衣食住より大切なもの・「漂泊論」83

     1・ネアンデルタール人のチームプレー
人間の生態を衣食住の問題で考えると誤る。
人間にとって第一義的な問題は、衣食住を満たすことにあるのではない。
「あなたと一緒にこの世界に生きてある」というそのことにカタルシスがあるかどうかということこそ、もっとも切実な問題なのだ。
ネアンデルタール人がチームプレーで大型草食獣の狩をすることを覚えていったのは、第一義的には、食料を確保するためではなかった。
もちろん極寒の北ヨーロッパで生きてゆくためには、脂肪分の多い大型草食獣の肉が必要だった。しかしそれは、体が求めているものであって、心が求めているものではなかった。
体のことを忘れるためには、大型草食獣の肉を食べて体をなだめる必要があった。そういう必要があったにせよ、彼らの心はあくまで体のことを忘れたかったのであり、第一義的には「体=自分」を忘れて他者にときめいてゆくこと、すなわち他者との関係をやりくりしてみんなで生きてゆくことにあった。
人間にとってみんなで生きてゆくために必要なのは、第一義的には衣食住ではなく、他者との関係にときめきがあるかどうかということなのだ。
「体=自分」を忘れて他者にときめいてゆくカタルシス、あるいは他者にときめいて「体=自分」を忘れてゆくカタルシスが、彼らを生かしていた。そういうカタルシスとともに彼らはみんなで生きていようとした。みんなで生きていることは、そういうカタルシスをもたらした。
であれば、彼らが大型草食獣の狩を覚えていったのは、チームプレーの醍醐味として覚えていったのであって、第一義的には食糧を確保するためではなかった。
「食糧を確保するため」という目的だけでは、どんなにがんばっても大型草食獣の狩は覚えられない。チームプレーに対する意識が盛り上がることによって、はじめて覚えられる。
ネアンデルタール人は、小型のオットセイとか川を遡上する鮭の群れとかの捕獲にはあまり興味がなかった。それは、子供の遊びだった。あるいは、男たちが遠征しているときの、女子供だけの狩だった。
大人の男たちは、あくまでもマンモスやシカやウシなどのなどの大型草食獣の狩に挑んでいった。それは、第一義的には、食料を確保するための行為ではなく、チームプレーの充実からカタルシスを汲みあげてゆく行為だった。
みんなで生きている、と実感することのカタルシス。他者との関係に折り合いがついている、ということのカタルシス。そしてそれは身体を忘れてゆくカタルシスであり、だから彼らは、その狩りによって骨折などの大けがをしたり命を落としたりすることをいとわなかった。
それは、第一義的には、食料を確保するための行為ではなかった。食料を確保するためなら、オットセイをまとめて捕獲することの方が、ずっと効率がよく安全だったにちがいない。
「食糧を確保するため」という動機・目的でチームプレーを獲得することは原理的にあり得ない。
チームプレーは、チームプレーができるような素養を持った集団によって獲得されるのであって、「目的」を持てば実現するとか、そんなものではない。
チームプレーを知らない集団がチームプレーを発想できるはずがない。
ネアンデルタールは、チームプレーができる集団だったから、チームプレーで狩りをするようになっていったのだ。
そして、人間がチームプレーができるようになったのは、衣食住の問題によってではなく、チームプレーができるような人と人の関係を持っていたからだ。
チームプレーをつくろうとしたのではない。気がついたら、チームプレーが生まれていた。なぜならチームプレーが生まれてくるような人と人の関係を持っていたからだ。
衣食住に対する関心は、すなわち自分の身体の対する関心である。しかしチームプレーは、自分の身体を忘れて他者の身体に意識を向けてゆくことの上に成り立っている。
ゆえに、衣食住に対する関心からチームプレーが生まれてくることは原理的にあり得ない。
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     2・おしくらまんじゅう
人間がなぜチームプレーをする生き物になったかといえば、衣食住を第一義とする存在ではなかったからであって、衣食住のためにチームプレーを生みだしたのではない。
チームプレーができる能力を持ったものたちが、チームプレーで食糧を確保しようとしていっただけのこと。
