ついでだから、もう少し、現代社会の問題を考えてみます。
地方で生まれ育った者が東京に出てくれば、とうぜん自分が都市生活者であることをプレゼンテーションしたくなるだろう。田舎者であることをさらさないためには、都市生活者であることをプレゼンテーションしてゆかねばならない。
自己PRこそ、田舎者が都会で生きてゆくための武器だ。そして、弱いものも、頭の悪いものも、もてない男や女も、みんなしてそうやって生きてゆこうとしていったのが戦後という時代だったのかもしれない。
人口の都市流入とともに、そういうプレゼンテーションしたがりの習性が日本中に蔓延していった。その傾向は、おそらくバブル景気とともに、一気に加速し定着していった。
上野千鶴子氏は、その先駆者として70年代から活躍してこられた人だ。なにしろ、団塊世代なのだ。団塊世代ほど戦後的な人種もいないし、そのプレゼンテーションしたがりの習性は東浩紀氏をはじめとする多くのアラフォー世代にしっかり受け継がれているらしい。
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戦後、地方が文化を自給自足してゆこうとする心意気を失っていったのは、おそらく敗戦によって日本人の意識が変わってしまったからだろう。明治以来の右肩上がりで高揚していった気分が、一気にしぼんでしまった。
もう都会も田舎も、自立することができなかった。人々の心が、自立することができなかった。
もともと田舎にとって都会は、非日常的な「異世界」だった。都会にとっての田舎もそうだったにちがいない。そういう関係が失われていった。
都会そのものの文化も、大量の都市流入者のプレゼンテーションによって変質していった。山の手文化も下町文化もなんだかあいまいになってきて、都会と田舎も、山の手と下町も、際立った対比というか差異が希薄になってきた。
町が、文化を自給自足しようとしなくなっていった。戦後のこの国の状況というか、時代の状況として、そういう心意気が失われていった。
つまり、「他者にときめく」ということがなくなった。社会の「ネットワーク」が充実してゆけば、町も人と人の関係もそのようにあいまいになってゆく。あいまいだから、プレゼンテーションして関係をつくってゆこうとする。
人と人は、根源においては関係をつくってゆく存在ではない。すでに関係の中に置かれてあるのであり、すでにときめき合って存在しているのだ。だから言葉が生まれてきた。だから高度なチームワークも生まれてきた。
まず関係をつくってゆかなければならないのなら、チームワークなんか生まれてくる暇がない。言葉もチームワークも、「すでにときめき合っている」という前提の上に成り立っている。
現代人は、関係をつくることばかりに熱心で、すでにときめき合っている関係としてそこからチームワークを生みだしてゆくというセンスがない。人と人が信じ合っていない、というのか。ときめかれるだけの魅力を持っていないし、ときめいてゆく感性もない。だから、プレゼンテーションすることばかり熱心になってゆく。
ただ、こういう関係から一時的に解放されている世代がある。それが思春期だ。とくに高校生くらいになると、「すでにときめき合っている」という関係で向き合っていることが多くなる。そうやって彼らは、おしゃべりをはずませ、我を忘れて一緒に楽しく遊んでいる。それは、彼らが、家族や社会の鬱陶しさとか、みずからの成長してゆく身体を持て余していることの鬱陶しさとかの「嘆き」を共有しているからだ。
しかし大人になれば彼らだってやっぱり、社会の流儀に従ってプレゼンテーションして関係をつくってゆくほかない。
そういう社会になってしまっている。いや、そういう時代に、というべきだろうか。
そうして誰もがどこかしらにフラストレーションをため込んでいる。そりゃあそうだ。人間はもともとそういうかたちで存在しているわけではないのだもの。
