無邪気な心・「漂泊論」81

     1・酔っぱらうということ
酒場談義などをはたで聞いていると、人間のことも世の中のこともすでにぜんぶわかっているようないい方をする大人がよくいる。
大人なんか、たいていがそういう人種だ。
ふだんは謙虚な人でも、酔っぱらってくると、とたんにわかったような口調になったりする。
酔っぱらうということは、頭がもうろうとして思考力が鈍ってくることだろう。
何もかもがどうでもよくなってくる。
なのにどうして、ふだんよりももっとわかっているつもりになってくるのだろうか。
「わかる」とは、思考停止することなのか。そうかもしれない。思考停止して、どんどんわかった気になってくる。彼らにとって酔っぱらうとは、そういうことらしい。
「わかる」という心の動きは、気をつけなければならない。
「わかる」ことは、思考停止することなのだ。
意識は、「わかった」と納得して考えるのをやめる。
「わからない」のなら、考えるのをやめることができない。
考え続けているかぎり、意識はけっして「わかる」という場所に立てない。
考えるとは、「わからない」という森の中に分け入ってさまようことである。
人間はたぶん、そのようにして生きている。
明日のことなどわからない。一瞬先のことだってわからない。
われわれの観念は、現代生活のスケジュールとともに生きながら、なんとなくそういうことがわかっているような気になっている。
だが、根源的な意識のはたらきにおいては、われわれは何もわかっていない。
わかっていないから、目の前の景色に反応して、美しいとときめいたり醜いと幻滅したりする。
「わからない」という意識のはたらきがなければ、われわれの目の前の景色はもっとぼんやりしたものになっているのかもしれない。
「わからない」という意識のはたらきがあるから、世界は鮮やかに立ちあらわれてくる。
猿と人間の違いは、この「わからない」ということを「自覚」するか否かにある。人間はそれを自覚して途方に暮れているから、世界がより鮮やかに立ちあらわれ、はちきれそうな思いが胸にあふれてくる。
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     2・「わかる」という制度性
人間は、何かを知りたいという先験的な欲望を持っているのではない。
知りたいということは、答えがあることを知っているからであり、答えがあることを前提にしているからだ。
それはもう、予定調和のスケジュールを消化しているだけで、ときめきとか感動というような心の動きは生まれようがない。
答えがあるとわかっているのなら、「なんだろう?」と考える必要はない。人に聞いたり本読んだりして答えを探し出せばいいだけだ。現代人は、そんなことばかりしている。
しかしそれでも人間は、根源的には「なんだろう?」と考えながら生きている。
だから、ときめいたり感動したりする。
答えは、人間が探し出すのではなく、答えの方からあらわれてくるのだ。そのときにはじめて、ときめいたり感動したりする。
りんごが落ちるのを見たときのニュートンは、万有引力の法則があることを知っていてそれを探していたのではない。万有引力の法則の方が、突然ニュートンの前にあらわれたのだろう。
生き物の意識のはたらきの根源においては、答えを求めていない。「わからない」と途方に暮れているのだ。人間は、そういうことを自覚し嘆いている。
答えがあるとは思っていないのに、それでも答えのようなものがあらわれてくるからときめくのだ。
答えとは、予期せぬ出来事である。
それに対して社会の制度性は、この途方に暮れる体験を無化して、すべてのことに答えを用意しようとする。
人を殺していいかどうかはわからない。しかし社会は、「いけない」という答えを用意する。
社会が用意しなければ、そんなことに答えなどないのだ。
社会の制度とは、答えを用意するシステムである。そうやってわれわれは、社会の制度に飼い馴らされながら、すべてのことに答えがあると思うようなってゆく。
答えがあることを知っているから、「知りたい」という欲望を持つ。
そうして「わかる」という満足を得て思考停止する。
「知りたい」という好奇心や欲望など、社会の制度に飼い馴らされた観念のはたらきであって、人間の自然でもなんでもない。
人間の自然は、「知りたい」とは思わない。
人間の自然は、「わからない」と身もだえし、途方に暮れている。
次の瞬間に何が起こるかなんてわからないじゃないか。
人間は、そういう「わからない」ということを自覚し嘆いている存在である。
だからこそ、次の瞬間と出会ってときめく。つまり、世界がより鮮やかに立ちあらわれる。
猿と人間の視覚はどのように違うかということはよくわからない。しかし、それによって人間の方が大きく心が動いているはずである。その心の動きのダイナミズムが、人間を人間たらしめている。
