アフリカの未開人はサバンナで自然そのものの暮らしをしている、と考えるのは正確ではない。彼らは、自然と調和などしていない。
サバンナの暮らしほど不自然な暮らしもないのである。だから現在でも、アフリカ系の人たちは、音楽では不自然で複雑なリズムや不協和音を好む傾向があり、また、いかにも不自然で目障りな装飾品を身につけたがるし、原色を好む衣装のセンスだってまったく自然から逸脱している。鳥などの派手な色彩だって、自然から逸脱して目立つためのものだろう。彼らの衣装がそれを模倣したとしたら、その「自然からの逸脱」を模倣しているのだ。
反自然こそ、アフリカのセンスなのだ。
大きく密集した集団をつくって定住してゆくのがひとまず人間の自然だが、彼らは、200万年前からずっと、猿の群れよりも小規模の家族的小集団で移動生活をしてきた。
だから、現在のアフリカの国家建設が遅々として進まない。彼らの個人主義やスタンドプレーは、200万年の伝統なのだ。
彼らは、自然と調和して生きることなんかできなかった。自然から隠れて生きてきたのだ。
まず、肉食獣から身を守るために、小さな森に逃げ込み身を隠した。サバンナの暮らしといっても、サバンナと調和してそこを主な生息域にしていたわけではない。あくまで小さな森こそ生息域であり、小さな森から森へと移動して暮らしてきたのだ。
そしてそういう移動生活をするためには、大きな集団では不可能だし、大きな集団がひとかたまりで暮らせるような大きな森はサバンナにはなかった。いや、そんな大きな森で暮らせたら移動生活なんかする必要がないのだが、もともと直立二足歩行をすることは猿よりも弱い猿になることだった。ゴリラやチンパンジーなどに追われて大きな森には住むところがなくなったからサバンナに出てきたのだ。
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家族的小集団でサバンナを移動しながら暮らすことは、とても不自然なことだった。
恋が生まれてくるはずもない。
隠れて暮らしているから、目立たないと相手に見つけてもらえないという意識にもなってくる。彼らの暮らしには、「見られている」という状態も「見ている」という状態もない。そういう意識が育ってこないと、恋の文化は生まれてこない。そういう意識が希薄だから、目立とうとする。
彼らは、小集団どうしのネットワークを持っていた。そのネットワークは、「目立つ」ことの上に成り立っていた。まず、移動生活の途中で他の小集団と出会うためには、目立たないと見つけてもらえない。そうしてふだん一緒に暮らしていないから、おたがいをあまりよく知らない。そのうえで自分を知ってもらったり、女や物を交換したりするためには、できるだけ目立つしかない。目立つためには、保護色のようにまわりの自然に溶け込んでしまってはならない。彼らは、自然に対する「異和」であろうとした。隠れることも目立つことも、「反自然」の存在になることだった。
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彼らのネットワークの関係は、とうぜん定住することの「嘆き」を共有していなかった。
定住するとは、好むと好まざるとにかかわらず、自然の一部になることだ。そして、避けがたく自然の物性の鬱陶しさを感じることだ。ネアンデルタールは、その鬱陶しさ=嘆きを共有しながら、埋葬することを覚え、恋心の文化を生み育てていった。彼らは、その嘆きから押し出されるように、他者の存在に深く気づき合っていった。
現在のネットワークでも同じだが、基本的に「嘆き」を共有していないネットワークは、わりあい希薄な関係になりやすい。つまり、恋心の文化が生まれてこない。こちらから勝手に感じてしまう、というときめきが薄い。その希薄な関係を補うために、目立とうとする。
目立ちあうこと、すなわちたがいに表現し伝えあうことによって恋心が生まれてくるのではない。
恋心は、たがいが勝手に感じてしまうところで起きている。
ネットワークは、たがいに出会おうとすることの上に成り立っている。その出会いは、すでに予測されている。いわば、予定調和の出会いである。
しかし恋心は、予定されていてはならない。あくまで不意のときめきである。相手が何も表現しようとはせず伝えてはこないのに、こちらが勝手に気づいてしまう、そのようにして「ときめき」が起こる。
予定調和であってはならない。「未来を予測(計画)する」ところからは、恋心の文化は生まれてこない。