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自分をプレゼンテーションしてゆくことは、自分を見せているようで、じつはほんとうの自分を隠している。隠すために見せている。子供が、親の前でいつも「いい子」を演じているようなものだ。戦後は、どこもかしこも、こういう人と人の関係になっていった。みんながこんなことばかりやっていれば、仲良くすることはできても、ときめき合うということは起こらない。これが、ネットワーク社会である。
戦後の時代を象徴する現象のひとつとして、よく「家族の崩壊」ということが挙げられる。
おそらくこの現象は、日本中で起きているのだろう。
だから、家族なんかつくらずにネットワークの中の「おひとりさま」を生きるのがいいのだ、と上野千鶴子氏はおっしゃる。とくに老後はひとりにかぎる、と。
そんなことをいっても、この世の中は、たくさんの男女が今なお結婚しているし、近ごろではいい歳した独身のじじいがずいぶん年下の女を捕まえて結婚するということも多いらしい。いや、芸能人だけではなく、一般人のあいだでもそういう現象が多く起きてきているのだとか。
それでも人は、結婚して家族をつくってしまう。「おひとりさま」でネットワークの海を泳いで生きよといわれても、きっとそうはならないのだ。
誰だってほんとうの自分をさらすことができて相手の生の姿にときめくという体験すれば、あと先のない行動に走ってしまう。誰もが自分を演じ合って成り立っている社会だからこそ、生の自分をさらし合うという体験をすれば、ほっとするし、大いにときめいてしまいもする。
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家族なんてろくでもないものだけど、それでも家族を恨むわけにはいかない。人間は根源において、この生を「今ここ」で完結させようとする衝動を持っているのであり、そうやって文化を自給自足しようとし、そうやって恋をし、つい結婚してしまったりするのだ。
戦後の家族がなぜ崩壊したかといえば、べつに「家族だから」というわけでもないだろう。
戦争に負けるということは、国からの上意下達のネットワークシステムがいったん消滅するということを意味する。日本の場合、「一億総懺悔」したのだ。この国の伝統すら否定した。国は、空っぽになった。そうして、大人たちのひとりひとりが国を代弁するものになっていった。あるものは強気になり、あるものは弱気になり、あるものは民主主義になり、あるものは天皇礼賛を維持しようとした。
そのようにして家族の中の大人たちが国の代弁者になっていったことによって、団塊世代をはじめとする子供たちに反発されていった。
戦後の親たちは、子供に対して教育熱心になった。もちろん戦後すぐのころは、ただ学校の成績を上げさせようとかそういうことだけでなく、とにかくやたら子供を構いたがるようになったのだ。それは、親が世の中を背負って子供の前に立ちはだかっているということであり、はんぶん家族の外の存在になってしまっている、ということだ。だから、子供に反発される。
そうやって家族の自給自足の文化というか、自己完結性を失っていった。
もともと家族は、国からの上意下達のネットワークシステムを押しとどめる緩衝地帯として機能していたはずである。西洋ではキリスト教がその役割をしてくれているが、この国にはそういうものがなく、終戦直後の家族は丸裸になってしまった。
団塊世代の子供たちは、大人や国には反発したが、アメリカ文化や、テレビ・ラジオ・雑誌などのネットワーク情報に対してはナイーブだった。それは、家族が関係性を自給自足する完結性を喪失していたということを意味する。
戦後の家族においては、文化を自給自足しようとする心が育たなかった。
地方の人口が都会に吸収されてしまったといっても、地方自身にも、文化を自給自足しようとする心が希薄になっていたはずである。
日本列島全体が、文化を自給自足しようとする心を放棄して、外からの情報に対して丸裸になってしまっていた。
団塊以降の世代による「ニューファミリー」は、さらに情報に対してナイーブで、どの家族も同じような暮らし方をしていった。人々はもう、ネットワークの関係の中でしか生きられなくなっていった。
「みんなと同じでなければならない」と思ってしまう強迫観念は、べつに日本の伝統でもなんでもなく、ネットワークにナイーブになってしまったたんなる戦後文化にすぎない。