アフリカとかインドとかバングラディッシュとか、現在の世界の集団的な飢餓は、かなしいことにチームプレーが苦手な民族のところで起きている。彼らほど食糧確保の問題が切実な人々もいないというのに、彼らはそこからチームプレーを覚えてゆくということがうまくできない。
チームプレーが苦手だから、政治も農業も発達しなかった。
ただたんに土地がやせていたとか、そういう問題ではあるまい。チームプレーを持っていれば、やせていてもそれなりにチームプレーで克服してゆくこともできる。
この国の「棚田」の風景などは、この国らしいチームプレーの成果だろう。
いろんな意味でネアンデルタールの末裔である欧米人は、チームプレーが発達している。チームプレーで食糧を確保し、飽食の文化に走っている。たくさん食べないと生きていられない寒い土地で歴史を歩んできた、ということもあるのだろうか。
アフリカの赤道直下の地域では、チームプレーが発達しなかった。それは、大きな集団で暮らすという歴史を歩んでこなかったからだろう。
気温が高い地域では、人が一か所に集まってくるということがない。そんなことをしたら、よけいに暑くなるばかりだし、暑ければじっとしていたい。
だから、集団のダイナミズムが生まれてこない。
それに対して寒いところでは、「おしくらまんじゅう」をするように集団の動きが活発になる。
だから西洋人は挨拶するにも体をくっつけ合おうとするし、同時にその馴れ馴れしさを冷やすための「孤独」というものを大事にする人たちでもある。
たとえば、西洋の母親は、この国の母親よりもずっと子供をほったらかしにして育てる。それは、彼らが「おしくらまんじゅう」をしたがる人種だからだ。
おしくらまんじゅうは寒い北の地でしか起きてこない。
そして人間の歴史は、そのおしくらまんじゅうがアフリカの赤道直下で起きたところからはじまった。
直立二足歩行は、おしくらまんじゅうの鬱陶しさを冷やす姿勢である。
おしくらまんじゅうになりそうな状況がなければ、直立二足歩行は成り立たない。
人間は、「おしくらまんじゅう=群れの過密状態」を肯定する生き物である。その状態の中にあろうとする。その状態の中にあることによって、二本の足で立つ姿勢が安定する。
人間は、おしくらまんじゅうの中に入ってゆこうとする。おしくらまんじゅうが楽しいからではない。その中に入ってこそ、二本の足で立ってみずからの孤立性を確保してゆくことができる。そうやってカタルシスを汲み上げてゆく生き物なのだ。
人類の群れは、北に行くほど密集状態になっていった。そうしてその密集状態に引き寄せられるようにして、北へ北へと拡散していった。
密集状態が好きだからではない、密集状態の中でこそ孤立性を確保できるからだ。
二本の足で立ち上がることは密集状態の中から孤立性を確保してゆく姿勢であり、そうやって孤立性を確保し合ってゆくことが人間のチームワークなのだ。
だから人間のチームワークは、みんなで同じことをするのではなく、たとえば土を掘る人とその土を運ぶ人とに自然に分かれてゆく。そうやって、たがいの孤立性が確認されている。
人間にとって同じことをするのは、関係性の喪失なのだ。
人間は、それぞれの衣食住が満たされることより、そういう「関係性」を第一義に行動する生態で歴史を歩んできた。
たがいに反応し合って別々のことをしながら連携してゆく……それが人間の関係性であり、それをチームプレーという。
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     3・衣食住を第一義の問題とする不自然
われわれは、「関係性」をやりくりできなければ人間であることができないのであり、第一義的にはそのことによって生きてあるのだ。
人間が生き延びることや衣食住に邁進することができる生き物なら、この地球に飢餓地帯など生まれてこない。それはそれで、衣食住の問題を二次的なものとして歴史を歩んできたことのつけとして起きているのだろう。
彼らは、人間の自然として、「生き延びる」という目的意識が希薄な歴史を歩んできた。
人間とは、もともとそういう生き物なのだ。
また、北の地域がさんざん飽食に走っているのも、食うことを命をつなぐための仕事としてではなく、ただの遊びにしてしまっているからだろう。
