都市の起源(その三十)・ネアンデルタール人論181

その三十・秋葉原事件の加藤君の場合

秋葉原通り魔事件は、都市の問題でもあった。まあ、都市の雑踏の中で起きた事件だったわけで、都市の雑踏とは何か、ということについて考えてみたい。
人と人の関係の基本というか自然は、一方通行の思いを向け合うことにあるのであって、「自分は好意を持たれている」とか、哲学や心理学でよくいう「他者に承認されている」とか、そんなことを確認することにあるのではない。
人は根源において、「承認願望」など持っていない。それは自分の勝手な思い込みであって、そんなことはわかるはずがないし、そんなことが他者に「ときめく」契機になっているのでもない。たがいに一方通行でときめき合っているだけことで、他者の承認を確認することの不可能性の上にこそ豊かな「ときめき」が生まれてくる契機がある。
「好意を持たれる=承認される」ことが目的で醍醐味であるのなら、こちらからときめいてゆく必要なんかない。ときめいてゆかなくてもその目的を達成することはできる。もともと人は一方的にときめいてゆく存在なのだから、こちらがときめいてゆかなくても、ときめいてもらえることなんか不可能なことではない。そういう「承認願望」が肥大化して、自分を見せびらかすことばかりに熱心になっていったあげくに、他者にときめく心模様を失ってゆく。世の中には、そういう傾向の人間はけっこういる。内田樹なんかはその典型だし、彼のシンパだって、多くは同じ人種なのだろう。
「好意を持たれている=承認されている」などと思うな。そんなことを確認したくて人は、他者を支配しようとしたり、監視したり、すがりついたり、追いかけまわしたり、必要以上になれなれしくしていったりする。そうして、あげくの果てに嫌われる。まあ嫌われなくても、「承認願望」に対する欲求不満を募らせながら、そうした傾向が肥大化してゆく。
他者の、自分に対する「好意」や「承認」など当てにするな。一方的にときめいてゆけ。それが、人としての自然というものだ。言い換えれば、他者の「一方的なときめき」を抱く人間性を利用してみずからのナルシズムを満足させようとするなんて、とても下品で卑しい根性だ。そうやって他者に好かれることばかり画策しながら、「だからあなたは嫌われる」という場合も少なくない。まあ世の中には、その画策に成功して生きている人もいれば、失敗してばかりいる人もいるし、失敗し欲求不満を募らせながら画策の仕方が上手になってゆく場合もある。


人に好かれようとして自分を見せびらかしてゆく。
原節子は、「そういう自分を卑しくすることはしたくない」といっている。それが彼女の「気品」になっていたわけだが、画策しなくてもいくらでも人に好かれときめかれる身分だからだ、といってひねくれるべきではない。画策しないから、それが「気品」となってあらわれ、多くの人の好かれときめかれたのだ。原節子がもしも画策したがりの女だったら、避けがたくそれが表情やしぐさになってあらわれるし、あれほどの大女優になったかどうかはわからない。
画策したがりのブスというのがいるのだとしたら、それはブスだから画策したがるのではなく、画策したがるその卑しさがどうしようもなくその表情やしぐさや言動にあらわれて「ブス」という印象を持たれてしまうだけのこと。
画策するというそのスケベ根性とは無縁の女は、その顔のつくりがなんであれ、それなりに「品」というものを持っている。
ともあれそういう欲望や画策が渦巻く現代社会であれば「承認願望は人間性の基礎(本質)である」などといううがった認識もとうぜん生まれてくるのだが、まあ「承認願望」なんてただの「ミーイズム」であり、現代社会の制度性によってもたらされる観念のはたらきにすぎないのであって、誰の心の底にも息づいている人間性の自然=普遍でもなんでもない。
「好かれる=承認される」ことなど当てにしないで一方的にときめいてゆけるところにこそ、人間性の自然=普遍がある。そういう「遠い憧れ」は誰の心の底にも息づいている。


