと思っているかもしれない。しかしそんなことは私には知りようもないことだし、私はただもう、私自身の勝手な印象だけでときめいている。
そのとき私は、客観的事実もあなたの心のこともわかっていない。わかっていないというその心でときめいている。「わからない」というそのことが、私をより深くときめかせている。
人間の心は「わからない」という場に立つから、より深くときめく心の動きを獲得している。
人間の心は、「わかる」という場に立つための装置ではない。つねに「わからない」という場に立って「何・なぜ?」と問うたりときめいたりしてゆく装置なのだ。そのようにして、人間的な文明や文化が生まれてきた。
あなたは、自分のことを憶病だと思っている。でも私は、あなたのそんな心を繊細で敏感な心だと思っている。私は、あなたのことがわからない場に立って、ひたすら自分の印象だけでときめいてゆく。
何度でもいう、人間的な意識とは、「わからない」という場に立つはたらきである。
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   4・「わかる=確信する」ということの「けがれ」
「わかる」ということは、その答えの中に閉じ込められることである。人の心は、そこから旅立ってこの世界や他者にときめいてゆく。
つねに自分のことや他人のことがわかっているつもりでそれを確認しながら生きている人の心と、いつだって自分のことも他人のこともわからないという場に立っている人の心と、いったいどちらがこの世界に深く豊かにときめいているだろうか。
社会の制度性は、ひとまずおたがいのことをわかり合っているという前提に立って予定調和の関係をつくってゆく装置である。まあ、社会がそのようにして動いているのなら、それでもかまわない。しかしそれは、人間として不自然な病理だということにも、われわれは気づいている。
われわれは、そういう制度的な予定調和の関係に閉塞感を覚えている。
だから、そこから旅立って、プライベートな恋や友情をはぐくんでいる。
「わかる」という予定調和の人と人の関係に、ときめきなどない。不自然で病理的な関係だからこそ、それを「けがれ」と自覚し、そこからの解放としてプライベートの場で恋や友情をはぐくんでゆく。
もちろんこの世の中には、制度的な予定調和の恋や友情もたくさんある。現在のように世の中がすっかりそんな仕組みというか合意に覆われてしまっているのなら、恋や友情だってそんなかたちになってしまうだろう。そうしてそれをほんとの恋や友情だと思っている人も多い。なにしろ制度性とは「確信」を共有してゆく装置なのだ。
おたがいがべったりくっついて、相手のことをわかったつもりになって、たがいに自分を好きになるように仕向け合っている。その馴れ馴れしさ。そこには、「愛されたい」と願い、「愛されている自分」を確認したいという強迫観念がはたらいている。そういう強迫観念で、社会の制度的な人と人の関係が成り立っている。
社会の制度性は、支配し支配されるという馴れ馴れしい関係をつくるための装置である。現代人はもう、そのパターンで恋や友情もイメージしてしまっている。
そんなパターンなど強迫観念という病理にすぎないのに、人の心の本質だという。
どうして彼らは、人格者ぶるのだろう。「愛されたい」と願い「愛されている自分」を確認したいという強迫観念が強いからだ。人格者とは、愛される資格を持っている人間のことであるらしい。そうやってこの社会の「仲間になる」ということが目的化されている。
そうやって彼らは「愛する=愛される」ということを形式化制度化し、仲間になってゆく。人格者は必ずしも魅力的な人間ではないから、そういう形式=制度にすがる。
愛されたことのない人間の愛されたいという飢餓感やルサンチマンが、人と人の関係を書意識化制度化し、その欠損を取り戻そうとする。
ときめき合うことよりもまず仲間になることが大事で、仲間になることがときめき合うことなんだってさ。
金とか口のうまさで口説いてもてているつもりになるのも一緒で、たがいに勝手にときめき合うという体験をしたことがないから、そういう作為的な方法論に執着する。自分から勝手にときめいてゆくという心の動きを持っていないから、形式=制度としての「ときめかれている=愛されている」という関係で、そのアイデンティティの欠損を埋めようとする。
彼らには、形式=制度としての馴れ馴れしい関係が必要だ。まあ、勝手に人にときめいてゆく心の動きを持っている人は、そんな形式=制度には執着しない。言い換えれば人は、そんな形式=制度から旅立って他者にときめいてゆくのだ。
人と人の関係の根源は、相手のことが「わからない」という「空間=すきま」を共有しているから、つねに一方的にときめいているだけである。
相手の心は「わからない」のだから、愛されているという自覚を持つことなど不可能なのだ。
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   5・自分がわかる、すなわち「自分は愛されている」と自覚することの制度性
現代社会は、馴れ馴れしい関係になって第三者を排除するという三角関係をつくることによって社会のダイナミズムを生み出している。だから、排除される第三者になるまいという強迫観念が募る。そういう強迫観念で人と人の関係をつくっているのだが、うまく社会に適合して排除する側に立てたものは、その強迫観念を意識の底に封じ込めることができるからほとんど自覚していない。健康なようで、彼らの人間関係の作法の実質は、つねにこの強迫観念の上に成り立っている。
そうして、排除される側に立たされたものは、「愛されたい」と願い「愛されている自分」を確認しようとする強迫観念が意識の表層に露出してしまうことになる。露出しようと意識の底に封じ込めようと同じことなのだが、露出してしまえば、現実の病理現象となる。
いまどきは、「愛されたい」と願い「愛されている自分」を確認にしようとする強迫観念が肥大化した大人ばかりの世の中である。
彼らの第三者を排除しようとする意欲のすさまじさは、いったいなんなのか。それは、この社会の仲よしこよしの予定調和の関係を確保しようとする強迫観念である。
彼らは、そういう仲よしこよしの予定調和の関係の中にいようとする強迫観念が旺盛だから、庶民はアイドルを欲しがるし、インテリは、文献にもたれかかって発言しようとする。尊敬する先人を持っていないと安心できない。そうやって、せっせと文献を引用してインテリぶっていやがる。
先人や師を尊敬していると清らかぶっても、ようするに、第三者を排除する側のポジションに立っていたいのであり、排除される側に立たされることが怖いのだ。そうやって仲間から「愛される」、と自覚し、「自分は純粋で清らかな人間だ」と自覚してゆく。
しかしまあ、ほんとうに純粋で清らかな人間は、自分が純粋で清らかな人間だとは自覚していないのである。自覚しているというそのことが、純粋で清らかでない証拠なのだ。
この世のもっとも純粋で清らかな心は、第三者の側に立たされている「この世のもっとも弱いもの」のもとに息づいている。
彼らは、「愛されたい」という願いも「愛されている自分」を確認しようとする欲望も断念している。つまり、自分は純粋で清らかな人間であるという自覚を持っていない。
根源的には、人はそこから生きはじめる。純粋で清らかな人間だと自覚したところからではなく、「けがれ」を自覚したところから生きはじめるのだ。
この世のもっとも弱いものたちは、人の心も自分の心も「わからない」というところから生きはじめる。他者とのあいだにそういう「わからない」という「空間=すきま」を持っている。
この世の大人たちの、人の心も自分の心もわかったつもりになる馴れ馴れしい関係など、<人と人はたがの身体のあいだに「空間=すきま」をつくって向き合っている>という人間性の自然から逸脱した「病理=けがれ」なのだ。われわれは、そこにたどり着くために生きているのではない。そこから生きはじめて、その「けがれ」をそそいでゆくことにカタルシスがある。
それは、「わかる=確信する」という制度的な「けがれ」をそそいでゆく行為である。
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しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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