東浩紀氏の批評・思想の核心は、「ネットワークと郊外型社会と消費文化の基本的な肯定」にあるのだとか。
現在のこの国最先端の批評・思想家らしい人が、こんなカビの生えそうな概念をずらりと並べて悦に入っているのだとしたら、なんだか笑ってしまう。
ネットワークのことは、前回に書いた。ネットワークの関係でしか生きられない人間たちがその既得権益を守ろうと扇動しまくっているだけなのだ、と。
では、「郊外型社会」は、この国の時代を先導してこの国の希望になり得ているかといえば、まったくそんな気配はない。「郊外型社会」が時代をリードしていたのは、「多摩ニュータウン」や「金曜日の妻たちへ」とかいう不倫ドラマがもてはやされた80年代前後のことで、今や多くの郊外型社会が、まるでかつての農村のようにスラム化している、という悩みを抱えている。
また、家族関係や男女関係にまつわる凶悪事件の多くが都会から少し外れた「郊外型社会」で起きているし、学校内の「いじめ」もそんな地域の状況がいちばん深刻になっている。
郊外型社会では、文化を自給自足できない。これは、小さくない問題だと思う。
郊外型社会には、おじさんたちのためのやさしくて色っぽいママのいる気のきいた飲み屋はなかなか見つからないし、若者だって、遊びのときは都心を目指す。都心が近いからこそ、いろんな意味で郊外独自の文化的な環境が生まれにくい。そして、文化が生まれてくる土壌としての「歴史」を持っていない。やさしくて色っぽいママは、その土地の歴史から生まれ育ってくるのだ。そういうママは青森の港町にも熊本の城下町にもいるけど。郊外型社会にはいない。
郊外型社会でもそれなりにみんな仲良くやっているのだろうが、「出会いのときめき」の文化がない。つまり「ネットワーク」型の自分をプレゼンテーションしてゆく人と人の関係はあっても、「出会いのときめき」が生まれる「サークル」の文化がない。このブログの前回のエントリーに即して言えば、生きてあることの「嘆き」が共有されていない。そういう「嘆き」が共有されてきた歴史を持っていない。
なぜ酒場のママが色っぽく魅力的かといえば、生きてあることの「嘆き」を客と共有してくれているからだ。ここで言う「サークル」の文化とは、こういう関係のことだ。
小ざっぱりとした景観の郊外型の「ニュータウン」には、そういう文化がない。ここでは、人間賛歌や生命賛歌で街がつくられてきた。戦後の日本社会は、そういうスローガンで突っ走ってきた。そのつけが、現在の文化的に貧相になってしまった「郊外型社会=ニュータウン」にあらわれている。
現在のこの国全体が文化的に貧相になってしまっているのかもしれない、少なくとも人と人の関係の文化においては。
現在の郊外型社会は、人と人の関係が貧相になってしまっている。
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そして、現在の「消費文化」にどんな可能性があるというのだろうか。現在の消費市場の冷え込みは、そうかんたんには解消されないだろう。問題はむしろ、その「冷え込み」を肯定できるかどうかにある。
たとえば、海外の一流ブランドの装飾品を欲しがるのをやめて日本製の中級品の良さを見直すような風潮になってきたら、それこそ逆説的に消費が活性化するのかもしれない。
すなわち、文化の自給自足。このことがある程度ちゃんとできていないと、人と人の関係も社会も活性化してこない、ということだろうか。
国においても町においても個人においても、文化の自給自足という命題はあるのかもしれない。それが「サークル」の文化だ。
自給自足できないから、「ネットワーク」を求める。ヴィトンやエルメスのバッグを欲しがることは、「ネットワーク」の文化である。
それに対して、バッグくらい日本という「サークル」で自給自足しようじゃないかという流れになってくれば、ヴィトンやエルメスに負けないくらい気のきいた中級品がいくらでも生まれてくるかもしれない。デザインのセンスにおいても、ものづくりの技術においても、この国には自給自足できるだけの文化は持っているはずである。
僕だって、ネアンデルタール人についての考察だけは、自給自足している。