世間ではよく「母に愛されているという実感を持てることによってこそ子供の心は健全に育ってゆく」などというが、そういう実感をむやみに欲しがって恨んだりしながら心が病んでゆくのであり、母親はいい迷惑だろう。そうやって母親を途方に暮れさせている場合も多い。そんな実感を欲しがり出したら、「もっと、もっと」と際限がなくなるのがつねで、そんな肥大化した欲望に付き合わねばならない義理など母親といえどもないにちがいない。
母親が人としても女としても魅力的でないことは、子供にとってそれがそのまま自分の限界を知らされるようで大いに不安になったりもするのだろうが、「母に愛されている」ことなんか鬱陶しいだけの場合も多い。そうやって、幼児期や思春期の「反抗期」が起きてくる。
子供が「母の愛」を欲しがっていると、そうかんたんに決めつけられても困る。
ネアンデルタール人の母親はそれほど熱心に子育てしたわけではなく、乳児期を通過すれば集団のみんなで育てていたし、大きな子が小さな子の面倒を見るという子供だけの社会もあった。おそらくその伝統で、ヨーロッパ人の母親は、日本人の母親ほど子供にかまわない。
子供自身は、大人が思うほど「母の愛」など当てにしていない。当てにしていないほうが健全なのだ。
「承認願望」などという卑しく身勝手な欲望が人間性の自然だとはいえない。
むやみに好かれたがったり、好かれているとうぬぼれたりするなよ。その厚かましさが、人と人の関係をゆがませている。


人は、他者に愛されることを願っているのではない。他者が存在することそれ自体の輝きにときめいているだけだ。まあ、そんなひとりの「あなた」という相手と出会うことができる機会はそうそうないのかもしれないが、その体験にこそ都市生活の醍醐味がある。つまり人類は、「都市」という無際限に密集した集団の中で、そうした関係を見出していった、ということだ。
密集しすぎた集団は鬱陶しい。都市の雑踏の中では、ひとりひとりの違いがよくわからなくて、集団という塊ばかりが意識される。しかしだからこそ、その鬱陶しさから逃れて、たったひとりの「あなた」に意識の焦点が結ばれてゆく。
われわれは、都会の雑踏を歩いていても、視覚はたえずその中の「ひとりのあなた」をとらえている。そういう「一点に焦点を結んでゆく」視覚を持たなければ、雑踏の鬱陶しさに耐えられない。雑踏だからこそ「ひとりのあなた」に意識の焦点が結ばれてゆく。
まわりのみんなが同じ顔に見えたら、気味が悪くてその中にいることはできない。まわりのみんなが自分に悪意を持っているように見えるとか、まわりのみんなが自分よりも幸せであるかのように見えるとか、あるいは自分がまわりのみんなより幸せですぐれた人間であるかのように思えるとか、雑踏の中にいるとそんな不安や優越感を抱きがちだが、不安であろうと優越感だろうとそれは病理的な意識で、それでもというかそれだからこそというか、意識はたえず「ひとりのあなた」に気づきながら歩いている。そういう「一点に焦点を結んでまわりがぼやけている」という視覚を持てなければ、雑踏の中を歩くことはできない。
秋葉原通り魔事件の加藤君はおそらく、そういう「一点に焦点を結んでゆく」心の動きを失い、まわりのすべてが同じに見えてしまって、たえず緊張していなければならなくなってしまったのだろう。自分は人よりも優秀であらねばならないという強迫観念を親から植え付けられ、たえず緊張して生きてきた。優越感を持つことができる人生ならなんの問題もなかったが、どんどん持つことができない状況になってゆき、逆に人はみんな自分よりも幸せで優秀だという不安に覆われてしまった。
まあ彼ほどではないにせよ、そんな不安と優越感のはざまで生きている人は世の中にいくらでもいて、そういう強迫観念を持たせてしまう社会の構造になっている。そのあげくに、認知症鬱病やインポテンツや発達障害や引きこもり等々、いろいろややこしい社会的な病理を引き起こしている。
意識が「ひとりのあなた」に焦点を結んでゆくことの「ときめき」が持てなければ、都市では生きられない。


