「羞恥心」の水源


幕末のころにやってきた西洋の宣教師が「日本人はおそろしく怠惰な民族だ、明日のことを何も考えていないし公共心もない」と本国に報告したらしい。
おそらくそれは当たっている。それほどに原始的幼児的な民族だったのだ。意識が、時間的に空間的にも広がってゆかないで「今ここ」だけを生きている。意識が、環境世界に対して「開放状態」になっていない。「今ここ」で「気づく=焦点を結ぶ」心の動きが彼らを生かしていた。
日本列島では、「今ここ」のことを「ま」という。それは、過去と未来の「間=ま」である。「今ここ」の充実のことを「まったり」という。「た」は「充実」の語義。「たま」という言葉も、そういうニュアンスから生まれてきた。まあそれが、この国の伝統の無常観であり、西洋人からは「怠惰」と映っても仕方がない。
とはいえ、それでいてそのときすでに西洋人にも負けない高度な美意識や人と人の関係の作法を持っていたのも事実である。
美意識や人と人の関係の作法は、意識を環境世界に開放して得られる正義や真実によってではなく、「今ここ」で「気づく=焦点を結ぶ」心の動きから生まれ洗練してくる。少なくとも日本的なそれは、そうした原始的幼児的な心性を洗練させてきたものだった。
無常観とは、まるで井戸の中を覗き込むように意識が「今ここ」という「間=ま」に焦点を結んでゆくことである。



二本の足で立って歩きはじめたころの原初の人類は、猿よりも弱い猿だった。弱いから、生き延びることを思ってもせんないことだった。ひたすら「今ここ」に「気づく=焦点を結ぶ」心の動きで生きてきた。そうやって、一年中発情している猿になっていった。生き延びる能力がないのだから、その頃の人類はいろんなかたちでさっさと死んでいったが、それ以上にたくさん繁殖していった。
原初の人類が生き残ってきたのは、ほかの猿よりも生き延びる能力を獲得していったからではなく、ほかの猿よりもたくさん繁殖するようになっていったからだ。
二本の足で立ち上がることは、生き延びる能力を喪失することなのだ。それは、生き延びようと意識を未来に向かって「開放状態」にすることではなく、「今ここ」に「気づく=焦点を結ぶ」心の動きが起きてくる体験だった。
生き延びることなんかどうでもいい、今ここでセックスやりまくっていたい、という流儀で生き、たくさん死んでいったが、それ以上にたくさん繁殖していったのだ。
人類700万年の歴史の、最初の半分の時代は、身体も知能もとくに進化することもなかった。現在の人類学者は、この空白の数百万年のことをあまり考えることなく、最初から人間的な知能の進化がはじまったと考えている場合が多いのだが、じつはそうではないのだ。
二本の足で立ち上がった原初の人類は、弱い猿としてきていた。そしてその数百万年後に爆発的な進化がはじまったのは、弱い猿としてけんめいに生き延びようとしてきたからではなく、弱い猿として生き延びることなどなど忘れて(あきらめて)、「今ここ」に「気づく=焦点を結ぶ」心の動きを発達させてきたからだ。弱い猿が弱い猿なりの生き方をしてきたからだ。生き延びることに必死なら、とっくに四足歩行に戻っている。その方が生き延びるのに都合がいいのだもの。
そうやって苦労して生き延びることに必死な生き物になったから、進化がはじまったのではない。生き延びることなど忘れて、「今ここ」に「気づく=焦点を結ぶ」という心の動きを持ったことが、その後の人類史を爆発的な進化発展へと導いてゆくことになったのだ。
つまり幕末のころの日本人は、そういう原始的な心性の伝統を引き継いでいた、ということだ。



しかし今は、「恥の文化」とか、そういうことがいいたいのではない。武士道とかでよくいう自尊心による「恥の意識」と、古代の「はづかし=羞恥心」とは違う。羞恥心は、人類普遍の意識である。
人間が二本の足で立って歩いている猿であるかぎり、その心の動きの根源は、弱い生き物としてはたらいている。強い生き物として意識を世界に対して開放状態にしておくことが社会的な成功者になることや生き延びるための有効な方法であるとしても、魅力的な人や心(脳)のはたらきが深くて豊かな人は、弱い生き物としての「気づく=焦点を結ぶ」心の動きを持っている。羞恥心を持っている。