それは「わからない」ということを自覚し嘆いている存在だからだ。われわれは、素面のときはそういう状態で生きている。そうして酔っぱらいながら、その意識を失ってゆく。
酒に強ければ、必ず酒飲みになるとはかぎらない。
酒を飲んで酔っぱらいたいのは、この「わからない」という状態から逃れて、「わかっている」という状態に身を浸していたいからだという場合が多い。
まあ酔っぱらい方も人によっていろいろだが、たとえば「からみ酒」のように、どんどんわかっているつもりになってゆく酔っぱらいがいる。
それはきっと、社会の制度に飼い馴らされて、わかっている人間でないと人間である資格がないかのような強迫観念があるのだろう。そうやって「わからない」という人間の自然状態に耐えられなくなってしまっている。
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     3・彼らは、答えのない問題を考えたことがない
わかったつもりになってしまえば、考えなくてもすむ。この社会の制度性は、人の心をそういうところに誘導してしまう。
酔っぱらわなくても、ふだんからそのつもりで生きている人がいる。何もかもわかっているつもりで、自分の中のその答えに照らし合わせて世界を解釈したり人を裁いたりして生きている人がいる。
聞く耳持たずの流儀で、自分の勝手な結論を吐き散らしてくるだけ。権力を手にした人はそういう態度になりやすいし、ふだんそれがかなわなければ、酔っぱらった勢いでそういう人間になってゆく。
ともあれ、酔うと「わからなくなる」のではない。思考力が衰えて、何もかもわかっているような気になるのだ。
心に「わからない」という嘆きを持っている人となら対話ができる。
何もかもわかっているつもりの人に「それは違う」といっても、通じるはずがない。相手は聞く耳なんか持っていない。
それに彼らは、社会制度や社会通念や社会的権威に保障されていない真実を認めるつもりなど最初からない。
彼らは、答えのない問題を考えたことがない。
しかしじつは、人はみな、人間としての自然において、答えのない問題と向き合いながら生きているのだ。
だからセックスや遊びに夢中になるのであり、そういうところから学問や芸術が生まれてくるのだ。
セックスや遊びの才能も、学問や芸術の才能も、その「嘆き」とともにあるのだ。
才能というか、「人間の自然」と言い換えてもいい。
この社会の制度性は、答えがあることを前提にしながら答えをめざす人間を育ててゆく。
しかしそうやってわかった気になっている自分をまさぐることばかりしていると、ひとまず世渡りの技術は身につくが、ものを考えたり感じたりする才能からも人間の自然としての快楽からも無縁になってしまう。
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     4・「わからない」という自然
人間は、先験的に集団の中に置かれて存在している。
誰もが、「人と一緒に生きている」ということと和解できるかという問題を抱えて生きている。
和解できなければ、生きられない。
和解するためには、おたがいがわかり合うことだ、と現代社会では合意している。
「わかり合う」という制度性。
現代社会の制度性は、人の心を、何もかもわかった気にさせてしまう。
現代人は、ひとまずわかったつもりになって思考停止してしまう習性が身にしみついている。そういう習性を持っていないとこの社会ではうまくやってゆけない。
この社会で上手に生きている人間は、そういう習性を持っている。しかしそれは「人間の自然」に矛盾しているから、知らず知らずストレスがたまってくる。
で、成功した大会社の社長や政治家が、SMクラブの女王様に鞭で叩かれてよろこんでいる。それは、「わからない」という海に投げ入れられる恍惚である。彼らは、そうやって勃起している。
まあわれわれ庶民は「わからない」という人間の自然を残していてそれに邪魔され社会的成功もおぼつかなくなっているが、その代わりそういう趣味に走る必要もない。
そしてこれは、そのまま大人と若者という世代間の比較に置き替えることもできる。
大人とは、何もかもわかったつもりになってしまっている人種であり、わかっているつもりのぶんだけ思考力が衰退している。
人は、思考力を失って、世界のことがわかったつもりになる。わかったつもりになって、思考力を失う。大人になるとは、そういうことだ。
社会の制度性は、人間をして、世界のことがわかっているつもりにさせてしまう。
そうしてわれわれが遊びや恋や友情やセックスや学問や芸術に熱中するのは、そこから「わからない」という自然に遡行する行為なのだ。
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     5・人間集団は「わからない」という「嘆き」を共有している