正しく優れた人間でありたいと願うということは、自分は正しく優れた人間であらねばならない、という強迫観念でもある。その強迫観念で社会的に成功してゆく人もいれば、加藤君のように成功が得られないままみずからの強迫観念に押しつぶされそうになりながら生きている人もいる。
「正しく優れた人間である」という自覚など、他者にそう評価されることによってはじめて成り立つのであって、自己完結できるわけではない。「承認願望」は、そういう強迫観念を抱えた人たちのもとで生成している。そうやって彼らは、自分を見せびらかすことに躍起になってゆく。
「承認願望」は、「ミーイズム」なのだ。ときめかれることさえできれば、ときめいてゆく必要なんか何もない。はげしく他者に執着しているが、ときめいてなんかいない。関心があるのはあくまで、「承認される(愛される)自分」なのだ。他人の人格なんか、こちらから勝手に決めつけているだけで、「何だろう?」と問うてゆく「ときめき=好奇心」はない。
人は、根源において「承認願望」なんか持っていない。人と人の関係は「一方通行」なのだ。「一方通行」の「ときめき」をやりとりしながら「連携」してゆく。
「承認願望」なんて、自分を見せびらかしながら他者の心を支配しようとしているだけのこと。
彼らにとって自分以外の他人なんか十把ひとからげであり、自分の分析(=支配)がおよぶ範囲の存在にすぎない。まあそうやって都市の雑踏の中で、「自分はこの中の人たちよりも正しく優れている」とうぬぼれたり、加藤君のように「みんな自分より幸せそうだ」とはげしく苛立ったりしている。彼らにとって雑踏の中の他人なんかみんな同じであり、そのように見えることの優越感もあれば、恐怖や憎しみもある。
彼らに「他者とは何か?」という問いはない。わかっているつもりでいる。そうやって雑踏の中の群衆がみんな同じ顔に見えている。つまり、ひとりの「あなた」に気づいてゆく視線を持っていない。
「ひとり=一点」に焦点を結んでゆくとは、「問う」という心の動きのこと。
たとえば、「雑踏の中のどこかから自分の悪口を語り合っている声が聞こえてくる」という「幻聴」体験などは、まさに「何だろう?」と問う心の動きを失って「勝手に決めつけてしまう」はたらきが異常に昂進してしまっている状態だろう。
まあ、まわりに対して異常に警戒・緊張してしまっているから、そういう心の動きが起きる。まわりの他者のことがわかっているつもりだから、警戒し緊張する。
都市の雑踏は、知らない人ばかりだ。その人たちの心の動きも人生も人格もわかるはずがないのに、わかったつもりになってゆく。そうやって彼らは、優越感を抱いたり憎しみや怒りを募らせたりしている。