人間は根源において生き延びようとしているのではないし、霊魂も死後の世界のことも考えていない。生き延びることに熱心な社会的な成功者がそういうことにしているだけであり、人々がその言動に扇動されてしまっているだけのことだ。
なんのかのといっても、生き延びようとすることなど忘れた心のはたらきを持っている人の方が魅力的だし、深く豊かに脳をはたらかせているのだ。
生き延びようとする観念に覆われている社会であるとしても、人間的な豊かさや深さは、そんなことを忘れて「今ここ」に「気づく=焦点を結ぶ」心の動きにある。人類はそのようにして歴史をはじめたし、じつはいまでもそうなのだ。
人間の思考や美意識は、第一義的には、生き延びることや霊魂や死後の世界に向けられているのではない。「今ここ」の世界に向かってはたらいている。人間はもともと猿よりも弱い猿だったのであり、弱い生き物がそのことを意識しないで生きられるはずもない。シマウマが、「今ここ」でライオンが近づいてきていることに気づかないで、どうして生きられよう。
「今ここ」に気づいて(焦点を結んで)嘆いたりときめいたりしてゆくのが、弱い生き物の心の動きの原点だろう。そして人間が二本の足で立っている猿であるかぎり、それこそが究極の人間的な心の動きでもあるし、じつはその心の動きによって人間的な文化や文明が花開いていったのだ。



弱い生き物は、昔から「その日暮らし」であるにきまっている。そのことに社会的な勝者はあわれんだりさげすんだりしてみせるが、そのことにこそ人間的な心の豊かさや深さがあることを彼らは知らない。
それは、「これは……である」と知っていることではない。「なんだろう?」といぶかる心だ。
人と人が向き合い、たがいに「なんだろう?」といぶかり合っていることが、人間の二本の足で立つ姿勢を成り立たせている。人間が二本の足で立っていることは、世界をいぶかっている姿勢であって、世界を判断し納得している姿勢ではない。世界から「圧力」を受けながらいぶかっていることによって、二本の足で立っていられる。世界を判断し納得しているのなら、じっと立っている姿勢が楽で安定していて、そこから歩き出すということはしない。人間にとってじっと立っているのは、とても居心地が悪い。だから歩き出す。歩いている方が、その姿勢は安定する。
「わかる」とか「わかっている」という心(脳のはたらき)よりも、「なんだろう?」といぶかる心(脳のはたらき)方がより人間的で深く豊かなのだ。たぶん、本物の学者も芸術家も、そういう心(脳のはたらき)を深く豊かに持っている人たちなのだろう。
人と人は、いぶかる心で向き合っているから、二本の足で立つ姿勢を維持することができる。いぶかる心で向き合っているから、羞恥心が生まれてくる。世界や他者のことを判断し納得しているのなら、羞恥心など生まれてこない。
ほんものの学者も芸術家も、世界に対して羞恥心を持っている。それが、二本の足で立っている人間の普遍的な存在の仕方である。原始人は自然と一体化していた、などといってもらいたくない。一体化してしまったら、二本の足で立つ姿勢は成り立たない。



世界の真実を知ることは、そうむずかしいことでもない。こうだ、と思えばいいだけである。そう信じ込めばいいだけである。わかったこと以上のことを考えなければいいだけである。
だけど人間は、わかった瞬間に、その先の「なんだろう?」ということを考えてしまう。「なんだろう?」といぶかりながら生きている生き物なのだ。
「なんだろう?」と思わなければいいだけなのに、思ってしまう。「わかった」という範囲でやめてその先を思わなければ、わかっているのと同じなのだ。知らないことを持たなければ、知っているのと同じなのだ。
みんなして神を信じることは、その先のわからないことはもうない、と思うことである。