西洋では、「人は生まれた瞬間に制度性の網をかぶせられる」という認識があるそうだが、それはただ、大人たちがそうやって自分を正当化して居直っているだけだ。
人間は、そんな意識で生きはじめるのではない。
生まれたばかりの赤ん坊に、制度性を察知し制度性になじんでゆく能力なんかあるはずがないじゃないか。
そういうことは、もの心がついてからだんだん覚えてゆくことだ。
つまり、この世界のことがわかったつもりで生きるようになってくる。
西洋人はたぶん、人間は何もかもわかっている神の似姿として生きはじめる、と無意識のうちに発想しているのだろう。
しかしそれは、真実ではない。そこが西洋人の思考の限界であり、ニュートラルでないところだ。
人がこの世に生まれてくることは、「わからない」という海に投げ入れられる体験である。
赤ん坊は、そうやって「おぎゃあ」と泣いている。
赤ん坊は、「わからない」という海を漂いながら生きはじめる。そしてその体験が終生付きまとって、遊びや恋や友情やセックスや学問や芸術に目覚めてゆく。それらは、「わからない」という海に投げ入れられて驚きときめいてゆく体験である。
酒を飲めば、ふだんのストレスが和らぐ。つまり、すべてに答えが用意されている社会生活のストレスから解放される。そうして「わからない」という海に心地よく漂ってゆく。
そうやってスケベになったりもするのだが、中には、その喫水線を超えて何もかもわかっているという境地にたどり着かずにいられない人がいる。わかっている人間になって他者に対するコンプレックスを解消しようとしているのだろうか。徹底的に酔っぱらうと、思考停止して、世界の謎が解けたような開放感がある。その心地をめざしてアルコール依存症になってゆくのだろうか。
酒は、人を生まれたばかりの赤ん坊のように無邪気にするし、すれっからしの大人にもしてしまう。
無邪気とは、「わからない」という心のことだろう。子供の表情の愛らしさは、そういう心の動きからきている。
大人だって、そういう心の動きを持っていないと、顔つきがすさんでくる。
酒は、「わからない」という「嘆き」をカタルシスに変えてくれる。遊びも恋も友情もセックスも学問も芸術も、つまるところそういうカタルシスを汲みあげる行為なのだ。
きっと、無邪気になれる飲み方と、すさんでゆく飲み方があるのだろう。
人間が生きるとは「わからない」という「嘆き」を生きることであり、人間の集団はそういう「嘆き」を共有しながら際限もなく大きくなってゆく。
わかっているものどうしの集団なら限度があるし、わからないものは排除してゆくしかない。
しかし人間の集団は「わからない」という「嘆き」の上に成り立っているから、排除する理由がなく、際限もなくふくらんでゆく。
「わからない」という「嘆き」を持っている人こそ、人間の集団に大切な存在なのだ。
そうやってわれわれは無邪気な赤ん坊の笑顔にときめいているのだし、生まれたばかりの赤ん坊のような「わからない」という「嘆き」は誰の心にも潜んでいる。
まあ、中途半端なプチインテリや人生に疲れた大人にかぎってというか、社会の制度性に踊らされて生きている人間ほど知ったかぶりをする。
現代社会は、知ったかぶりし合ってよろこんでいるという傾向がないわけでもないし、そういうことに対する幻滅や反省もある。
なぜなら、人間の知性や感性も、人間的な魅力も、じつは「人間の自然」から生まれてくるからだ。
誰だってじつは、「わからない」という「嘆き」の海を漂って生きている。そういう「人間の自然」をどこかしらに抱えて生きている。

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<おわりに>
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なんとしても人におもしろく読んでもらえるページにしたい、そのためには、ある程度競争の場に自分をさらしていないとひとりよがりになってしまう、と思いました。
もちろん、大多数の人に賛同してもらえるようなことは書いていません。
ひとにぎりの「あなた」に支持してもらえたら、それで本望です。
ここで紡いだ言葉を「あなた」に届けたい。べつに世のため人のためというつもりはさらさらないし、自分でもどうしてこんなことに熱中するのかよくわからないのだけれど、どうしても「あなた」に届けたい。
「嘆き」とともに生きてある「あなた」に届けたい。
うまく生きてゆく方法なんか僕は知らない。ただ「人間とは何か」ということについては、それなりに骨身を削って考えています。
そうして、世界中を敵に回しても「それは違う」といいたいことがある。
俺が負けたら人間の真実が滅びる、という思いがないわけではない。
そのような、社会から忘れられている秘かな真実を共有できる「あなた」がこの世のどこかにいると信じています。
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