人間の自然は、未来をイメージすることではない。それは、現代人のたんなる制度的な観念にすぎない。人間の自然、すなわち人間性の基礎は、あくまで「今ここ」に憑依してゆくことにある。
閉じてゆく「今ここ」の関係を持っていなければ、ネットワークだって広がってゆかない。
ネットワークを広げてゆけば、人と人の関係は充実するか。充実しているのは成功者ばかりじゃないか、という批判は多い。そしてその成功者たちが他者にときめく豊かな感受性を持っているとも思えない。ただ自分の都合のいいように生きてゆく場としてネットワークを称揚しているにすぎない。
僕は、彼らが自慢するほどには彼らが魅力的な存在だとは思っていない。
ネットワークをつくれば現代の問題が解決するとは思わない。そこでは、相手の存在をたしかに感じるという体験がない。誰もが希薄な存在感になってしまっている。だから、積極的に自分を表現し発信していかないといけないし、その希薄な存在感が現代人には心地いいということもあるのだろう。そうやって「仲良きことは美しきかな」というカビの生えたようなスローガンを共有し合っている。
たしかに仲良しなんだけど、誰も他者のセックスアピール(魅力)なんか感じていない。感じる能力を喪失してしまっている。そうして、ただもう誰もが、「自分のことをわかってもらいたい」という欲望をぶつけ合っている。
茶店などで、「オタク」の人どうしがそういう会話をしているのをよく耳にするけど、内田樹氏とか茂木健一郎氏とか上野千鶴子氏とか東浩紀氏とか、生命賛歌やネットワークを称揚している近ごろの知識人たちのツイッターだって、どれもこれも「自分のことをわかってもらいたいという欲望」がむせかえるような書きざまだよね。
彼らは、他者との関係において、「自分はわかってもらえているか」とか「自分は好かれているか」とか、そういうテーマしか持たず、「他者のセックスアピール(魅力)を感じてしまう」という原始的・根源的な心の動きは希薄になっている。だから、自分を見せびらかすことばかりしている。見せびらかし合うことが人と人の関係だと思っている。それが、ネットワークの関係の本質なのだ。
けっきょく他者に対する反応が希薄な人種は、どうしても自分を見せびらかそうとする欲望におぼれてしまう。そういう成功者の人たちには、ネットワークの関係が心地いいんだろうね。
しかし、それで人と人の関係やこの社会が活性化するとは、僕には思えない。彼らの提出する解決策が人間の自然や根源に届いているとは、ぜんぜん思わない。
自分を見せびらかしたいとか人に好かれたいとかいい社会をつくりたいとか、そういう未来に対する欲望は、現代社会の制度的な観念のはたらきであって、人間の本性でもなんでもない。
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誰もがやたら自分をプレゼンテーションしたがるアフリカのホモ・サピエンス的なネットワークの関係と、洞窟の中で火を囲んで語り合っていたネアンデルタール人の、すでにプレゼンテーションする必要もない顔見知りどうしの「サークル」という関係と、いったいどちらが人間の自然であり根源であるといえるだろうか。
アフリカのホモ・サピエンスの「ネットワーク」に対するヨーロッパのネアンデルタールの「サークル」、人間の集団は、この二つの要素が組み合わさってできているのかもしれない。
火を囲んでみんなが集まっているという「サークル」は原始的・根源的な関係で、「ネットワーク」は現代的・未来的な関係であるのかもしれない。
人と人の関係は、「ネットワーク」だけを称揚すればいいというものではないし、そこにときめき(セックスアピール)や救いがあるというのでもない。
人と人の関係や集団は「生まれてくる」ものであって、「つくる」ものではない。
現代人は、いい社会をつくろうとする。つくろうとすることが何か正義であるかのように叫ばれている。
選挙の投票には行かなくてはならないとか、原発反対の集会に6万人も集まるとか、それらのことは、いい社会をつくろうとする欲望の上に成り立っている。現代社会には、そういう欲望が正義であり人間の本性であるという合意があるらしい。
そんなことを言っても、現代のようにこれほど大きく複雑な関係の集団になってしまえばもう、誰にとってもいい社会などあり得ない。
いい社会ってなんなのさ?