しかし子供も原始人も、「なんだろう?」といぶかりながら生きている人種で、真実が「わかった」と納得している人種ではない。
人間が「なんだろう?」といぶかりながら生きている存在であるということは、原始人は神や霊魂などという概念を持っていなかったことを意味する。彼らは自然を「なんだろう?」といぶかっていたのであって、森の木に霊魂が宿ると納得していたのではない。
世界を判断し納得してゆくのは、文明人の制度的な観念のはたらきにすぎない。
意識が「なんだろう?」といぶかっているとき、森の木はたんなる「画像」であって、「物体である」という判断すらも保留されている。それが人間の「直感」であり、直感で「霊魂が宿る」と思うことはない。それは、制度的な観念によって捏造された「物語」にすぎない。
われわれの「直感」は森の木をたんなる「画像」と見ているのであり、それが原始人の世界観だった。生まれたばかりの子供だって、大人が変なことを教えないかぎり、世界(自然)をそのように見ている。
自然に対して「なんだろう?」という意識があるかぎり、「そこに霊魂が宿っている」などとは思わない。
たとえば画学生がヌードデッサンをしているとき、男子はみんな欲情して勃起しているかといえば、そんなことはない。直感においては、誰もがそれを「画像」として見ている。
人間は、人間の自然において、対象を判断して納得すという思考停止の状態にはたどりつかない。永久に「なんだろう?」と問い続ける。それは、人間の根源的な直観であると同時に、観念の最終的な(究極の)はたらきでもある。
だから、乳幼児も原始人も、「森の木に霊魂が宿っている」などとは思わない。
「森の木に霊魂が宿っている」と思って清らかぶっても、そんなものは文明に汚された観念のはたらきにすぎない。かんたんに汚されてしまうくらい素直だともいえるが、そうやって人は、弱い生き物としての「羞恥心」を失ってゆく。
原始人は、きわめて率直に自然を「なんだろう?」といぶかっていた。文明人のような「物語」をつくって納得してゆくということはしなかった。世界(自然)を納得してしまったら、二本の足で立っている姿勢がますます居心地が悪く不安定なものになってしまう。
世界(自然)を「なんだろう?」といぶかるのが、人間の自然な心のはたらきなのだ。



人類の二本の足で立つ姿勢は、世界(自然)に対して「なんだろう?」といぶかり問いかけてゆくことによって維持されている。弱い生き物は、基本的にはそのようにして世界(自然)と向き合っている。
二本の足で立ち上がった原初の人類が最初に体験した心の動きはそうした「羞恥心」だったのであり、それが現在においても究極の心の動きとしてイメージされている。
人が他者に対して人間としての品性や品格というようなものを感じるとき、その人の中の「羞恥心」を見ている。その「羞恥心」に対して、「かなわないなあ」と思う。人間としての「格」の違いを感じてしまう。
逆にいえば、「羞恥心」を持っていない人間は、どんなに頭がよくて金や社会的な地位があっても魅力的だとは思われない。
「羞恥心」は、セックスアピールの源泉でもある。人類がなぜ一年中発情している生き物になったのかといえば、「羞恥心」を交感する存在になったからだ。二本の足で立ち上がった原初の人類は、生きてあることの戸惑い(羞恥心)の中に置かれた。その戸惑い(羞恥心)にせかされて男は発情し、女はそれを許す存在になっていった。
この世の中の人間の羞恥心のあるなしのさまは無限のグラデーションがあるからかんたんに図式化して語ることはできないが、ひとまず、「羞恥心がない」とは「いまここ」のこの世界や他者に対して「気づく=焦点を結ぶ」ということができていない状態である、といえるかもしれない。
それは、現代社会の病理である。現代人は、意識が世界や他者に未来という時間に対して「開放状態」になってしまって「今ここ」に焦点が結ばなくなっている。「今ここ」に焦点が結ばなければ「羞恥心」は起きないし、大人たちはインポになったり鬱になったりボケたりしてしまう。
焦点を結ばないから、子供は教室の中で落ち着きをなくしてしまう。



