ネアンデルタール人は、集団で大型草食獣の狩をしていた。
同じころのアフリカのホモ・サピエンスは家族的小集団で移動生活をしており、彼らの狩は、個人または少人数でウサギとか土豚などの小動物を捕まえるのがメインだった。そのかわり、川の魚の漁もすでに始めていた。
極寒の地で暮らすネアンデルタール人にはあくまで脂肪の乗った大型草食獣の肉が必要で、川の魚など見向きもしなかった。
牛や鹿の群れは、窪地に追い込んでまとめて仕留めたりした。彼らは、そういうチームワークを持っていた。
人類のチームワークは、ネアンデルタール人のところから発達していった。
チームワークの意識は、今でも西洋人がもっとも高い。たとえば、彼らがつくったオーケストラのシンフォニーほど高度で複雑なチームワークの文化もない。
みんなが別々のことをしながら、それぞれ連携し、ひとつの全体をつくってゆく。これは、ネアンデルタール人の狩の集団が、それぞれの役割を分担しながら大型草食獣を窪地に追い込んでゆくチームワークからはじまった伝統であるのだろう。
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なぜネアンデルタール人はそんな高度なチームワークをつくり上げてゆくことができたのだろう。
結論から先に言ってしまえば、「嘆き」の上に成り立った集団だったからだ。
まず彼らは、厳しい寒さの中で暮らしていた。そしてこの寒さは、狩の能力のあるたくましい男ほど耐久力があるというわけではなかった。普通の女の方が弱音を吐かない、という傾向があるくらいだった。だから、腕力があってたくましい男に「強い」という立場があるわけではなかった。彼らの暮らしは、むしろ女に率いられていた。弱音を吐かないものが先頭に立って率いてゆくのが、いちばん自然であろう。自然にそうなってゆく。
そして男たちは、頑丈な石器の銛で大型草食獣に肉弾戦をしかけてゆくという命知らずの狩をしていた。窪地に追い込んでも、最後は肉弾戦で息の根を止めなければならない。そのために骨折などのけがはしょっちゅうで、命を落とすこともまれではなかった。
彼らはなぜそんな危険な狩りに夢中になっていったのだろう。もちろん脂肪分の多い大型草食獣の肉が必要だったということもあるが、女たちが、狩に傷ついたり疲れ果てたりしている男ほどやさしく寄り添っていったからだ。女たちは、そういう男にセックスアピールを感じていった。人類の恋心=セックスアピールの起源は、ここにある。
女たちは、男のたくましさにセックスアピールを感じたのではない、生きてあることの嘆きを共有できる男にセックスアピールを感じた。
女たちは弱音は吐かなかったが、生きてあることの嘆きは男よりも深かった。
まあ女は、毎月のさわりに悩まされながら大人になってゆくのだから、それだけでもう、男より生きてあることの嘆きを深くしている。
そうしてネアンデルタールの女たちは、次々に子供を産んでゆかなければならないという仕事があった。寒さのために多くの乳幼児が死んでゆく環境だったから、女が次々に産んでゆかなければ集団の人口は維持できなかった。
女にとって、自分の産んだ子が死んでゆくことほど悲しいこともないだろう。その嘆きを癒すために埋葬という習俗が生まれてきたのだが、女がそれほど多くの嘆きと苦労を引き受けているのだから、セックスの相手を女が選ぶことに異議を唱えることができる男などいなかった。女たちは、そのときの気分で、不特定多数の男とセックスしていた。そんなわけで女たちの産む子の父親は誰かわからなかった。つまり女たちは、わが子の死に対するかなしみをひとりで背負わなければならなかった。
女たちの「嘆き」は深かった。
だからこそ、「嘆き」を共有できる男をセックスの相手に選んだ。
そうして男も、積極的に「嘆き」の渦中に飛び込んでいった。
まあ、人間という存在においては、二本の足で立っているということ自体が「嘆き」の上に成り立った姿勢であり、「嘆き」を共有してゆくというかたちでその姿勢が生まれ常態化していったのだ。
人と人は、根源的に「嘆き」を共有するかたちで存在している。そして「嘆き」を共有しているから、無際限に大きな集団になってしまうのだ。好きで大きな集団になるなどということはない。集団に対する「嘆き」を共有してゆくのが人間存在のかたちだから、無際限に大きくなってしまうのだ。
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人間は、「嘆き」を共有するかたちでときめき合ってゆく。これが、人間存在の根源のかたちであり、この関係を人類史上もっともラディカルにダイナミックに実現していったのがネアンデルタールの集団だった。
彼らは「嘆き」を共有していたから、深くときめき合った。この関係から、彼らのダイナミックのチームワークが生まれていった。
チームワークは、全体に対する意識をみんなで共有してゆくことと、人と人それぞれが連携してゆくことによって成り立つ。つまりそれは、誰もが自分を捨てて他者とときめき合っているところから生まれてくる。
命知らずの狩は、文字通り自分を捨てている。誰もが自分を捨ててときめき合っていったのだ。ネアンデルタールの狩こそ、もっともラディカルでダイナミックなチームワークだった。人類のチームワークの基礎は、ここで体験されていた。ここから、現代のオーケストラのシンフォニーに育っていった。
