衣食住の問題じゃない・漂泊論82

     1・原始時代の旅人
旅に出ることは、衣食住がままならなくなることだ。
古代や原始時代の旅は、確実にそういうことだった。彼らにとって旅とは、衣食住を失う(あるいは捨てる)ことだった。
いまどきの人類学の研究者たちは、原始時代のアフリカのホモ・サピエンスが悠々と世界中を旅してまわっていたような空々しい物語を平気な顔をして吹聴しまくっている。そしてその言動に踊らされている一般の人類学フリークもたくさんいる。
ほんとに、おまえらアホか、と言いたくなってしまう。
原始時代にもし野垂れ死にすることなく旅をすることができたとすれば、旅の先々の集落の人々が受け入れ助けてくれたからだ。
だから、この国の古代の旅人は、誰もが僧侶か旅芸人か乞食になるか、もしくは「貴種」を名乗るかしていた。
「集団的置換説」の研究者によれば、4〜3万年前のアフリカのホモ・サピエンスが大挙してヨーロッパに移住してゆき、少数の先住民であるネアンデルタールを吸収あるいは滅ぼしてしまったのだとか。
現在のこの国では、こんな幼稚な空想が定説のようにいわれている。ほんとにくだらない。どうかしている。
新しい土地にたどり着いた旅人は、そこで暮らすすべを持っていないのである。
その地で暮らすすべは、その地で暮らしてきたものたちの歴史がもたらす文化の上にしか成り立たない。
原始時代においては、ごく少数の旅人が集落に紛れ込んでゆくことはあっても、集落よりも多い数の旅人がやってきて集落の人々を追い払うということなどあり得ないのだ。
原始時代の旅人はみな、旅に疲れていたのであり、新しい地で暮らしてゆくすべを持っていなかったのだ。
彼らがそんなにも「アフリカのホモ・サピエンスが世界中に旅していった」といいたいのなら、旅とは何かということを、もう一度本気で問い直した方がよい。
たぶん、そこのところを本気で問うている「集団的置換説」の研究者なんか、世界中にひとりもいない。
そしてたぶん、4〜3万年前にアフリカを出ていったホモ・サピエンスなどひとりもいないのだ(このことについては、できれば拙稿「ネアンデルタール人」のシリーズを参照していただきたい)。
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     2・それは、二本の足で立ち上がったときからはじまっていた
原始人は、衣食住を捨てて旅に出た。それでも、旅に出た。このことは、何を意味するのか。
人間は根源において衣食住のために生きている存在ではない、ということだ。。
しかし一般的には、原始人は衣食住に対する関心だけで生きていた、と考えられているらしい。
それは違う。
人間は、二本の足で立ち上がった瞬間から、衣食住だけではすまない生き物になった。
その姿勢は、とても不安定で俊敏に動くことはままならず、しかも胸・腹・性器等の急所を外にさらし、生き物として「生き延びる」という目的を忘れることの上に成り立っている姿勢だった。
つまり彼らは、いったん猿よりももっと弱い猿になった。
それでも彼らは、それがよかったし、そうするほかないわけがあった。
そのとき群れが密集し過ぎていたにもかかわらず他の個体を追い払うことも逃げ出すこともできない状況に置かれていた彼らはもう、二本の足で立ち上がることによってしか他の個体と体をぶつけ合わずに行動できるすべがなかった。
そうやって他の個体との折り合いがつかないことには生きられなかったし、それが生きることの醍醐味になった。
と同時に、他の個体と折り合いがつかないと生きられなくなってしまう生き物になった。現代人だって、「死にたい」と思うときのいちばん大きな契機はそのことにちがいない。
他者の身体とぶつかり合っていたら、身体のことばかり気になってしまう。
二本の足で立ち上がることは、身体のことを忘れてしまう姿勢である。身体のことを忘れて世界や他者に意識を向けてゆくことが、人間にとっての生きてあることの醍醐味なのだ。
世界や他者に意識を向けて身体のことを忘れてしまう、というか。
直立二足歩行の開始以来の人類の最大の関心は他者との折り合いをつけて群れを形成してゆくことにあったのであって、衣食住は二次的な問題だった。
衣食住に対する関心とはつまり、身体に対する関心である。しかし人間にとって生きることは身体のことを忘れることである。人間が二本の足で立っている姿勢は、身体のことを忘れている姿勢である。
原初の人類は、二本の足で立ち上がることにって、身体のことを忘れてゆく「快楽」を発見した。そこから人間の歴史がはじまった。
人類にとって衣食住が大きな関心になり醍醐味になってきたのは、つい最近のことである。
江戸時代の農民なんか、衣食住はありさえすればそれでよかった。彼らの関心は、それよりも村のみんなとうまく折り合いつけてゆくことにあった。村のみんなと折り合いをつけてゆくことにこそ生きることの醍醐味があった。そうやって、身体=衣食住のことを忘れて生きようとしていた。
原始人だろうと現代人だろうと、人間は、身体を充足させること(=衣食住)だけではすまない生き物なのだ。
