誰もが無意識として他者の存在そのものに対する自然なときめきがあれば、その社会においては、現代人のように、愛されたがったり、「自分は愛されているか」と問う必要はない。
どうして愛されたがるのか。人と人は「すでに」愛し合っている、という前提のない社会だかろう。愛されるためには自分をプレゼンテーションしてコミュニケーションを持たねばならない、という前提の社会だからだろう。
でも、魅力的な人は、すでに愛され見つめられているから、プレゼンテーションなんかしてゆく必要はないし、愛されたがってもいない。「自分は愛されているか」と問う必要はない。
なぜそんなに「自分」にこだわるのか。「すでに愛されている」という前提を持っていないから、自分が空虚なのだろうか。何はともあれ「愛されている」ということで自分を満たしたい。どうやらわれわれは、そういう社会で生きているらしい。
みんなが「すでに愛されている」という立場を持っていれば、誰の「自分」もすでに満たされてあるのだから、誰も「自分」を問う必要はない。
そして「すでに愛されている自分」は幸せかといえば、そうともいえない。
人から愛されるとか見られるということは、鬱陶しいことだ。だから人間は「衣装」を着るようになった。その鬱陶しさは、直立二足歩行をはじめた原初の人類が密集した群れの中で体をぶつけ合って行動していたときの鬱陶しさに通じている。
生き物にとっての「自分(の身体)」は、鬱陶しい対象として機能している。したがって生き物は「生まれてきてよかった」などとは思っていないし、したがって「種族維持の本能」などというものも持っていない。
自然として「自分(の身体)」なんか鬱陶しいばかりなのだ。この鬱陶しさから逃れ解放されてゆく行為として、「生きる」といういとなみがある。
愛されて「自分」に気づかされることなんか、鬱陶しいことなのだ。魅力的な人は、そういう鬱陶しさを知っている。だから、愛されようとなんかしないし、愛されようとなんかしないから魅力的なのだ。セックスアピールの文化はそういうところから生まれてきたのだし、人と人の関係の文化の基礎はそういうところにある。
町をあるく衣装のどのような着こなしが魅力的かということだって、そういうセックスアピールの文化であり、それは、他者に見られるためではなく、「すでに見られている」存在の魅力的な人がその他者の視線をどう処理するかという作法として生まれてくる。おしゃれとは「ディスコミュニケーション」なのである。
おしゃれな人は、見られたがっているのではなく、「すでに見られている」存在なのだ。そういうところに立って、おしゃれな着こなしの文化が生まれてくる。つまり、愛されたがっている存在ではなく、「すでに愛されている」存在なのだ。そうしてこれが、人間存在の根源的なかたちなのである。もっともおしゃれな人は、もっとも原始人的なのである。
「愛されたがっている」とか、「愛されることによって自分を確認してゆく」なんて、この社会のたんなる制度的な観念であり、愛されたことも見つめられたこともないブサイクな人間の心の動きにすぎない。そしてこの社会の制度がそういう仕組みになっているのであれば、そういうブサイクな人間がオピニオンリーダーになって社会の通念がつくられていっているのが、人類史における「現在」という状況であるのかもしれない。
内田樹先生や上野千鶴子さんのようなブ男やブスがのさばってその論理を押しつけてこられても、われわれとしては困るわけですよ。
愛されていることを自慢しても、それはあなたたちが魅力的であることの証にはならない。ほんとに魅力的な人は、愛されていることを鬱陶しがっている。
オスの求愛行動を受けているメスのようにさ。
そして現代社会の病理はまさに、あなたたちのように「愛されたがっている」ことにあり、「愛されることの鬱陶しさを知らない」ことにあり、「愛されることの鬱陶しさを処理する文化を失っている」ことにある。
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愛されようとしてはならない。すでに愛されている、という場に立てなければならない。その愛されていることの鬱陶しさからこの生がはじまる。
人が「町」や「村」や「学校」や「職場」や「サークル」や「親族」や「家族」といった小さな単位の集団をつくろうとするのは、「すでに愛されている」という場に立つことのできる集団を必要としているからだろう。
ネアンデルタール人クロマニヨン人は150人から200人ていどの集団の社会をつくっていた。それくらいなら誰もが顔見知りだから、「すでに愛されている」という前提を共有して暮らしてゆける。
そこから氷河期が明けて都市国家が生まれてきたとき、集団の規模が大きすぎ、そして空間的にも広がりすぎて、そういう前提を持てなくなってしまった。見ず知らずの人間と「すでに愛し合っている」という前提を共有しながら向き合うことは、けっしてかんたんではない。それでも、その都市国家という集団をいとなむためにはおたがい無関心であったり反発し合っているわけにはいかない。たがいの合意を形成してゆかねばならない。つまり、「すでに愛し合っている」という合意を。
そうやって、愛されようとする心の動きが生まれてきた。愛されようと願うことは、「すでに愛し合っている」関係の場に立ちたい、ということだ。
共同体(国家)においては、「すでに愛し合っている」という前提が存在していない。だから、愛されようとする願いが生まれてくる。共同体(国家)をみずからの存在のアイデンティティにしようとするなら、愛されたいと願い愛されようとプレゼンテーションして生きてゆくほかない。内田樹先生や上野千鶴子さんは、そういう思考習性で生きている。
彼らは、「すでに愛し合っている」という関係を知らない。他者との関係においてそういう前提を持っていないから、自分をプレゼンテーションしたがるのだ。たぶん、幼児体験として、そういう関係を知ることに失敗したのだろう。
誰もがそういう関係を知らずに愛されたいと願うだけなら、共同体(国家)の運営にこんな都合のいいことはない。
しかし人は、存在の根源において「すでに愛し合っている」という前提を持ってしまっており、どうしてもそういう愛されようとしなくてもすむ関係をつくろうとしてしまう。そのようにして町や村や家族という小さなサークル集団が生まれてくる。
町にファッションの流行が生まれてくることだって、人間が「すでに愛し合っている」という前提を持ってしまっていることの証しなのだ。
人間は、仲良くしようとはしない、「すでに」仲が良いのだ。「すでに仲がよい」ことの鬱陶しさから解放されてゆこうするのが人間の基礎的ないとなみであり、そのやりくりの行為として、言葉が生まれ、衣装が生まれてきた。そのやりくりの行為として、町や村や家族という小さな集団が機能している。
われわれは、日々、共同体の制度性による「愛される努力をせよ」というプレッシャーにさらされながらも、それでもその「すでに愛し合っている」という関係性の中に身を置こうとやりくりをしながら生きている。
若者が流行のファッションをまとうとき、自分をプレゼンテーションしているようで、どこしらに、そんなことよりも「街の風景になる」ことの方が大切だ、という意識がはたらいている。その意識がなければ、ファッションの流行など生まれてこない。彼らは、「すでに愛し合っている」存在として、街の風景になりたいのだ。そこのところ、内田先生や上野さんにはわからない。
共同体(国家)が存在することの病理として、愛されようとプレゼンテーションしてゆく習性の旺盛な人間はどうしてもあらわれてきて、そういう習性を止揚してゆくことがこの社会の合意や正義になってしまいがちであるのだが、それでも人は、「すでに愛されている」という前提に立って、関係を「ディスコミュニケート」してゆくのであり、そこから人間的な文化や快楽が生まれてくる。
内田樹先生や上野千鶴子さんのようなブ男とブスのプレゼンテーションの論理を振り回されても、人間はそれだけではすまないのである。彼らは、共同体の制度性に毒されているだけで、人間的な文化や快楽の根源が何もわかっていない。そういうところに遡行してゆく想像力や思考力は、彼らにはない。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
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