この国のコギャルたちは大したものである。文化の自給自足をコンセプトにして「かわいい」の文化を生み出し、今、世界中に発信している。これは「サークル」の文化である。彼女らは、戦後社会のゆがみの中で生まれ育ち、その「嘆き」を共有しながら「かわいい」の文化を生み出していったのだ。彼女らのそのキッチュな「かわいい」という感性は、たしかに文化を自給自足しようとしていた。
ひとまず世界中のどこの国でも、伝統として、ある程度は文化を自給自足している。しかしこの国の戦後社会においては、太平洋戦争の敗戦とともにそれをすっかり放棄してしまった。放棄したことによって高度成長も果たしたが、ここにきてそのつけがすっかりたまってしまっている。現在の若者たちは、そういう状況の中で生まれ育ち、「かわいい」の文化を生みだした。彼らはたしかに、文化の自給自足の精神を持っている、大人たちよりもずっと。
大人たちに自給自足の文化がなかったから、若者の感性にも制約がなかった、ともいえる。つまり大人たちは、若者の生活をあれこれ縛ってきたが、心(感性)を縛ることはできなかった、ということだろうか。
「かわいい」の文化は、大人に対する幻滅の上に成り立っている。世界中で、この国の若者ほど大人に幻滅している若者もいない。大人に幻滅しているから、「かわいい」とときめく感性が生まれ育ってきたのだろう。そのように彼らは、大人から離れて文化を自給自足している。
消費だって、社会全体で、ある程度は文化を自給自足しようとする心意気を持っていないと活性化しない。少なくともその心意気を放棄したところで成り立っていた大消費の時代は、すでに終わっているのかもしれない。
これからはもう、ヴィトンやエルメスに負けない中級品を自分たちでつくってゆく時代なのかもしれない。日本人なら、そんなものくらい今すぐにでも作り出せる能力はあるのだが、そういうものを消費してゆこうという心意気がまだない。文化の自給自足、という心意気が。それは、敗戦のトラウマだろうか。
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ギャルの携帯ストラップやバッグにぶら下げている小物や、あのキッチュなファッションにしても、それを身につけている自分をかわいいと思っているのではなく、その小物やファッション自体をかわいいと思っているだけである。そのとき彼女らは、自分なんか捨てている。自分の顔や体だって、ファッションの一部にすぎない。そうして、それを見た仲間が「あ、かわいい」という。みんなが、相手のことを「あ、かわいい」とときめき合っている。
自分のことをかわいいと思っているのではない。誰もが、自分のまわりの世界や他者に対して「あ、かわいい」とときめいているだけである。これが「サークル」の文化であり、「セックスアピール」の文化だ。
ネットワーク社会がプレゼンテーションしようとする自意識が生まれてくる社会だとすれば、「サークル」社会では、たがいの自意識が消去されて誰もが世界や他者にときめいてゆくということが起きている。
ヴィトンのバッグを持って目立とうとか、ヴィトンのバッグを持っていないと恥ずかしいとか、そういう自意識ではもう、この国の消費は活性化しない。
自意識か肥大化することに対する反省が、少しずつ起きてきているのかもしれない。それが「かわいい」のムーブメントであり、「草食系男子」という風潮かもしれない。「天然ボケ」という言葉だって、自意識の希薄さをあらわしている。
近ごろの大人たちのようにあんまり自意識過剰であると、色っぽくないしかわいくない。
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むやみな自意識から解き放たれてあるためには、自分が好きであってはならないし、自分なんか忘れていないといけない。自分が好きであることを、自意識というのだ。
自分のことなんか忘れている天然の表情を「かわいい」という。
自分のことなんか好きであってはならない。自分も、自分の命も、「嘆き」の対象であることによって、はじめて忘れることができる。なんの契機もなしに忘れてしまうことなんかできないし、演技をしても長続きはしない。
生きてあることの「嘆き」を持っているから、自意識から解き放たれてあることができる。純粋だからではない、みずからの生の通奏低音として「嘆き」を持っているからだ。
