生き物は、「生命賛歌」でこの生をいとなんでいるのではない。彼らはべつに、「生まれてきてよかった」などとは思っていない。そんな思い込みは、現代社会のたんなる制度性にすぎない。
坂道に置かれた石ころは、転がりそうな危うさの中に置かれているから転がってゆく。それと同じことで、この生だって、危うさの中に置かれてあることの「嘆き」にせかされて動いてゆくのだ。
生きてあることの「嘆き」が生き物を生かしている。だからわれわれは、「死んだら楽になれる」と思っていても、死ぬことができない。その「死んだら楽になれる」という「嘆き」自体が、生きるいとなみの契機になっているからだ。
生き物は、動こう(生きよう)として動いて(生きて)いるのではない。死を知らないから生きているだけであり、生きてはいられないから生きているのだ。生きてゆこうとしているのではない。
生き物の根源に、そんな「作為」などはたらいていない。したがって「種族維持の本能」などというはたらきもない。そんなパラダイムで語られている生物学や人類学など、ぜんぶアウトだ。
人間だって、根源的には死を知っているわけではない。死を知らない生き物が、生きようとなんかするはずがない。死を知らないのだから、生きるということすら知らない。ただもう「いまここ」が現前していることに気づいているだけだ。坂道を転がっていきそうな「いまここ」に。
われわれは、命のはたらきが生きてゆくような仕組みになっているから生きているだけであって、生きてゆこうとしているのではない。生きてゆくような仕組みになっているから、生きてゆこうと思うだけのこと。
生きてゆこうと思うことより、「生きてゆくような仕組みになっている」ということの方が、ずっと根源的なのだ。その根源に遡行してゆくことをやめて、「生きてゆこうとしているから生きている」だとか「種族維持の本能」だとか、とくに西洋人たちはそんな合唱ばかりしている。
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コミュニケーションすること、すなわち伝達すること、すなわち説得すること、それが人と人の関係性の本質だと西洋人は思っている。それは、生き物は生きようとする「作為」によって生きている、というのと同じ思考回路だ。この生は、そういう作為性の上に成り立っているのではない。坂道に置かれた石ころとして存在しているから生きてあるのだ。そういう生きてあるほかないような存在の仕方をしているから生きてあるのだ。
この生の根源に、生きようとする衝動(=作為)などはたらいていない。
「関係する」とは「関係する」ということであって、べつに伝達することでも説得することでもない。伝達するとか説得するという作為性など、この社会の制度性を成り立たせている要素にすぎないのであって、関係性の本質でもなんでもない。
「関係する」とは、人と人が出会って向き合っている、ということ。その事態だけですでに「関係」が生じているのが雌雄を持った生き物の関係性の根源であり、そういう関係性にことに切実であるのが人間の人間たるゆえんなのだ。
人と人は、くっつきあいたい(コミュニケーション=伝達したい)のではない。くっつきあうのをやめ、向き合ってたがいの身体のあいだに横たわるコミュニケーション不能の「空間=すきま」を確保し共有してゆくこと、それを「関係する」という。
人間は、コミュニケーション不能の「空間=すきま」をつくり合う生き物だ。つまり、「くっつきあう=コミュニケーションする」という関係を解体して、「空間=すきま」をはさんで「向き合う=出会う」というかたちで関係してゆく生き物だ、ということ。いや生き物はみなそういう「ディスコミュニケーション」として関係しているのだが、人間はことにそういう関係であろうとする意識が強い。
人間は、道を歩いていたり電車の中とかで、体がぶつかり合うことをとてもいやがる。そのくせ、正面から抱きしめ合うことをする。それは、無意識の底にあるくっつきあうことに対する「拒否反応=居心地の悪さ」を契機にしてそこから心が大きく動いてゆくことのときめきがあるからだ。つまり、いったん坂道に置かれた石ころの状態になるのだ。そういう生きてあることの「危うさ=嘆き」が、生きてあることのよろこびをもたらしている。心は、そうやって動いてゆく。
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女は、男やペニスに対する「拒否反応=悪意」を持っている。みずからの身体に対する「拒否反応=悪意」も持っている。その「拒否反応=悪意」からセックスの快楽が生まれてくる。
女にとってのセックスの快楽は、悪意の対象であるペニスを、同じように悪意の対象であるみずからの膣の中に埋め込むことによって、悪意の対象であるみずからの身体に復讐してゆくことにある。そうやってみずからの身体を忘れて相手の身体ばかり感じることが快楽になっている。