現代の知識人の多くが、「新しい人と人の関係はネットワークから生まれてくる」と語っており、ネットワークという言葉は現在のちょっとした流行語のようになっているが、僕はそうかんたんにはいかないだろうと思う。
そこには、不意の出会いがないし、こちらから勝手に気づいてゆくという「ときめき」が生まれにくい。
出会おうとしたら、もう「出会いのときめき」はない。
たとえば、いつもそばにいる人が、ある日突然不治の病に冒されていると宣告されたら、その瞬間からその人が別人であるかのように愛しくてたまらなくなったりすることがあるだろう。出会いのときめきは、そのようにして不意にやってくる。
それは、たがいに受動的に気づき合うことであって、能動的に表現し伝えあうことではない。人と人の関係の基礎は、気づき合うことの上に成り立っている。そこから考えはじめないといけない。
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ネットワークはすばらしい、と言った瞬間から、ネットワークはつまらないものになってしまう。
アフリカのネットワーク社会がなぜ200万年も続いたかと言えば、彼らはそうするほかない状況に置かれていたからであり、ネットワークを積極的に止揚していったのではない。拠点はあくまで、家族的小集団という閉じられた関係だった。その関係があって、はじめてネットワークが成り立っていた。家族的小集団のためのネットワークだったのであり、ネットワークが第一義的な関係だったのではない。
だからアフリカ人は、いまだに個人主義が強く、大きな集団を組織できない。
人間は、「今ここ」に立ちつくす、という基礎を持っていなければ、どこにも広がってゆけない。
もしも現在の知識人たちが扇動するようにネットワークを第一義のものとするスローガンで生きてゆくなら、われわれはますます「自分」という閉じられた拠点をまさぐり続けてゆかねばならなくなる。そうしないと、彼らの言うようなネットワークを生きることはけっしてできない。そうして、誰も愛することなく、誰からも愛されない人間になってゆくのだ。
しっかり自分を愛し、自分から愛されている……ネットワークを称揚する近ごろの知識人は、なんだかこんなタイプの人間ばかりのように思えるときがある。まあ、成功者は、それでいいのだ。そうやって成功した自分をまさぐって生きてゆける。
しかし、他者に対するリアルなときめきを失って自分をまさぐるしか能のない無名の庶民というのも、なんだかみすぼらしくはないのか。
たとえば、現在の「オタク」といわれる人たちは、ネット配信などで豊かなネットワークを持っている。しかし、そのせいで、自分という極小の虎の穴に潜り込んで誰も愛することなく誰からも愛されなくなってしまっている人も少なくないにちがいない。
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もしも人間が社会的な存在であるのなら、そうした存在の仕方を可能にしているのは、他者と「嘆き」を共有している「今ここ」という閉じられた関係を基盤として持っているからではないだろうか。
人間存在は「嘆き」の上に成り立っている。「嘆き」を共有してゆくことによって猿が人間になり、社会的な存在になっていった。
そらぞらしい「人間賛歌」とか「生命賛歌」とかを共有してネットワークをつくっていっても、われわれひとりひとりが魅力的な人間になれるわけでも、生々しくときめき合う関係がつくれるわけでもない。
魅力的な人間もときめき合う関係も、「嘆き」を共有しているところで成り立っている。それが、恋心=セックスアピールの文化だ。
たとえば、都会のしゃれたレストランやバーとかきれいな景色のリゾート地のホテルとか閑静な高級温泉旅館とかでデートをすれば、それなりの恋にもセックスにもなることだろう。しかしそのとき二人は、そういう舞台装置にときめいているだけで、相手のセックスアピール(魅力)に生々しくときめいているのかどうかはわからない。あるいは、たがいに、そういう舞台装置の中に立っている自分をよろこんでいるだけなのかもしれない。
まあ素敵な思い出を共有しているという満足は大いにあるのだろうが、けっきょく現代社会の人と人の関係はそういうそらぞらしさの上に成り立っているだけで、たがいに他者の存在のたしかさ(=セックスアピール)に気づき合っているといえるだろうか。
しかし現在、成功者のそういう自己満足(ミーイズム)の関係を無名の庶民までが欲しがるようになってきた。
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ネットワークは、現在の停滞を切り拓く新しい人と人の関係になりうるか。
