アフリカのホモ・サピエンスの「ネットワーク」社会に対するヨーロッパのネアンデルタールの「サークル」社会、これは現代社会の問題でもある。
ネアンデルタール人のことを語っても、僕はいつだって「現在=今ここ」を意識している。
ネアンデルタール人は、他者にときめく心が極まって寄り添い集まってゆき、気がついたら大きな集団になっていた、それだけのこと、食糧生産の能力が上がったからとか生存戦略としてそういう選択をしたとか、そういう広義の「経済」の問題ではない、ようするに人と人の関係の問題なのだ。
人間の生態の基礎として、「今ここ」の世界や他者に対する心の動きが他の動物以上に切実で豊かだ、ということがある。「今ここ」の人と人の関係を起点として、大きな集団がつくられていった。べつに大きな集団をつくろうと計画したのではない。
人類の歴史なんて、いつだって行き当たりばったりのなりゆきまかせで流れてきたのだ。「今ここ」に深く心が動いてしまう人間は、なりゆきにまかせるしかない宿命を負っているし、なりゆきを受け入れる心を持っている。
なりゆきを受け入れる心こそ、人類の普遍であり自然なのだ。
人間の生態は、つねに「今ここ」が起点になっている。
「今ここ」に深く心が動くからこそ、他の動物以上に過去を追憶し、未来を計画するようになってきたのだ。われわれの過去も未来も、現在との関係としてイメージされている。
「今ここ」の人と人の関係が集まって自然に大きな集団になってきた。それはたんなる「結果」であって、計画したことではない。
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ネットワーク社会では、未来に対する意識と自分をプレゼンテーションしようとする欲望ばかり肥大化して、「今ここ」に対する意識が希薄になってしまう。
ネットワークという言葉を使えば何か新しい社会形態のように聞こえるが、大昔から、国家が民衆を支配してゆく方法は、ネットワークを隅々まで張り巡らしてゆくことにあった。飛鳥・奈良時代律令制度だって、ようするにネットワークの整備のための法律であり、いまどきの町内会が自治体や国やお寺や神社などに寄付を強制されることだって、まあネットワークの機能にほかならない。
かんたんにネットワークという言葉に浮かれてもらっては困る。ネットワークなんて、共同体の悪しき制度性にすぎない。べつに、新しくもなんともない。
われわれ庶民は、共同体(=国家)の成立以後、そうした制度性のネットワークのプレッシャーを受けながら歴史を歩んできた。
上野千鶴子氏や東浩紀氏が彼らにとってどんなに心地よいネットワークを組織しようと、末端の無知な人間たちは、いつだってそのプレッシャーで、生きにくい思いをするばかりなのだ。
何がネットワーク社会か。ネットワークなんて、人を支配するシステムなのだ。
情報は、伝達するものと受け取るものがいる。これがそのまま支配者と被支配者という構図になる。
根源において、人と人の関係に必要なものというか、人と人の関係で起きていることは、伝達し受け取ることではなく、すでに共有されているものを確かめてゆくことにある。伝達し受け取ることなんか、人と人の根源のかたちでもなんでもない。
言葉だって、伝達の機能として生まれてきたのではない。話すものも聞くものも、ともにその発せられた音声を「聞く」というかたちで空間を共有してゆく行為として生まれてきたのであり、聞くことによってはじめておたがいがその言葉の意味やニュアンスに気づいてゆくのだ。言葉の意味は発せられたあとに生まれる。これは、言語学の常識のはずである。だったら、「伝達する」ということなど原理的に成り立たない。話すものだって、情報を発信などしていない。その音声の意味は、発したあとから気づかされる。そのようにしてたがいに受け取るものになり、言葉(に対する感性)が共有されてゆく。
これが言葉の起源であり、人と人の関係の根源のかたちだ。
情報を発信してプレゼンテーションすることは、支配者がお触れを出すことと同じで、共同体(国家)の発生とともに習慣化され、盛んになってきた行為にすぎない。
いつの時代も、人と人のときめき合う関係は、すでに共有しているものを確認してゆくようにして生まれてくるのだ。
東浩紀先生、上野千鶴子先生、あなたたちだって身に覚えがあるだろう。いつの時代でも、そういうかたちで人と人はときめき合っているのだ。
だからいつの時代も、人と人は、ネットワークではないそういう根源的なときめき合う関係をつくろうとしてきたし、つくってきたのだ。
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人間の暮らしは、ネットワークだけではすまない。ネットワークだけでは生きられない。だから、ネットワークではないもうひとつのときめき合う根源的な関係、すなわち「サークル」の関係を確保しようとしてきたのが、共同体(国家)の発生以後の人類の歴史なのだ。
相手に「セックスアピール」を感じてときめき合ってゆく男と女の関係は、ひとつの「サークル」の関係である。それは、情報を伝達し合うのではなく、すでに共有しているものを確かめ合ってゆく関係である。
たとえば、日本列島の伝統としての村の「寄り合い」は、情報伝達の場ではなく、たがいに生きてあることの「嘆き」を持ち寄り、それが共有されてあることを確かめ合う場として生まれ育ってきた。
大和政権成立以後、農民には、支配者からの情報伝達のプレッシャーから解放される場が必要だった。そしてそこに招かれた昔の琵琶法師の語りや昭和の初めころの浪曲などを聞いて村人たちはどうしたかといえば、みんなして泣いたのである。みんなして泣くことが、この国の伝統的な娯楽だった。そうやって「嘆き」を共有してゆく「サークル」として村の暮らしが成り立っていたのだ。
「嘆き」を共有しているから、信じ合いときめき合う関係が生まれてくるのだ。
情報を伝達し合ってそれを共有したからといって、人と人の心が共鳴し合うわけではない。そこで、直接人にときめいてゆくという心の動きが生まれてくるわけではない。
