「羞恥心」について


人間の普遍性としての「羞恥心」について考えている。
文明人の自尊心に上に成り立った「恥」の意識とは違う、原初的な「はずかし」の意識である。
それは、人間存在の身体と世界との関係の問題でもある。
原始人は世界(自然)と一体化して生きていたということはありえない。
世界(自然)に対して親密であるということは、世界(自然)と一体化しているということではない。原始人のその親密さは、羞恥心を含んでいる。
原初の人類が二本の足で立ち上がったとき、体を支える前足の機能を捨てたのだからとうぜん前に倒れやすくなった。その前に倒れやすいということを逆に利用して直立二足歩行が進化してきたのだが、じっとしているときはとても不安定である。人間であることは、この不安定を生きることである。そして人類は、この不安定を、他者と向き合う関係になることによって克服してきた。他者の身体が前にあると、その身体が心理的な壁となって前に倒れにくくなる。
このとき、目の前の他者に対して親密になっていないと向き合っていられない。実際に向き合っているというより、二本の足で立っているときはすでにそういう他者の身体が想定されているということだ。人間の二本の足で立っている姿勢は、先験的に目の前に他者の身体が存在している。実際に存在していなくても、心理的(無意識的)には存在していることが想定されている。そうでないと、うまく立っていられない。
人間は、先験的に他者と向き合って存在している。そういう存在になることによって、二本の足で立つという姿勢が定着していった。
羞恥心は、根源的には、この、他者の身体が心理的な壁になっている状態のことである。
他者と向き合っているということは、他者から「見られている」ということである。
「見られている」ことの羞恥が、人間存在の基本的なかたちなのだ。
実際に向き合っていなくても、先験的にすでに向き合い見られながら立っている。
人間は生態系の頂点に立ち、すでに獲物を探し「見つめている」側の存在になっているが、それでも二本の足で立っている猿であるかぎり、根源的には「見られている」存在なのだ。
「見られている」存在であることは、人間であることの与件である。
「見られている」ことの「戸惑い=羞恥心」が、人間の二本の足で立つ姿勢を成り立たせている。
たがいに攻撃しようとする意思を捨てて親密でなければ向き合っていることはできないが、相手の身体が「心理的な壁」になっていなければうまく立っていられない。その親密と拒否反応のはざまに「羞恥心」がある。これが、人間の世界(自然)に対する基本的な意識である。一体化するのでも逃げ出すのでもなく、そのはざまの「羞恥心」とともに向き合っている。



とりあえず美男美女は、「見られている」存在である。しかしその意識は、彼らだけのものではない。すべての人間が、そのような意識の上に存在している。そしてそのことをいやがるのでもよろこぶのでもない「羞恥」というかたちで意識しているのが人間である。
原始人は、事物(自然)の名称の言葉を持っていなかった。現在でも、未開人ほどそのような語彙は少ない。つまり原始人は、事物(自然)に対する感慨の言葉は持っていたが、その名称の言葉はなかった。感慨の言葉を吐けば、自然の事物(自然)は連想されたからそれでよかった。
「くま」という言葉は、「怖い」という感慨をあらわす言葉だったが、やがてそういえば、誰もが事物(自然)としての「熊」を連想するようになっていった。そのようにして「熊」という名称は、あとの時代になって生まれてきたのだ。
原初の言葉は、感慨をあらわす道具だった。事物(自然)の名称だったのではない。彼らは、世界(自然)とそんな関わり方をするほど世界(自然)に対してなれなれしくはなかった。
二本の足で立っている姿勢は、環境から「圧力」を受けていないと成り立たない。それは、生き物としての身体の構造と意識のかたちからいって、かんたんな姿勢であると同時にかんたんではない。みずからの意思と体力だけで勝手に立っていられるような姿勢ではないのである。
今のところ、直立二足歩行を常態化した猿は、人間以外にいないのだ。それほどかんたんではないし、それほど身体能力を失う姿勢だった。
とにかく、それでも二本の足で立っていることを常態化していったのだ。
他者と向き合っているといっても、それは、他者から攻撃されたらひとたまりもない姿勢なのである。猿から分離したばかりの時代なら、なおさらそうだっただろう。そうやって人と人は、たがいに向き合い、「見られている」ことに戸惑いながら、親密になっていった。猿にとっての二本の足で立つ姿勢は、「圧力」を受けながらしかも親密になっていないと常態化できない。これが、二本の足で立っている猿である人間の、基本的な環境世界(自然)にたいする関係意識である。
人間の二本の足で立っている姿勢は、環境世界に対する「羞恥心」の上に成り立っている。