みずからの身体(膣)を感じたいのなら、ペニスが入ってきているときにじっとしていようとするだろう。それが、みずからの身体(膣)を感じるためのもっとも有効な方法だ。しかし女は、そこを硬いペニスでひっかきまわされてよろこんでいる。
それは、ひとまず苦痛の体験である。その苦痛=嘆きが、快楽になる。そしてそれが苦痛=嘆きであるということは、女=メスは、セックスなんかしたがっていない、ということを意味する。だから鳥は、求愛行動をしなければならない。
人間の女が、べつにセックスしたいわけでもないのに男にちやほやされたがるのは、男に求愛行動をされないことに対するメスとしての不安があるからだろう。
男だって、人にちやほやされたがる人間はいくらでもいる。それは、ちやほやされたことがないという飢餓感に由来するのだろう。
ちやほやされるとは、ときめかれる、ということ。ときめかれたことのない人間は、自分がときめくということもできない。そうして、ちやほやしたりされたりという、くっつき合った関係を欲しがるようになる。さらには、支配(束縛)したりされたりという、くっつき合った関係を欲しがるようになる。
「伝達=コミュニケーション」というくっつき合った関係は、社会の制度的な関係である。それに対して男と女の関係というか、雌雄を持った生き物としての根源的な関係は、「空間=すきま」をはさんで「向き合う=出会う」という「断絶=ディスコミュニケーション」の関係の上に成り立っている。
抱きしめ合っても、そこに「断絶=ディスコミュニケーション」がはたらいているから深い快楽が生まれてくるのだ。
人と人は、くっつき合おうとしているのではない。くっつくことは、苦痛なのだ。鬱陶しいのだ。だから、くっつかないで、たがいの身体のあいだに「空間=すきま」をつくろうとする。たがいの連携プレーとして「空間=すきま」をつくってゆくことが、「関係する」という行為になっている。
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生き物が生きることに「目的」などない。したがって「種族維持の本能」もない。
それでもこの生は、坂道に置かれてある。心は、そこから動きはじめる。
そうやって、人と人は抱きしめ合う。アメーバは、障害物をよけて動いてゆく。生き物の根源には、くっつきあうことに対する拒否反応がはたらいている。その抱きしめ合うことに対する「拒否反応=違和感=嘆き」を契機にして、人の心はときめいてゆく。
くっつくことによって、より深くくっつくことの「拒否反応=違和感=嘆き」から解放される。そのとき、自分の身体のことを忘れて相手の身体ばかり感じているなら、それはもうくっついていることにならない。より深く相手の身体と「向き合っている=出会っている」という体験がされているだけである。
そのとき、くっつかれている自分の身体を感じてしまうのが気持ち悪さで、自分の身体を忘れて相手の身体ばかり感じているのが気持ちよさになる。
直立二足歩行という不自然で不安定な姿勢で行動している人間は、自分の身体に対する鬱陶しさがほかの生き物以上に強い。だからそのぶん自分の身体を忘れてしまう快感も深い。その鬱陶しさは、自分の身体を忘れてしまうことによって解消される。抱きしめ合えば、そういう快感がもたらされる。
それは、たがいにみずからの身体を確かめ合う行為ではない。たがいに忘れてしまい合うのだ。そうやってたがいにみずからの身体に対する鬱陶しさから解放されてゆくところに、人間的な快楽が生まれている。
この身体、この生は、鬱陶しいのだ。そこから人間的な快楽が生まれてくるのだし、その鬱陶しさの上にこの生が成り立っているのだ。
この生は、「生命賛歌」の上に成り立っているのではない。そんなことは、快楽を知らない人間のいうセリフだ。この生の鬱陶しさを知らない人間は、人にときめくこともない。
人にときめくことは、自分(の身体)を忘れてしまう体験だ。
この生(身体)は鬱陶しいものだから、人と人は、たがいに自分のことを忘れてときめき合う体験を持とうとする。ひとりでいて自分のことを忘れられるはずがない。われわれは、他者との関係によって、自分のことを忘れてゆく。他者は、自分を確かめるために存在するのではない、自分を忘れさせてくれる存在なのだ。
生き物は、この世に生まれてきてしまったことの「嘆き」を抱えて存在している。心はその「嘆き」から押し出されるようにして他者に気づき、他者との「関係」が生じるのであり、その「関係」によって「嘆き」から解放される。
われわれは、「他者に気づく」という体験をするような存在の仕方をさせられている。それは、「生命賛歌」によるのではない。生き物にとって「生命維持」とか「種族維持」というようなことはどうでもいいのだ。そんな本能などというものはない。そんな衝動が生き物を生かしているのではない。
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