何度でも言う。人類集団の根源的なかたちは、「サークル」にあるのであって、「ネットワーク」ではない。
アフリカのホモ・サピエンスは、「ネットワーク」社会に依存していったために人間の自然である大きな集団をつくるということがついにできなかったが、極寒の北ヨーロッパに暮らしたネアンデルタールはそれを「サークル」というかたちで実現し、その後の人類史の礎になった。
まあここではこのことが言いたいのだが、世間では何かと現代社会の「ネットワーク」がどうのとかまびすしいから、こちらの反論もついくどくなってしまう。
ネットワークの限界や弊害がある。ネットワーク社会を称揚したいのなら、まずそのことをきっちり検証してからにしてくれ。
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いい情報を選択し情報を上手に受け止めればいい暮らしができて幸せになれるとか、そういう問題ではない。情報それ自体が、われわれの暮らしのプレッシャーになっているのだ。
いい暮らしをして幸せにならないといけないという、現代社会のそのスローガンがプレッシャーになっている。
人がもしも幸せでないのなら、幸せでないその「今ここ」だって肯定されなければならない。
幸せになるための情報を伝達してゆくことそれ自体が、人にプレッシャーを与えているのだ。
現代社会の「いい社会をつくろう」というスローガンそれ自体が民衆のプレッシャーになっているのだ。
選挙に行けとか、選挙に行かないと市民の資格はないとか、よけいなお世話だ。市民でなくてけっこう、僕はただの人間という生き物だ。
いや、自分が生き物であるかどうかという自覚さえうまく持てないで困っているし、市民であることよりもそちらの方がずっと気にかかる。
僕にとって自分が生き物であることはたんなる前提であって、実感ではない。存在しているのかどうかということさえよくわからない。
人間というのは、なにもかもわけがわからないよ、という思いを誰もがどこかしらに抱えて生きている存在なのだろうと思っている。それが「知能」を持っているということであり、そういう存在であることの「嘆き」が共有されて大きな集団になっているのではないだろうか。少なくとも「根源」を問うなら、人間賛歌とか生命賛歌などということは成り立たない。われわれは根源において生きてあることを、「わけがわからない」という「嘆き」とともに自覚している。だからこそ人と人は寄り添い合わずにいられないのだ。人間の集団は、じつはそういうかたちで成り立っているのではないだろうか。
なのに、そういう問題をいともあっさりと解決したつもりになって人間賛歌だの生命賛歌だのを叫ばれても困るのだ。
茂木健一郎という脳科学者は、「生命のふくよかさ」などといって、なんだか得意げに生命賛歌をしておられる。まったく、アホが何言ってるんだか。人間が「生命」の何をわかったというのか。わかったようなことを言うなよ。生命が「ふくよか」かどうかなんて、だれにもまだわからないのだ。彼にとって科学とは、「こんなことがわかりました」と世間に向かってプレゼンテーションしてゆくことらしい。その楽しみで科学をやっているだけだから、先走ってそんな安直なことを言ってしまう。
しかしほんものの科学者は、「わからない」という「嘆き」にせかされて探究を続けている。その「嘆き」があったら、「生命のふくよかさ」などという安直なことは言えない。僕のように脳科学の何も知らない人間だって言えないくらいだから、その現場に立っているほんものの脳科学者だったら、もっとその「わからなさ」に狂おしい思いをしているにちがいない。
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「嘆き」を共有してゆく、というかたちでしか人間の集団は成り立たない。したがって、「嘆き」が存在しない「いい社会」を目指す、というスローガンで人間を一致団結させることなんかできないのだ。それは、人間の根源的な存在の仕方に背理(矛盾)している。
「いい生き方」も「いい社会」も目指すことができないようなかたちで人間は存在しているのだ。
生命が「ふくよか」かどうかなんてわからないのだ。ただそういう人間賛歌・生命賛歌の幻想が現代社会を覆っているというだけのこと。
なんのかのといっても、人がときめき合うとき、心の奥深くのどこかしらで「嘆き」が共有されているのではないだろうか。これが、僕にとっての人間存在を考えるときの基本だ。
人は、生きてあることの「けがれ=嘆き」を共有して集団をいとなんでいる。そこにおいてときめき合っている。
「生命のふくよかさ」だとか「ネットワーク社会」だとか「いい社会をつくる」とか「選挙に行け」とか「デモに行け」とか、そんなスローガンばかり振り立てている現代人の「けがれの自覚」のなさこそ、なんだか嘘っぽいし、うざったい。
人と人は根源において、未来を目指すことを共有しているのではなく、「今ここ」の「けがれの自覚」を共有してときめき合っている。だから人間は、際限なく大きな集団をつくっていってしまう。
大きな集団をつくりたいのではない。そんなになっても困ることの方が多いことは知っている。だから日本人は村の「寄り合い」というサークル集団をつくっていったし、西洋人は「都市」というサークルにこだわった。それは、「情報」というプレッシャーから解放されて、文化を自給自足してゆこうとする集団の単位である。
この問題は、ややこしい。「けがれの自覚」を共有して存在している人間にとっては、未来のいい社会をつくるための情報よりも、「今ここ」の「けがれ」をそそいでくれる情報の方がありがたい。それが芸能人のスキャンダルであったとしても、まあそういうことなのだ。
「いい社会」をつくるための彼らのご立派な託宣なんか、有難迷惑の方が多い。そういうご立派な託宣がわれわれ庶民の暮らしのプレッシャーになってのしかかっているという現在の状況はたしかにある。ネットワーク社会の弊害として。
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