人間は直立二足歩行以来、身体を忘れようとするかたちで生きてきたのであって、衣食住によって身体を充足させることに生きてあることの醍醐味を見いだしてきたのではない。
原始人が衣食住の問題だけで生きていたなんて、大嘘なのだ。原始人の方がわれわれよりもずっと衣食住だけではすまない存在だった。
衣食住=身体を忘れることこそ、彼らの生きる流儀だった。
現代人こそ、人類史はじまって以来、もっとも衣食住に執着している人間たちにほかならない。
人間にとって、衣食住に執着することは、非人間的で不自然な生き方なのだ。
原始人にとってそんなことは、つねに二次的な問題だった。
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     3・生き延びるという目的としての衣食住
現代社会は、衣食住の問題を第一義として動いている。だからそれが人類普遍の生態であるかのように考えられてしまうのだが、こんなことは、人類史においてはじめて体験する事態なのである。
世の歴史家たちの多くが、人類は衣食住の問題で生きてきた、と考えたがるのは、彼らが現代社会の繁栄に踊らされている俗物だからだ。
現代において衣食住の問題は、それを得ることができるか否かという問題はすでに解決され、それが快適か否かという問題になっている。
そうやってわれわれは、うまいものを食いたがり、おしゃれをしたがり、住み心地のいい家に住みたがっている。
しかしそれは、衣食住を満たすという問題を解決しているからではなく、もともと衣食住を満たすということが二次的な問題だからだ。
人間にとっては、「生きる」ということよりも「気持ちいい」ということの方が大切なのであり、われわれはそれがないと生きられない生き物なのだ。
だからネアンデルタールは、衣食住の満足よりも「みんなで一緒にいる」ことのよろこびをよりどころにして氷河期の極北の地に住み着いていた。そうやって人類は、地球の隅々まで拡散していった。
衣食住の問題が最優先されるのなら、誰が好きこのんで氷河期の極北の地に住み着いたりするものか。
衣食住の問題すなわち「生きる」ということが目的なら、今ごろ人類は、その問題がもっとも確実に解決される温暖な地にひしめき合って生息していることだろう。
人間は、いざとなると「目的」を忘れて「せずにいられないこと」をしてしまう生き物である。
たとえば、明日からの生活に困ることがわかっていてもそれを忘れて高価なものを衝動買いしてしまう。
自分のことを好きなってくれるかどうかわからない相手なのに、好きになってしまう。
自分が嫌われていることがわかっていても好きにならずにいられないこともある。
気がついたら好きになってしまっている。
衣食住だけではない、根源的に「目的」そのものを持っていないのだ。
人間とは、そういう生き物ではないのか。
「生き延びる」という目的とともに衣食住を第一義として生きている存在であるのなら、そんなことは絶対しない。
原始人だって、衣食住だけではすまない存在だったから地球の隅々まで拡散していったのであり、それは「生き延びる」という目的を持っていなかったということだ。
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     4・仕事より遊びが大事
べつに衣食住の問題で言葉を生みだしたのではない。
衣食住の問題が第一義の生き物なら、言葉など生まれてこないし、彼らはその言葉で衣食住の問題ばかりを語り合っていたのでもない。
衣食住の問題を追求して言葉が生まれてくることなどあり得ない。衣食住の追求は、衣食住以上のものや衣食住以外のものは生み出しはしない。
原始人の文化は、衣食住の追求から生まれてきたのではない。
言葉は、他者と音声を発し合うよろこびから生まれてきた。そしてそれが「言葉」というレベルまで成熟していったのは、そういうよろこびを第一義として生きている存在だったからだ。
衣食住が第一義の生き物ではなかったから、言葉が生まれ育ってきたのだ。
人と人の関係や世界との関係において胸がはちきれそうな思いを持ってしまう生き物だから、言葉が生まれ育ってくるのだ。
人間は、衣食住よりもそういう「思い」を優先して生きてしまう存在なのだ。
人間にとって、自分や自分の身体が満たされる衣食住の問題よりも、他者との関係をやりくりしてゆく方がずっと切実な問題なのだ。人間は、そのことに失敗して「死にたい」と思ってしまう。
原初の人類は、衣食住(=生き延びるということ)の問題を振り切り、他者との関係をやりくりする姿勢として二本の足で立ち上がった。そしてこのコンセプトとともに現在までの歴史を歩んできたのだ。
他者との関係をやりしてゆくことが人間にとってどれほど切実で深いよろこびをもたらすかということ。
つまり、衣食住を求める「仕事」よりも、生きてあることの鬱陶しさやいたたまれなさをなだめてくれる「遊び」の方が大事だということ。
衣食住の問題で原始人の生態や人間の普遍性を語ろうだなんて、おまえらほんとにアホだなあ、と思う。

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