俺はそんな社会など望んでいない、という人間は必ずいる。
社会などないのがいちばんいい、という人間だっている。
だから多数決だといい、だから少数意見も尊重しろともいう。どっちにしたって、いい社会をつくろうとするのが正義だ、という前提に立って争っている。
人間はいい社会をつくろうとする生き物か。
そうじゃない。人間にとって社会は、すでに存在するものであり、勝手に生まれてきてしまうものだ。人間であるかぎり、そのことからは逃れられない。
人間は、根源において、いい社会をつくろうとする欲望など持っていない。
ただ、社会が存在するという状況(余件)を受け入れるようにできているだけではないのか。誰もがひとまず受け入れてしまうから、封建社会や独裁政治だって生まれてしまう。
人類の歴史は、誰もがひとまず社会が存在することを受け入れて流れてきた。
原発反対でもなんでもいいんだけどさ、そういう人間の与件というか本性につけ込んで自分たちに都合のいい社会をつくろうなんて、やることや考えることがちょっとえげつないんじゃないの。
誰もが共有している心の動きとは何かと考えるなら、ひとまず社会が存在することは受け入れる、ということだけなんじゃないの。
いい社会かどうかはひとまず問わない、ひとまず社会が存在することは受け入れる、ということだけなんじゃないの。おまえらのつくるいい社会に迷惑している人間だっているんだぞ。そして迷惑していても、人間はそれをひとまず受け入れる。
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人間の根源に社会をつくろうとする欲望などはたらいていない、ということ。われわれは、そこから考えはじめる。
人間にとって社会集団は、すでに存在するものであり、避けがたく生まれてきてしまうものだ、ということ。
だから人間は、社会が存在することをひとまず受け入れてしまう。
現代人の多くが社会をつくろうとする欲望が満々であるとしても、それは現代社会のたんなる制度性であって、人間の本性ではない。
いい社会を、というのではない、社会をつくろうとすること自体が倒錯的なのだ。
人間は、すでに社会的な存在であり、したがって社会をつくろうとする欲望を持っていない。すでにリンゴを食っている人間が、リンゴを食いたいとなんか思わないだろう。
人間社会は、社会をつくろうとする欲望の上に成り立っているのではない。ひとまず社会が存在することを受け入れる心の動きの上に成り立っている。
現代社会はみんなが社会をつくろうとすることの上にシステムが成り立っているのかもしれないが、この国でそのことが本格化してきたのはせいぜい戦後の数十年のことで、それでも人間社会の根源は、すでに社会が存在することを受け入れる心の動きが共有されていることの上に成り立っている。それが人間の根源だから、投票率が100パーセントにならないし、投票に行かない人を罰することができない。
なんのかのといっても、人と人の関係や社会は、それを「つくろうとする」欲望の上に成り立っているのではない。誰もが、すでに存在していることを「受け入れている」だけだ。
ネットワークは、ネットワークをつくろうとする欲望の上に成り立っている。そうやって自分を見せびらかしたいという欲望や好かれたいという欲望をぶつけ合っている。これが、社会をつくろうとする欲望の実態だ。
まあ現代社会にはそんな人間がたくさんいるのだろうが、その欲望がこの社会を覆い尽くすということはきっとないだろうと僕は思っている。
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少なくともネアンデルタール縄文人は、自分を見せびらかしたいという欲望も好かれたいという欲望もなかった。なぜなら、誰もがすでに他者に気づき、すでに他者を好きになっていたからだ。そしてそれは、誰もがよく目立ち魅力的だったからではない。誰もが「自分=生きてあること」の「嘆き」を抱えて暮らしていたからだ。そのようなところでは、自分を見せびらかしたいとか好かれたいという欲望は生まれてこない。しかし誰もが、他者に気づき、他者を生かそうとしていた。
人間存在の根源ではたらいているのは、生きようとする衝動(欲望)ではなく、生きてあることに対する「嘆き」なのだ。そこから押されるようにして、他の動物以上に深く他者に気づく存在になっていったのだ。
誰もが生きてあることの「嘆き」を抱えて暮らしている社会では、誰もが深く他者に気づいてゆく。その「結果」として、ネアンデルタールの社会集団が生まれてきた。社会集団をつくろうとする欲望(計画)があったのではない。
人類の歴史は、根源においては、社会集団をつくろうとする欲望を共有しながら流れてきたのではないし、今だって、生きてあることの「嘆き」が共有されているところで、豊かで切実な人と人の関係や恋が生まれてきている。
好かれようとなんか思うな、すでに好かれている人間になれ……ということがあるとすれば、それは、いわゆるいい男になるとかいい女になるとかということではなく、自然にそういう関係になってゆくのが、人間社会の人間性の根源のかたちだ、ということだろうか。生きてあることの「嘆き」が共有されているところでは、自然にそういう関係になってゆく。
なんのかのといっても人と人の関係は、そのようなところでときめきあったり盛り上がったりしている。
言っとくけど内田樹先生、あなたがいい男になろうと惚れられようと、ちんちんは立ちゃしないんだからね。あなた自身がときめかなきゃ。
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