羞恥心の問題は、原始時代の問題であると同時に、子供の発達心理学の問題でもある。それは、けっしてネガティブな感情ではない。それこそが人間を人間たらしめている。
社会的な弱者になることは、けっして不幸なことではない。弱者のくせに、弱者すなわち弱い生き物として生きるセンスを持っていないことが不幸なのだ。
言いかえれば、社会的に優位な立場にある人でも、弱い生き物として生きるセンスを持っている人はいる。「今ここ」のこの世界や他者に焦点を結んでゆくという羞恥心を。
「今ここ」のこの世界や他者に焦点を結んでゆくことができないから、死後の世界のことや森の木や人間の体の中に霊魂が宿っているなどということを考えたりする。
環境世界に意識が「開放状態」になって焦点が結ばなくなってしまうこと、これはまあ、いわば「近代合理主義の病理」というようなことでもあるのかもしれない。人によってさまざまなグラデーションがあるにせよ、現代人は、誰もがそのような病理的意識を持ってしまっている。
人間は、根源において、環境世界に意識を「開放状態」にしている存在ではない。環境世界の「今ここ」に「気づく=焦点を結ぶ」存在なのだ。それが、弱い生き物のセンスである。
人間は、原初において二本の足で立ち上がって以来、世界(自然)と一体化して生きてきたことなど一度もない。一体化できない「嘆き=羞恥心」こそが人間を人間たらしめている。二本の足で立っていることは、そういう心の動きの上に成り立っている姿勢なのだ。一体化してしまったら、歩き出そうとする衝動は生まれてこない。セックスの衝動も生まれてこない。これが、現代社会の病理のひとつになっている。
人間は、世界(自然)と一体化できない「嘆き=羞恥心」ともに生きている。世界(自然)からの「圧力」を受けていなければ、二本の足で立つ姿勢は維持できない。つまりその姿勢は、他者の身体と向き合い、その心理的な「圧力」を受けることの上に維持されている。実際に向き合っていなくても、心理的にはすでにその「圧力」を受けている。
人間は、先験的に他者と向き合って存在している。そしてそのときのくっつくことも離れることもできない「戸惑い=羞恥心」が二本の足で立つ姿勢を安定させる。そしてその「戸惑い=羞恥心」を共有しながら、大きな集団になってきた。それは「戸惑い=羞恥心」だから、サル社会のように余分な個体を追い払うということはしない。そうやって、際限もなく大きな集団(国家)になってきた。
人間の集団は、どんなに大きくなっても個体どうしがくっついてしまうということにならない。もともと二本の足で立つという、くっついてしまわない姿勢を維持するために集団になっているのだから。そうやって世界=他者と向き合って立っていることの「戸惑い=羞恥心」を共有しながら人間の集団が成り立っている。
人間は、その、世界から「圧力」を受けて存在しているという「戸惑い=羞恥心=嘆き」を共有している。そこから人間的な文化が生まれ、発達洗練してきた。
人間の集団は、根源において「なんだろう?」という「戸惑い=羞恥心=嘆き」を共有している。
原始社会は自然との一体感の上に成り立っていたのではないし、現代においてもなお、人と人の関係が「嘆き」を共有してゆくことによって深まるという根源のかたちは残っている。
原始人は自分と自然との区別があいまいだったなどと近ごろの歴史家はよくいうが、そんなことはありえない。
同様に、発達心理学の、乳幼児の自我と世界との区別はあいまいである(たとえば「お母さんと一体化している」)などというのもありえない話だ。
人間は、世界に対する「なんだろう?」という「戸惑い=羞恥心=嘆き」とともに存在している。
乳幼児はお母さん(=世界)との一体感を持っている、といわれても、とてもじゃないが信じられない。その「一体感」とやらは、制度に飼いならされてやっと体験するようになってくる意識である。北朝鮮やらカルト宗教の信者たちによるスタジアムでのマスゲームのあの「一体感」を、赤ん坊も母親とのあいだで体験しているというのか。