団塊世代が親や国に反抗するというかたちで自分をプレゼンテーションしていったとしたら、いまどきの子供は、いい子であることを親や教師にプレゼンテーションしてゆく。どちらだってたいして違いない。関係性の希薄な家族や集団の中で生きてきたのだ。つまり、家族が、関係性という文化を自給自足してこなかった。
戦後の町や村であれ家族であれ、関係性の希薄な集団になってしまったから崩壊していったのではないだろうか。
町や村や家族であることそれ自体は否定できない。われわれは「共同体(国家)」から下りてくるネットワークによる支配の圧力を受けて暮らしている。それに抗して「今ここ」でこの生を完結させる体験は必要だ。ほんらいはそのための町であり村であり家族なのだ。その「今ここ」でこの生を完結させる体験があって、はじめて支配のネットワークに耐えることができる。
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もともと個人も町も、文化を自給自足してゆこうとする無意識を持っている。それは、「今ここ」でこの生を完結させようとする衝動でもある。
われわれは、死んだら天国に行くのか。極楽浄土に行くのか。それが信じられる人は信じればいい。しかしそれが死の恐怖を紛らわせるための方便として生み出されてきたイメージにすぎないという疑いを、多くのものがどこかしらで抱いている。
ことに現代社会はそういう既成の宗教の教えが通じにくくなっているし、そういう教えよりももっと安直な「スピリチュアル」という「生まれ変わり」の教えが流行ったりもしている。つまり、さらに不安が増して、もう天国や極楽浄土のイメージだけではすまない、ということだろうか。
もしも原始人が死を怖がっていなかったとしたら、そこではきっと「天国」も「極楽浄土」も「生まれ変わり」も語られていなかっただろう。
ネアンデルタール人がなぜ命知らずの狩に夢中になってゆくことができたかといえば、死ぬことなんか怖くなかったからだろう。だいたい死ぬことが怖かったら、ろくな文明も持たない原始人の身で氷河期の極北の地に住み着くという無謀なことなんかしない。
人類の戦争は8千年前ころからはじまったといわれているが、死ぬことが怖かったら、けっしてそんなことはしない。どちらが死ぬかわからないのが戦争である。現代の戦争だって、死ぬことなんか怖くない、という建前の上で起こっている。そういう建前をつくらなければ、戦争なんかできない。
人類は、死ぬことなんか怖くなかったから、戦争をはじめたのだ。
この国の古代以前は、死んだら何もない「黄泉の国」に行くと信じられていた。
天国も極楽浄土も生まれ変わりもない、とイメージされていた。それはつまり、死ぬことなんか怖くなかった、ということだ。
彼らはなぜ死ぬのが怖くなかったのか。そしてなぜ、天国や極楽浄土のイメージを持たなかったのか。
彼らは、「今ここ」でこの生を完結させてしまう心のタッチを持っていた。言いかえれば、いつ死んでもいい心構えで生きていた。
人類史上もっとも厳しい条件のもとで生きていたネアンデルタール人は、そういう心を待たなければ生きていられなかった。人なんかかんたんに死んでしまう環境だったのである。
人間は、根源においては、「今ここ」でこの生を完結させようとして存在している。そういう瞬間瞬間を生きようとしている。
だからわれわれだって、しんそこ楽しいことを経験して満足すれば、思わず「もう死んでもいい」とつぶやいてしまう。
死は、「今ここ」にある……人間は、根源において、死に対する親密さを持っている。それはつまり、「今ここ」でこの生を完結させようとしているからであり、完結させることができれば、死んでもいいのだ。
町や個人が「今ここ」で文化を自給自足しようとしているとはつまり、人間は「今ここ」でこの生を完結させようとしているということであり、人間は根源において「今ここ=死」に対する親密な無意識を持っている、ということだ。
だから、未来に向かう「ネットワーク」よりも、つい「今ここ」の「結婚」に飛び込んでいってしまう、ということだ。