無防備にならなければ、都市の雑踏の中を歩くことはできない。まあ、誰もが無防備になっているのが都市の雑踏なのだ。人は人間性の自然としてそういう心の動きを持っているから都市の雑踏が成り立っているのであり、そういう心の動きとともに人類史において都市が生まれてきた。
原初の人類が二本の足で立ち上がったことは、他者に対して無防備になってゆく体験だった。それは、きわめて不安定で、しかも胸・腹・性器等の急所を外にさらして、攻撃されたらひとたまりもない姿勢だった。それでも彼らは立ち上がった。そのとき誰もが無防備になりながら立ち上がっていったわけで、原初のその体験それ自体がすでに「都市の雑踏の発生」だったともいえる。
人は、人間性の自然として、世界や他者に対する無防備な心を持っている。それがなければ、この無際限に膨らんだ都市という生活空間は成り立たない。
無防備な状態のとき、視覚=意識が一点に焦点を結んで、そのまわりはぼやけて見えている。ぼやけて見えているから無防備になれるのだ。
目の前の「あなた」という「一点」に焦点を結んで、まわりの世界はぼやけてしまっている。恋であれ友情であれ親子の情であれ、人と人の関係の基礎はそのようにして成り立っている。それが人の心の自然なのだ。だからブスとブオトコのあいだにこの世のもっとも美しい恋が成り立っていたりするし、生きられない弱いものである障害者をけんめいに介護していったりもする。
都市は、たくさんの人と知り合う場ではなく、たくさんの人がいるからこそ、まわりの世界がぼやけてひとりの「あなた」に気づいてゆく体験がもっともラディカルに起きる場なのだ。その体験なしに都市の暮らしは成り立たない。
秋葉原事件の加藤君は、東京に出てきてそういう体験ができなかった。もう、まわりの世界に警戒し緊張しまくって、ひとりの「あなた」が見えなくなってしまっていた。
まあ、人に好かれようとしたり人に対する優越感を持とうとしたりするのは、まわりの世界に対する警戒や緊張で生きているからで、そんな傾向の人間は今どきごまんといる。そうやって彼らは、「ひとりのあなた」に気づきときめいてゆく心模様をしだいに失いながら、認知症やインポテンツになったりしている。そんな傾向が強いからかえって人に嫌われたり、もともと人に好かれる体験が貧弱な生き方しかしてこなかったからそんな傾向が旺盛になっていったりする。
こういう事件が起きるたびに「親の愛情に飢えていた」などという分析がまことしやかに語られる。しかし人は、その人間性の自然において、愛情なんか欲しがっていない。愛情を欲しがるなんて、病気だ。そんなスケベ根性なんか持つなよ。人の心の自然は、もっと無防備に一方的にときめいてゆく。世の凡庸なインテリたちがそんな愚にもつかない分析をしたがるのは、愛情を欲しがるみずからの俗物根性を正当化したいからだ。そうやって自分を物差しにして語ろうとするなよ。
人間性の自然は、「自分」の外にある。自分が無防備に他愛なくときめいてゆくことができる「あなた」のもとにある。
加藤君は、人にときめいてゆくことができなくなっていたのであり、彼の親はたっぷり愛情を注いでいたけど、彼が無防備にたあいなくときめいてゆくことができる対象ではなかったところに問題があるのだろう。
人の心は、他者の愛情に気づくのではなく、他者の「セックスアピール=人間的な魅力」に気づきときめいてゆくだけだ。そしてその「セックスアピール=人間的な魅力」の根源=本質は、「生きられない弱いもの」として存在していることにある。生きる能力があろうとあるまいと、「生きられない弱いもの」として「何だろう?」と問うてゆくところに人間性の自然があるのであって、「生きる能力を持った神のような存在」として何もかも「わかっている」つもりになってゆくことにあるのではない。人は、「わかっている」つもりになって心を病むのであり、その知性や感性が停滞し衰弱してゆくのだ。加藤君は、その「わかっている」つもりになってしまう心の動きを親から引き継いでしまった。それはまあ現代社会の一般的な傾向であるのだが、加藤君の親においてはとびきり極端だった。
たとえ親子であろうと、他人が自分のことを好きになろうと嫌いになろうと、そんなことは他人の勝手であり、そんなことはわからないし、そんなことを当てにしているのでもない。親の愛情に飢えている赤ん坊などいない。愛情なんか知らない。彼らはみな、他愛なく一方的にときめいてゆく。子供が親にときめくことができるかどうかということは、愛情の問題ではなく、親に「セックスアピール=人間的な魅力」があるかどうかということであり、そういうところを子供から見られているのだ。ふつうの子供は、自分が親に愛されているかどうかということなど心配していない。
まあ、親の「セックスアピール=人間的な魅力」は「微笑み」にある。幼い加藤君が親に気に入られる存在になろうとしたのは、親の愛情が欲しかったというより親の「微笑み」が見たかったからであり、親のその過剰な愛情にはうんざりしていたのではないだろうか。
意識は一点に焦点を結んでまわりの世界はぼやけている。そうやって人の心は無防備になって「ひとりのあなた」にときめいてゆく。無防備にならなければ、都市の雑踏の中を歩くことはできない。
加藤君は、都市の雑踏の中を歩くことができなくなっていた。