しかし皮肉なことに、現在の世界では、衣食住を遊びにしているものほど衣食住に対する執着が強く、生き延びることに対する執着も強い。そうやって大いに死を怖がりながら、心を病んでしまっている。
人類の死の恐怖は、衣食住=身体に対する執着とともに肥大化してきた。
人間とはもともと身体を忘れてゆくことにカタルシスを覚えながら生きている存在なのに、現代人は身体に執着するという不自然を生きてしまっている。
現在においてもっとも「生き延びる」ことに執着しているのはさんざん飽食に走っている北の地域の文明国の住民であり、その執着とともにある死の恐怖をいっぱいに抱え込んだ心で南の飢餓を眺めれば、そりゃあ大いに傷ましく悲惨に映ることだろう。自分たちがその状態になれば発狂してしまう、と思う。
しかし当の南の住民は、あんなにやせ細っても、最後の最後まで発狂しない。人間というのは、すごいなあと思う。
北の地域では、がんを宣告されたりすると、多くの人間が半狂乱になる。
それだけではない、それ以前のただ「老いる」ということだけで追いつめられて認知症になってしまうものも少なくない。
まあそうやって衣食住に執着している人間は、自分や自分の身体に対する関心ばかり強くて、他者との関係性に対する意識が鈍感になってしまっている。
言い換えれば、他者との関係性をつくろうとする欲望は旺盛だが、他者との関係性に反応する感受性はあきれるくらい鈍感である。それが、現在の文明人の姿だ。その、自分や自分の身体に対する執着によって、がんを宣告されると半狂乱になり、老いるということだけで認知症になってゆく。
それが、人間の自然だろうか。
人間の自然は、衣食住やみずからの身体に執着してゆくことにあるのだろうか。
人間の自然は、他者との関係に反応するのではなく、他者との関係をつくってゆくことにあるのだろうか。
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     4・人と人の関係という問題
飢餓の住民だけじゃない。僕がみすぼらしい人生を歩まねばならなかったのも、衣食住を第一義の問題として生きてこなかったことの自業自得だ。けっきょく、人と人の関係に流されてここまできてしまった。
まあ、程度の差こそあれ、われわれは人と人の関係に流されて生きている。
人と人の関係に反応して生きている。
人と人の関係をつくっているのではない。原初の人類は、人と人の関係に反応して二本の足で立ち上がった。反応するのが、人類の普遍的な生態なのだ。
たがいに反応し合って、関係が生まれてくる。
人間が関係をつくろうとする生き物なら、限度を超えて密集した集団になどならなくて、つねに適正な集団のレベルを保っていることができるにちがいない。
人間にとって集団=関係は、つねに先験的に存在する。そこから生きはじめる。
現代社会の世渡りの技術は、人をたらしこんで関係をつくってゆくことにある。それはまあそうなのだが、誰もがその能力を持てるとはかぎらない。人間の自然はその能力をうまく持てないような仕組みになっているし、その能力をうまく持つことによって学問や芸術や人との関係に反応するする知性や感受性が欠落して、あげくに精神を病むということも起きてくる。
人間は、根源において他者との関係をつくらない、他者との関係は、すでに存在する。人をたらしこんだり説得したりする「関係をつくる能力」に人間の自然があるのでははない。
自分が他者に対して「影響力」を持っているということは、用心した方がいい。そこに人間性の豊かさがあるのではない、
人間性の豊かさというか人間の自然としての能力は、他者にときめいたり他者からなだめられたりすることにある。そういう反応の豊かさこそ、人間の人間たるゆえんなのだ。
たとえば、スタジアムに集まってくる群衆は、他者に対して影響力を行使するためにやってくるのではない。彼らはそこで、他者にときめき、他者からなだめられる体験をしている。その醍醐味が、スタジアムの群衆をつくっている。
人間は、ふだんの衣食住(=日常)のことを忘れてどこからともなく人が集まってくるという生態を持っている。そうやって人類は旅の歴史を歩んできたのであり、そうやって地球の隅々まで拡散していった。
人間にとって衣食住が第一義のことなら、旅なんかしない。

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