人間は、「見られている」ことを意識している存在である。意識することの上に「二本の足で立つという姿勢が成り立っている。「見られている」という圧力を受けていないと、二本の足で立っていられない。
「見られている」という圧力というか、その羞恥心の表出として言葉=音声が生まれてきた。その「戸惑い」「嘆き」「居心地の悪さ」「うれし恥ずかし」等々のさまざまな人間的な感慨からさまざまな人間的な言葉=音声が生まれてきた。
この世界に対する羞恥心が人間の心の動きの振幅を豊かにし、そこから言葉が生まれてきた。
音声を表出してしまう感慨があったから、言葉が生まれてきたのだ。したがって原初の言葉は「感慨の表出」だったはずで、事物(自然)の名称だったはずがない。
人間はまず、その音声に「感慨」がこめられていることを知った。
そういうさまざまな「感慨」が生まれてしまうくらい、戸惑いながら立っている存在であり、環境世界に対しては、一体化してゆくことも拒否することもできない存在なのだ。そのはざまの「羞恥心」が、人間を人間たらしめている。
ともあれ環境世界からの圧力を受けていないと二本の足で立っていられないのだから、とうぜん「見られている」という意識は持ってしまうし、その意識が二本の足で立っている姿勢を成り立たせている。



それでも現代社会においては、「見られている」という意識が希薄になってしまう問題が存在している。それは共同体の制度性の問題だから、人によってさまざまなグラデーションがある。どれだけ制度性に意識が浸食されているかによって差が生まれてくる。
われわれは、この世界の制度性に監視されている。国家制度であれ道徳であれ家族の視線であれ、いろんなところで監視されながら生きるほかない状況に置かれている。人と人が監視し合っているともいえる。
そうやっていつも監視し監視されて生きていれば、それが当たり前になって、もはや「見られている」という意識もなくなってしまう。
「あ、見られている」と気づくことなどない。気づく前から見られているから、見られているという意識もない。
そして、焦点を合わせて見る、ということをする前に、すでに見てしまっている。
焦点を合わせてみる、ということができなければ、「あ、見られている」と気づく羞恥心も起きてこない。
「見る=見られる」という関係がないのではない。最初からその関係の中に置かれているから、そういう関係が「生起する」という体験がない。だから、羞恥心も生まれてこない。
テレビをつけっぱなしにしておけば、見るという機能も聞くという機能も開放状態になっているが、「焦点を結ぶ」ということもない。焦点を結ばなければ、羞恥心もない。
羞恥心がないということは、二本の足で立っているというはたらきがうまく機能していないということである。
「見る=見られる」という関係の中の身を置いていれば、ひとまず「向き合って立つ」という人間であることの与件は成り立つ。しかし、そこで「心が生起する」ということがなければ、人間的な言葉も表情も生まれてこない。そのようにして鬱病とか認知症とか、現代社会のさまざまな精神疾患が起きてくる。
意識が開放状態になったまま、「生起する」ということがない。それは、環境世界の「圧力」を受けていないということである。まさに世界(自然)と一体化している状態だ。
「圧力」を受けていれば、意識は焦点を結んだ対象だけにはたらいて、まわりはぼやけている。環境世界の「圧力」が、焦点を結ばせる。シマウマが、自分に向かって動き出したライオンに気づくように。
環境世界から圧力を受ければ、「なんだろう?」という反応が起こる。この反応が、人類の文化や文明を発達させた。
しかしテレビの音も四角い画像も、慣れ親しんだ既知の対象である。「なんだろう?」という反応することはない。テレビをつけっぱなしにしておくことは、環境世界から「圧力」を受けることなく、環境世界と一体化している状態である。
現代人は、環境世界から圧力を受けて「なんだろう?」と反応することができなくなっている。それは、文明が発達したからというだけのことではない。
それでも「なんだろう?」と反応してゆく人はたくさんいる。人間としてそういう反応ができる人とできない人がいる。それは「弱い生き物」の属性である。したがってその資質は、「弱い生き物」として生きるほかない乳幼児期に形成される。
言いかえれば、たとえば親から囲い込まれるとかして「弱い生き物」として世界から「圧力」を受けて存在するという体験が希薄であると、未知のものに対して「なんだろう?」と問うことができなくなってしまい、自分のまわりを既知のもので覆ってしまおうとするようになる。そうやって、テレビをつけっぱなしにしている。



40歳の立派な社会人である独身男が婚活の初めてのデートの時に、女性をお手軽なファミレスに連れて行ったりすることがあるらしい。すると女性は「私に気がないのかな」と思ったりするが、そうではない。慣れていないところに行って緊張したくないからだ。本人としては、その方が話がはずむ、と思う。これも、テレビをつけっぱなしにしておくのと、同じ心理だろう。環境世界から圧力を受けたくない。意識を開放状態のままにしておきたい。