ひとまずアフリカは、ネットワークで200万年やってきた。それによって彼らは、反自然の文化を育ててきた。
現代社会は、反自然のコンセプトを必要としているのだろうか。
アフリカのホモ・サピエンスは、自然があふれかえっている中で、反自然の文化を育ててきた。そうしないと彼らは生きられなかった。
何はともあれネットワークは、たがいに表現し発信し合う関係の上に成り立っている。それをしないと、誰とも会えない。それは、よかれあしかれスタンドプレーの文化だ。
「すでに他者が存在している」、という関係ではない。そういう関係の中ではじめて、「勝手に気づいてゆく」という心の動きが起きてくる。
ネットワークは、「今ここ」を共有していない。「今ここ」の外に出てゆき、みずからを表現し発信してゆく。「今ここ」を共有していないから、表現し発信しないと気付いてもらえない。つまり、自分を説明しないといけない。これはたしかに今風だが、自分を表現し発信することが第一義になって、他者に気づいてときめいてゆく体験が希薄になる。
みんな自分のことをわかってもらいたいのだ、という思想である。たしかにそういう世の中なのだろう。しかし、わかってもらえればそれで解決するのか。そんなことばかり願っているということそれ自体が病理であり、そんなことが満たされても生きてあることのカタルシスはくみ上げられない。わかってもらいたいという願いが無限に繰り返されるだけだろう。
他者に気づきときめく、という体験が希薄な関係である。ないとは言わないが、カタルシスは体験されていない。
ネットワークでは、他者に気づいて(わかって)もらう「未来」に向かって自分を表現し発信してゆく。それは、「今ここ」の外に出て「今ここ」を失っている状態である。だから、カタルシスがない。
それに対して誰もが「すでに」気づき合っている関係においては、誰も気づいて(わかって)もらおうとしていない。誰もが「今ここ」にとどまり、ときめき合っている。カタルシスは、こういうところで体験される。
「わかってもらう」ことがうれしいのなら、永遠に「わかってもらいたい」と思い続けて、完結することのカタルシスがない。
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誰もがすでに気づき合いときめいてゆけば、「今ここ」で完結する。この生のカタルシスは、そのように体験されるのではないだろうか。
わかってもらいたいという欲望など必要ない。
誰もが、自分から勝手に気づいてときめき合っている体験があればいい。
そのためには、誰もセックスアピール(魅力)を持っていないといけないのか。
しかしそれは「すぐれている」ということではない。人は「弱いもの」や「嘆いているもの」に気づいてときめいてくようにできている。お母さんが赤ん坊を抱き上げずにいられないように。赤ん坊どうし泣き声はたちまち伝染するように。
誰もが「弱いもの」や「嘆いているもの」になっているときに、はじめてそういう関係が生まれてくる。
つまり、誰もがセックスアピール(魅力)を持っているというのではなく、誰もが勝手に他者の存在にセックスアピール(魅力)を感じてしまう関係がある、ということだ。
いい男だとかいい女だとかと言うのではなく、誰もが「弱いもの」として生きてあることの「嘆き」を抱えて存在していれば人と人は自然にそういう関係になってゆく、ということ。ここのところを考えないといけない。
僕はべつに、魅力的な存在になる努力をせよ、といっているのではない。魅力的な存在になろうとすること自体魅力的でない証拠だし、人に好かれようとすること自体がもうじゅうぶん嫌われ者でしかないことの証拠だ。
そういう「欲望」を表現し発信し合うネットワークという関係のどこが素晴らしいのか、そんな関係をつくっても救いにも解決にもならない、と言いたいのだ。
生きてあることのしんどさを消去するのではなく、誰もがそのしんどさそのものを受け入れ嘆いているならもう少しましな世の中になるのではないか、といっているだけだ。
「今ここ」を味わいつくすこと。たとえば、洞窟の中のネアンデルタールがみんなで火を囲んで語り合っている状態は、ひとつの「サークル」であって、「ネットワーク」ではない。
何がネットワークか、アホらし、くだらね……とこのごろブツブツつぶやいております、ということ。
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