彼らにとって自分を意識することは自分の身体を意識することであり、それは寒さを意識することだった。彼らは、そんな自分を忘れて人や世界にときめいていないと生きられなかった。人類が極寒の地に住み着いてゆくということは、この心の動きを獲得していったということでもあった。ここから、彼らの狩のチームワークが生まれてきた。
世の人類学者が言うような、未来を計画する知能を持ったからとか、そういうことではない。チームワークとは、人とときめき合う行為なのだ。そうして、そこに全体としてのひとつの世界が生起していることに気づいてゆくことでもあった。そのとき彼らは、未来を計画したのではない。「今ここ」にときめいてゆくカタルシス(快楽)を体験していたのだ。
こうすればこうなる、というような予測くらい猿でもしている。人間のチームワークが猿のレベルを超えて高度になっていったのは、猿よりももっと深く世界や他者にときめく体験をしていったからだ。
未来を計画する知能だけでは、高度なチームワークは生まれてこない。オーケストラのメンバーは人より未来を計画する能力の高い人たちかといえば、べつにそんなことではない。未来なんか、すでに楽譜に全部書いてある。彼らは、未来を計画しているのではなく、まわりの音を感じ全体の音に気づいてゆく感性に優れた人たちであり、そういう「今ここ」にときめいてゆく心の動きの上にそのチームワークが成り立っているのだ。
「未来に対する計画力」といえば人間性が語れると思っている人類学者たちの安直な思考には、ほんとにうんざりさせられる。
人間的な高度なチームワークを成り立たせているのは、自分を忘れて人にときめき世界にときめいてゆく心の動きなのだ。ネアンデルタールは、そういう心の動きが豊かに生まれてくる条件の中で生きていたから、高度なチームプワークの狩を覚えていったのだ。
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そしてこのことは、現代社会の問題でもあるはずだ。
われわれは今、そういう人と人の関係を生きているだろうか。
東浩紀氏や上野千鶴子氏は、「ネットワーク」の関係が新しい時代の人と人の関係になる、と言っておられる。
そうだろうか。
ネットワークによって、高度なチームワークや人と人がときめき合う関係が生まれてくるだろうか。
町おこしや村おこしであれ、会社であれ、ワールドカップのサッカーチームであれ、ようするにネットワークではなく、ひとつのまとまった「サークル」としてチームワークやときめき合う人と人の関係をつくってゆけるかという問題であるはずだ。
まあ上野氏の場合、家族なんかいらない、ネットワークで生きればいい、という立場らしいが、果たしてそれで問題が解決するだろうか。
この前上野氏は、自身のツイッターのページで、おいしいフランス料理の店がどうとかと、はしゃぎながら語っておられた。
田舎っぺだなあ、どこかの程度の低い芸能人じゃあるまいし、学問をする人がそんなことをうれしそうに語るかなあ、と僕は思った。氏のページは、こういうたぐいのツイートのオンパレードである。そんなブサイクな虚勢をさらしてしまうのが、プレゼンテーションの上に成り立った「ネットワーク」という関係なのだ。
もしこれが顔見知りの「サークル」の関係なら、上野氏がそういうおしゃれでリッチな店にふだんから出入りしているであろうことはみんな知っているからあえてそんなPRなんかする必要ないし、そんな店に行きたくても行けない人たちのことを思えば、上野氏だってそう不用意に口には出せない。広く公的なページだから、行きたくても行けない人たちはいっぱい見ているのである。べつに貧乏でなくても、鹿児島の離島に住んでいれば、行きたくても行けないだろう。また、上野氏よりももっとセンスがあってリッチな都会育ちの人だって見ている。それでもそうやってブサイクなプレゼンテーションをしてしまうのが、「ネットワーク」という関係である。そうして本人はそのぶざまさに気づいていないし、まわりだってどうせ行きずりの関係だからと生温かく見過ごしてやる。そうやって、ひとまず仲のよい関係がつくられている。
仲はよいが、しかし、ときめき合っているわけではない。ここでは、上野氏も読者も、「他者に気づく」という心の動きが起きていない。これが、「ネットワーク」という関係なのだ。他者に気づいていないから、フランス料理のお店がどうちゃらこうちゃらと田舎っぺ丸出しの自己PRを平気でしてしまうのだ。
上野氏は、独身の恵まれた立場にあるインテリ女性としてずっとネットワーク社会で生きてきた人である。だから、人に対するときめきも緊張感もない。そういうぶざまな人間がリードして無知な大衆がぞろぞろついてゆくという構造の社会が、そんなにいい社会か。
まあ残念ながら、この国の「戦後」という時代は、そういう傾向を多分に含んで推移してきた。われわれは、まだそんなことを繰り返してゆきたいのか。上野氏は、そういう時代からもたらされる既得権益を、なおも守ってゆきたいらしい。自分たちは何か新しいことを言っているつもりだろうが、「ネットワーク」なんて、すでに耐性疲労を起こしている概念というかビジョンなのである。
東浩紀氏のツイッターだって、同じようにあか抜けない自己PRが牛のよだれのようにとめどなく垂れ流されている。
戦後の60数年は、まさに彼らのいう「ネットワーク」という構造をつくりながら、人と人がときめき合う関係を失ってきたのである。
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