ネアンデルタール人クロマニヨン人は、どのように「死」をイメージしていたのだろうか。
彼らがわれわれ現代人よりも死を怖がっていたということはあるまい。
彼らにとって死は、とても身近なものだった。半分以上の子供が乳幼児の段階で死んでいったし、大人の寿命だって平均して30数年だったし、お産や狩で命を落とすものも少なくなかった。
また、原始人が氷河期の北ヨーロッパという極寒の空の下で暮らしていたのだから、いったん病気になれば容赦なく体力を奪われ、誰もが死を覚悟するほかなかった。
誰もが死と背中合わせで生きていた。
ネアンデルタール人の妊娠期間は現代人よりも1カ月近く長かった、といわれている。それは、その環境の厳しさのために、月足らずで生まれてきた子供はすぐに死んでしまった、ということを意味する。10か月で生まれてきても、生き残ることができなかったのだ。そうして、妊娠期間の長い体質の女ほど、生き残ることのできる子供を産むことに成功した。
そうやってしだいに女の妊娠期間が長くなってゆき、胎盤のかたちだって変形していった。
しかし出産の時期が遅れるということは、それだけ母体の苦痛や危険も大きいということを意味する。彼らの出産は命がけだった。それでも、現代の女よりはるかに多産だった。そうでなければ、種として生き残ることはできない。彼らが氷河期の北ヨーロッパで50万年のあいだ生き残っていったのは、彼らが多産だったからだ。
死をいとわない生き方をしなければ、ろくな文明を持たない原始人がそんな環境の下を生き残ってゆくことなんかできない。
女たちだけじゃない。男たちだって、大型草食獣に対する死をいとわない狩を挑んでいった。彼らがそこで骨折したり命を落としたりすることは日常茶飯のことだった。
ネアンデルタール人クロマニヨン人の社会は、「死に対する親密さ」が共有されている社会だった。そういう意識で暮らしていなければ生き残ることのできない社会だった。
そういうところから、「埋葬」という習俗が生まれてきた。それは、死に対する親密さとかなしみから生まれてきた。
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やまとことばの「泣(な)く」の「な」は、「なれる」とか「なつく」とか「なる」の「な」で、つまりそれは「親しみ」をあらわす音韻で、原始人の死に対する親しみとかなしみから生まれてきた言葉なのだ。
死者の死をかなしんで泣くことは、それだけ死者に対する親しみの深さでもある。「泣く」という行為は、深い「親しみ」の感情から生まれてくる。
赤ん坊が空腹を訴えて泣くことだって、空腹でない状態に対する親しみを持っているからであり、それはつまり、「死んだら楽になれる」という感情にほかならない。空腹を感じないのは、死んでいる状態だろう。生き物は根源において、この生から解き放たれた状態に対するあこがれを持っているのであり、因果なことにそのあこがれがあるから物を食うという行為をする。死に対する親しみが、生き物を生かしている。
泣くことは、死に対する親しみを引き寄せる行為である。だから、泣き切ってさっぱりする、という状態が生まれてくる。そのとき人は、もう死んでもいい、という状態になるのだ。
ネアンデルタール人クロマニヨン人が氷河期の極寒の北ヨーロッパで生き残っていったことにしても、死に対する親しみが生きることになる、という逆説によるのであり、それが生き物の生の根源のかたちだったからだ。
人間の「泣く」という行為は、氷河期の北ヨーロッパに住み着いていったネアンデルタール人とその祖先たちによって本格化してきたのかもしれない。
人間の赤ん坊が泣くのは、みずからの生き物としての無力さをどんな生き物よりもひしひしと感じているからだ。そして、その思いは、極寒の北ヨーロッパに産み落とされたネアンデルタールの赤ん坊こそ、人類史上もっともみずからの無力さを嘆いている存在だったに違いない。人類の「泣く」という行為の起源は、おそらくここにある。
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われわれ現代人が死を怖がるのは、医療が発達してかんたんには死ななくなり、死に対する切迫感も親近感もなくなってしまったからだろう。