自意識が希薄だからといって、ただのほほんとしているからではない。どんなバカなコギャルだって、世間のありふれた自意識過剰の大人よりは、生きてあることの「嘆き」を持っている。
彼女らは、のんきに人間賛歌や生命賛歌などしていない。というか、大人たちのそういう人間賛歌や生命賛歌に追い詰められて育ってきたのだ。
自分ひとりが不幸であるような心地はつらい、しかしみんなで共有しているのなら、誰もがそれを受け入れてゆく。そうして自分に対する関心を捨てて世界や他者にときめいてゆく。抱きしめ合えば相手の身体ばかりを感じて自分の身体のことは忘れている。いまどきのギャルたちはそういう「サークル」を持っているのであり、そこから「かわいい」の文化が生まれてきた。
「サークル」とは、自分のことを忘れて世界や他者にときめいてゆく場である。そうなればもう、自分をプレゼンテーションしようとする衝動など起きてこないし、その必要もない。
ヴィトンのバッグが欲しいのは、自分をプレゼンテーションしようとする衝動だろう。ヴィトンのバッグがいいという以前に、ヴィトンのバッグを持っている自分でないと落ち着かないという気持ちがある。バブル時代は、そういう「差異化」の衝動の上に消費が成り立っていた。
しかし「サークル」社会では、自分を捨てて「かわいい」とときめいてゆく。
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「衝動買い」という。そのとき人は、その商品がべつの何かと違うとかすぐれているとかということを認識するのではない。その商品の存在それ自体にときめくという、その商品との固有の関係が発生している。「差異化」なんかしていない。
「差異化」が商品を買う契機になるというのなら、商品に対する感動なんか何もない。「差異化」が恋愛の契機になるというのなら、ブスとブ男がくっつくことは永遠にない。彼らは「妥協した」とか、そんな表層的な解釈が真実だとは僕は思わない。それでも彼らは、どこかで根源的にときめき合っている。その根源的な体験は、「差異化」することではない。
意識の根源的なはたらきは「差異化」することではない。言葉の根源的な機能は、世界を「差異化」し世界を生成することではない。世界はすでに存在している。その「すでに存在している」という気配と、われわれ(の意識)は固有の関係を結んでゆく。
たとえ相手がブスだって、「すでに存在している」という気配をともなって私の前に立ち現れれば惚れてしまう。あなたが女のすべてだ、この世にあなた以外に女は存在しない、という気分になってしまう。男が女に惚れるとき、誰だって根源においてはそういう体験をしている。
男と女が結婚することだって、ひとつの社会的な消費行動といえるのだろうが、表層的には経済力とか見てくれとか性格とか人それぞれどんな「差異化」の目論見があろうとも、根源的なところで「この世にあなた以外に女(男)はいない」という「他者の存在の固有性」に対するときめきが体験されている。そのときめきが、結婚を決断させている。
「固有性」、すなわち文化を自給自足すること、消費することだって根源においてはそういう体験がなされているし、それが「ときめく」ということであり、それが「サークル」の文化だ。
妥協したんじゃない、彼らは文化を自給自足したのだ。
意識とはひとつの「ときめき」である、といってもいい。根源的には、世界を「差異化」する機能なんかではない。
なんだか話がややこしくなってしまったが、人間社会が、プレゼンテーションしながら文化をトレードしてゆく「ネットワーク」の関係だけですむはずがない、文化を自給自足しようとする心意気を持った「サークル」の関係だってなきゃやっていけないだろう、と僕は言いたいのだ。文化を自給自足しようとする「サークル」こそが逆説的に人と人の関係や社会を活性化させるのであって、「ネットワーク」なんてただの「ミーイズム」だ、と言いたいのだ。
プレゼンテーションしたがりの色気(セックスアピール)のない人間ばかりがのさばる世の中では、われわれの希望にはならない。
何はともあれ、この国の「戦後」はまだ清算されていない。やれやれ……。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
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