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社会学者は、幸せかどうかという物差しで語りたがる。社会学とは、幸せについて考える学問なのか。
しかし人間はそれだけではすまない。幸せになっても、集団(社会)は活性化しない。むしろ、そこから停滞がはじまる。人間の集団は、幸せを共有するのではなく、「今ここ」の目の前の人や世界にときめいてゆく心を共有してゆくことによって活性化する。だから集団は、閉じようとする無意識を持っている。それが、文化を自給自足する、ということだ。
人と人がなぜときめき合うことができるかといえば、人間存在の根源のかたちが「嘆き」の上に成り立っているからだ。生きてあることはしんどいことだ。だから江戸時代の農民は、「みんなで貧乏しよう」と言った。それは、生きてあることそれ自体の「嘆き」を共有し、「今ここ」で閉じててゆこうとする態度だった。これが、人間の集団の基礎的普遍的なかたちであり、ネアンデルタールの集団だってこのようにして成り立っていた。
誰だって人生の最後には、そうした根源に遡行してゆく。そしてそれは、その生きてあることの不幸=嘆きとどう和解し「今ここ」に閉じてゆくことができるかということであり、そういう勝負の場に立たされる。
どんなに現在の家族制度が不合理不自然なものであったとしても、多くの人が「ネットワーク」として広がってゆくことをやめて、「今ここ」の結婚に閉じていってしまうのだ。
そうやって「今ここ」に閉じてゆくことの方が、少なくとも「ネットワーク」として広がってゆこうとするよりずっと自然だし、生きてあることのカタルシスは深いのだ。なんのかのといっても、「もう死んでもいい」というこの生の完結性と快楽は、「今ここ」に閉じてゆくことによってしか得られない。
老後であれば、べつの意味でなおさらその問題が浮かび上がる。いつ死んでしまうかもわからない身なのだから、「今ここ」で閉じてゆこう、「今ここ」でこの生を完結させようとする衝動はとうぜん切実になってくる。そして、この衝動において人間は人間たりえているのだ。
老後の問題は、「どのようにして幸せに生きるか」としてではなく、「どのようにして<もういつ死んでもいい>という心境になるか」としてある。そしてそれこそが、生きてあることのもっとも深いカタルシスでもある。
上野千鶴子さん、あなたが、プレゼンテーションしたがりの田舎っぺ根性がどうしても消せないのなら、そうやってネットワークの海を泳いでゆけばいい。そういうことやっていないと生きた心地がしないのなら、そうやって生きてゆくしかないだろう。それも人生だ。
しかしいつかあなたが動くこともままならなくなって介護施設に入ったとき、昔の仲間が昔通り頻繁に訪れてきてくれるかどうかはわからない。あなたはプレゼンテーションし合う関係を結んできただけで、たがいの存在そのものにときめき合う関係なんか結んでこなかった。「生きていてくれるだけでいい」と願われるほどの切実な関係を、果たして結んできたか。
そうして、プレゼンテーションできないあなたを、介護施設のまわりの人々は、どんな目で見るのだろう。いや、あなた自身が、プレゼンテーションする能力もネットワークも失った身になって、どのようにしてみずからの生と和解してゆくのか。もしかしたらほんとうの老後は、ここからはじまるのかもしれないのですよ。
ともあれ、「おひとりさまの老後」の方が幸せだ、などと言ってもせんない話である。老後が幸せであるはずなんかないのだ。体も動かなくなり、どんどん孤独になってゆくのが、ほんとうの老後なのだ。その不幸とどう和解してゆけるかとして、「老後」という問題があるのだ。野垂れ死にしたってかまわないという覚悟を持てなければ、老後を生きることはできないし、もしかしたらそこでこそ人間のもっとも深いカタルシスが体験されているのかもしれない。
ほんとうの「老後」に、「ネットワーク」などないのだ。ただもう、「今ここ」で閉じてこの生を完結させることができるか、ということが試されるばかりだ。
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