「一体感」なんて、原始的でも幼児的でもなく、ひどく世間ずれした制度的な意識なのだ。
集団の中や他者との関係における人間は、根源的には、世界に対する「戸惑い=羞恥心=嘆き」を共有して存在している。



幸せとか平和とか理想とか人間集団を成り立たせていることの基礎とかが語られるとき、「共生することのよろこび」というようなことがよくいわれる。人間は、そうした「よろこび」があるから集団をつくるのか。そう決めてかかっているから彼らは、意識が環境世界に対して「開放状態」になっていることが人間の幸せであり、人間集団の理想のかたちであるかのような理屈ばかりいう。そしてこのことがまさに、現代社会の病理のもとになっている。
意識が世界に対して「開放状態」になってしまったら、焦点が結ばなくなる。そうやって現代社会のさまざまな病理現象が起きてきているのだ。
意識が対象に焦点を結ぶことは、「なんだろう?」という「戸惑い=羞恥心=嘆き」とともにもたらされる。「開放状態」になったらだめなのだ。人間は、根源的には、世界に対するその「戸惑い=羞恥心=嘆き」を共有しながら集団および関係をつくっている。
人間は、この世界の「真実」を共有しているのではない。「なんだろう?」という「問い=嘆き」を共有しながら集団および関係をつくっている存在なのだ。
人間は、「共生することのよろこび」があったから大きな集団をつくるようになってきたのではない。「戸惑い=羞恥心=嘆き」を共有してゆくことが二本の足で立つ姿勢を維持するための契機になったからだ。
赤ん坊がお母さんに抱かれてまどろんでいるのは、お母さんとの「一体感」に浸っているのではない。お母さんの体ばかりを感じて、みずからの身体に対する意識が消え、みずからの身体の無力感から解放されているからだ。
発達心理学ではよく「身体の快=不快の原則」などという。しかし、赤ん坊が身体の物性に対する「快感」を持っていると考えるのは、迷妄である。無力な身体しかもっていない赤ん坊にとっては、身体のことを忘れ、身体に対する意識が消えているのが「快感」なのだ。
いやこれは大人だってそうで、身体の物性の快感などというものはない。身体のことを忘れているのが身体の快感なのだ。それほどに人間は、「弱い生き物」として身体の無力性を嘆きながら存在している。
赤ん坊がお母さんとの一体感を覚えているなんて、大嘘だ。
人間にとっての快感は、身体を感じることではなく、身体を忘れることにある。「抱っこ」は、みずからの身体の物性を忘れさせてくれる体験である。だから赤ん坊はそれが好きなのだ。
他者と「共生」しているとか「一体化」しているというようなよろこびによって人間の集団がつくられてきたのではない。他者の身体を感じることがみずからの二本の足で立っている姿勢を安定させ、無力で鬱陶しいみずからの身体を忘れてゆく契機になったからだ。
人間の二本の足で立つ姿勢は、不安定でしかも急所を外にさらしてしまっているのだから、攻撃されたらひとたまりない。したがってその上で向き合っている関係をつくろうと思えば、たがいに「戸惑い=羞恥心=嘆き」を共有していないと成り立たない。
原初の人類は、二本の足で立っていることの「戸惑い=羞恥心=嘆き」を共有しながら、その姿勢を常態化していった。これが、人間が集団および関係をつくることの原点なのだ。
「共生することのよろこび」とか、そういうことではない。「よろこび」なんか、この際どうでもいい。そんな言葉で語ってばかりいるから、意識が環境世界に対して「開放状態」になって「焦点を結ぶ」ことができなくなってしまうのだ。
人間に集団や関係をつくらせているのは、「よろこび」ではなく、「嘆き」なのだ。
「嘆き」は、「今ここ」の「間=ま」に焦点を結んでゆく。日本列島の昔の人々はそういう「嘆き」を共有して集団をいとなんでいたのであり、それが「無常観」の伝統でもある。そしてその水源は、おそらく二本の足で立って存在していることの「嘆き」にある。
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