男は、社会から人格を上書きされ、社会的な存在になってしまう。それはもう、女子供を食わせていかないといけないというこの社会の仕組みからいって、ある程度はしょうがないことかもしれない。
しかし戦後は、世の中が豊かになってそういうプレッシャーから解放されていったかというと、そうではなく、豊かになったからこそ、逆にそのことをアイデンティティとして生きようとする男たちが多くなってきた。
戦後社会には、人を社会化させてしまう空気がはたらいてきた。人々の心は、無意識のところから社会に冒されていった。
団塊世代なんて、もっとも冒されている人種だよね。
ともあれ戦後の男たちは、戦前の男よりももっと社会的になっていった。
戦後は、人々が「国」というプレッシャーから解放された時代だった。プレッシャーを感じれば、家族や個人は固有の世界をつくってそれに耐えようとするが、プレッシャーがなければ、とうぜんその世界もあいまいになったり無防備になったりして、たやすく社会化していってしまう。
戦後の男たちは、社会の価値観がそのまま家庭でも通じると思ってしまう傾向になっていった。そうして、家庭の経済的繁栄や安定が、妻や子に愛され、妻や子を縛る正義になると信じていった。
何不自由なく暮らして仲良くしているのだからそれで文句はないだろう幸せだろう、と男が思っても、妻や子がそれだけでいいと思っているとはかぎらない。それが社会の理想であったとしても、家族の理想も同じとはかぎらない。そんなこと言ったってお父さんが魅力的でなけりゃ退屈だ、と妻や子が言う。そんなところから、不倫やら熟年離婚やらその他もろもろの家族の崩壊が起きてくる。
家族には家族の関係性の文化がある。幸せに倦んでしまう、ということもある。社会化してしまっている家族はそれでやっていけるが、家族であることのアイデンティティはそんなところにはない。すでに社会から人格を上書きされてしまっている男はそれでいいかもしれないが、社会化していない妻や子は、「家族としての固有の関係性の文化」が自給自足されていなければ、退屈し、いたたまれなくなってしまう。親はそれでいいかもしれないが、子供はそれだけではすまない。
世の中のネットワーク的な人と人の関係なんか、仲良くしていても、腹の中では何を思っているかわかったものではない。仲良くすることがスローガンだからそれでいいのだが、それだけにもたれかかってばかりいると、心からときめきあう関係なんか起きてこない。
家の中で妻が亭主に加担して、これでいいだろうと子供に圧力をかけてゆくことだって、けっして健康的とはいえない。
たとえば、秋葉原通り魔事件を起こした青年の両親や、外人女性を殺して整形手術をしながら逃げ回っていた青年の両親は、夫婦が結託して子供を追い詰めていったのだろう。彼らには、子供を追い詰めているという自覚がなかった。
自殺してしまった子供の両親が、「このごろ子供が何かに追い詰められて精神が不安定になっている」ということに気づかなかったというのも、何か不思議な話である。
気づかないくらい、家族の関係性の文化が希薄だった、ということだろうか。
親が社会化しているとは、家族の関係性の文化を自給自足する能力を喪失している、ということだ。社会のネットワークに参加してゆく意欲と能力は持っていても、家族の関係性を充実させる「サークル」の文化を自給自足してゆく意欲も能力もない。だから、子供の気持ちに気づくということができない。仲良くしていても、子供の気持ちになんか気づいていない。仲良くできればそれでいいというわけにはいかない。仲良くすることは、社会的な関係だ。家族は、平気で喧嘩だってしまう。しかしたがいの気持ちに気づき合っているから、すぐ仲直りもする。喧嘩すること自体が、たがいの気持ちを確認し合う行為だともいえる。
仲良くする関係の下に、ほんとうの気持ちが隠されている。ほんとうの気持ちなんかどうでもいい、仲良くできればいいのだというのが、社会の人と人の関係の流儀である。それに対して、仲良くすることなんかどうでもいい、ほんとうの気持ちを確かめ合おう、というのが家族の関係である。
戦後社会は、仲良くするというネットワークの関係の文化を築いてきて、ほんとうの気持ちを確かめ合いときめき合ってゆく「サークル」の関係の文化が貧弱になってきた。
言葉は、ほんらい、そういう「サークル」の関係を自給自足してゆく文化として生まれてきたのであり、だから地域ごとに違うのだ。
人と人がときめきあう恋の文化だって、おそらく地域ごとに違うのだ。つまり恋は、社会化した「ネットワーク」の関係から生まれてくるのではなく、人と人がときめき合う関係性の文化を自給自足してゆこうとする「サークル」の中から生まれてくるのだ。
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上野千鶴子さんや東浩紀さんがどれだけ仲が良く心地いい社会的なネットワークの関係を持っていようと、そこで彼らがどれだけほんとうの気持ちをわかり合いときめき合っているかということなどわからない。
上野さん、あなたたちはほんとうの気持ちを隠し合って仲良くしているだけじゃないのですか。あなたはすでに、他人のほんとうの気持ちに気づく能力なんか喪失しているし、気づいていこうとする意欲も放棄している。だから、ネットワークの海で漂っていられる。
そんな関係が素晴らしいなどとは、われわれは思わない。それは、現代社会の病理なのだ。
それこそが、戦後社会の病理が行きつくところなのですよ。あなたたちのようにすでに意識が社会化してしまっている人たちはそれでいいのだろうし、そうでないと生きられないのかもしれないが、われわれはそれだけではすまないのですよ。
この社会は、あなたたちが気持ちよく生きてゆくためのものとして存在しているわけではないのですよ。
内田樹先生だって同じで、あなたたちはけっきょく自分が気持ちよく生きてゆける社会をつくろうとしているだけなんだよ。
……こんなふうに書いてくるとだんだん腹が立ってきて、誰でもいいからここに文句言ってこいよ、という気持ちになってしまう。
世の中の人間なんて、ほとんどが、けっきょく自分が気持ちよく生きてゆける社会を思い描いているだけだ。
自分なんか気持ちよく生きてゆけなくてもいいし、気持ちよく生きてゆくということそれ自体がどうでもいいことなんだよ。
ネアンデルタールは、ひたすら「この世のもっとも弱いもの」が生きてゆける社会を目指した。自分が気持ちよく生きてゆくことも、気持ちよく生きてゆくということそれ自体も願わなかった。
彼らにとってこの生は、あくまで「嘆き」の対象であり、その「嘆き」を共有しながらときめき合っていった。人類の言葉も恋の文化も、そういう状況から生まれ育ってきたのだ。
「おひとりさまの老後」は「ネットワーク」の中でこそ心地よく幸せに生きられると言っても、その「心地よく幸せに生きられる」ということそれ自体がくだらないんだよ。そんなことを発想すること自体が、誰にもときめかず誰からもときめかれることもなくただ仲良くしているだけの生き方しかできないブサイクな人間特有の病理なんだよ。
あなたたちには、他者の存在そのものに深くときめいてゆくという能力はない。そういう関係を放棄して、ネットワーク社会をつくっているだけじゃないか。そしてそれこそが、戦後の社会を歩んできた日本人の犯した蹉跌なのだ。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
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