そして大昔ならとっくに死んでいてもいいはずの人がまだ生きているということが当たり前のようになったのだが、そういう余分な人生をどのように生きればいいのかという社会文化も成熟していない。今のところそれはもう、個人の資質や教養で解決してゆくしかない。
いや、死に対する親密さや切迫感がなくなったとともにそういう文化も失った、というべきだろうか。
死と背中合わせで生きていた原始人は、死に対する親密な文化を持っていた。
死んだら楽になれるのだから、ひとまず生きてあることのこの「嘆き」を受け入れて暮らしてゆく、という文化。もしも原始人がそのように生きていたとしたら、彼らには、天国や極楽浄土や生まれ変わりという世界観も持つ必要がなかった。
ただもう、生まれてきてしまったことの嘆きをどう生きるか、という問題があっただけであり、そういう「嘆き」を共有してゆくところから言葉をはじめとする人と人の関係の文化が生まれていったのだ。
そして現代社会において人と人がときめき合うという関係が起きるときだって、その意識の底では、おたがいに生き物として、生まれてきてしまったことの「嘆き」がじつは共有されているのだ。「嘆き」を持っている人ほど深く人にときめくことのできる資質をそなえているのであり、現代人はそういう「嘆き」を喪失しているから「仲良くする」という形式にこだわる。
この生はすばらしい、という価値意識を共有してゆこうとするのは、「つまらない生」のイメージがあるからだろう。ほんとうは誰だって生まれてきてしまったことの「嘆き」が心の底にあるから、「この生はすばらしい」とか「誰もがかけがえのない存在である」ということを確認し共有したくなるのだろう。
現代人はなぜそのようにこの生の価値を共有してゆこうとするのかといえば、死の恐怖を共有しているからだろう。べつにこの生に価値があるからではない。そんなことは真実でもなんでもない、みんながそう思いたいからそういうことにしているだけのこと、心の底では誰もがこの生に対する「嘆き」を抱えているし、この世にかけがえのない存在の人間なんかいないということこそ真実なのだ。
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とりあえずみんな死んでしまうのだ。死んでしまう存在が「かけがえのない存在」でなんかあるものか。無意味な存在として生きている人のほうがおまえらよりずっと魅力的だし、おまえらよりはるかにこの生の真実を知っている。
なにがなんでも生きのびたい人間は、そういう「生命賛歌」という価値意識を共有できるだろう。しかし、死にたい人とそれを共有することなんかできないし、共有できないのは真実ではないからだ。真実ではないから、説得できない。おまえだって心の底には生きてあることの「嘆き」を抱えているではないか、と見透かされている。
身動きできないであとはもう死んでゆくしかないだけの存在の人に、いったいどんな「この生のすばらしさ」があるというのか。そんな健常者の勝手な理屈を彼らに押し付け、彼らから生き物としてのこの生に対する「嘆き」を奪って、よく平気な顔をしていられるものだ。何が悲しくて彼らが、おまえらのそのグロテスクな感情や思想を共有しなければならないのか。
死んでゆく人に対して、死んだら楽になれるという生き物としての死に対する親密さを奪って、よく平気でいられるものだ。
共同体の制度性にまみれた自分たちの「生き延びたい」というそのスケベ根性で老人介護やホスピスを語り、人間性の根源を語られても困るのだ。
安直に「生命賛歌」などするなよ。
死に対する親密さを共有していない現代社会の死んでゆく人たちは、けっきょく個人の教養と資質でその問題を解決してゆかねばならない。
まあ誰だっていよいよ死ぬという段階になれば、「ひとり」になり、死に対する親密さを引き寄せるのかもしれないのだが、人類はかつてそういう意識を共有している時代があった、ということだけは認識しておいても損はないだろう。
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