「なんだろう?」と問う心があれば、どこでデートをしようと話は弾むはずだし、環境世界から圧力を受けて少し緊張しているくらいの方が「火事場の馬鹿力」も出ようものだが、彼の場合は、ただもう混乱してしまうだけなのだろう。何としても、緊張したくない。それは、乳幼児期に弱い生き物として世界からの「圧力」を受けて生きるというトレーニングをしてこなかったからだ。
いつも環境世界に対して意識を開放状態にしながら緊張しないで生きているということは、世界に対して「羞恥心」を持っていないということだ。しかしそれはまあ、そういう状態でないと生きられないのだから、横着というのではないのだが。
どちらかというと、生き物としてのはたらきが衰弱している、ということだろうか。
いや、やっぱり、大の大人が初めてのデートでファミレスに連れてゆくなんて、横着で垢抜けない態度だろう。
意識を開放状態にしたまま緊張しないで生きてゆこうなんて、強い生き物としての態度だ。それは、環境世界からの「圧力」のない状態で生きてゆこうということであり、そういう強い生き物としての心の動きしかもっていないから、上から目線で他者を憎悪したり裁いたりする意識ばかりが発達してしまう。新大久保でヘイトスピーチのデモをしている若者たちがどんなに社会的な弱者の身分であろうと、彼らには「弱い生き物」としての「羞恥心」がない。つまり、他人がその態度をどんなふうに眺めているかという想像力がない。そしてこの想像力は、頭の良し悪しではない。東大教授だって、ない人はない。
正義であろうとなかろうと、他人に憎悪を投げつけ他人を追い詰めようとするその「羞恥心」のない態度がブサイクなのだ。
弱い生き物としての「見られている」という想像力と羞恥心がないのだ。
たぶん彼らは、乳幼児期の通過の仕方を失敗している。
もちろん社会的な成功者だって、「羞恥心」のない人はいくらでもいるに違いない。彼らは、「弱い生き物」としての想像力も思考力もない。
弱い生き物は、視力や聴力が発達しているのではない、「なんだろう?」というかたちで「心が生起する=気づく=焦点を結ぶ」のだ。そのようにして、環境世界から「圧力」を受けて存在している。人間の二本の足で立つ姿勢は、その「圧力」を感じていなければ維持できない。
人間は、意識を開放状態にして環境世界と一体化して生きているのではない。
意識を開放状態にしていようとしてそれができないから、引きこもる。引きこもっていれば、意識を開放状態にしていられる。
社会的な成功者は、鷹やライオンのように、環境世界に対して意識を開放状態にしたまま生きている。成功できなかったものがそのように生きるためにはもう、自分の部屋に引きこもるしかない。自分の部屋に引きこもって世界や他者を呪いながら世界や他者を裁き続ける。その態度は、おびえている弱い生き物のようでいて、心の動きとしては空を旋回しながら獲物を探している鷹の視線のようでもある。彼らは、その狭い空間で神の代理人になって、この世の人間を裁き続けている。
現代人は、「弱い生き物」として生きるセンスが欠落している。それこそが人間的な心が深く豊かにはたらくことなのに。
新大久保のヘイトスピーチのデモに繰り出すことも、はじめてのデートにファミレスに連れてゆくことも、引きこもることも、つまりは弱い生き物として生きるセンスが欠落しているということだ。彼らには、弱い生き物としての「気づく=焦点を結ぶ」という心の動きが欠落している。
社会的な弱者になることは、背負っている厄介なことが少なく、ある意味気楽なことだが、弱い生き物として生きるセンスを持っていないと耐えがたいものになったり女とつきあうことのできない男になってしまったりする。それが、現代社会であるらしい。
意識を開放状態にして生きることばかりしているからというか、そういう生き方しかできないから、社会的な弱者の立場に追い込まれたり人間関係に失敗したりすると、とたんに「神の視線」というか「鷹の目」になって際限なく憎悪が増殖していってしまう。
憎悪とは、正義で人を裁くことである。正しいかどうかということなど、どうでもいい。いま相手がどのように思っているかと想像することだ。それができないで、裁くということしか知らない。
人間なら、人間として生きてあることの戸惑いや嘆きがある。彼らにはそれが想像できない。人間は正しいか否かという神の裁きを受けて存在していると思っている。そして、自分がその代理人になって憎悪をたぎらせている。
彼らには「心が生起する=焦点を結ぶ」という体験がない。弱者のくせに、弱い生き物として生きるセンス(羞恥心)が欠落している。
いい大人が、はじめてのデートでお手軽なファミレスに連れて行ったら相手がどう思うかという想像すらできない。相手がどう思うかということよりも、自分が緊張しないということを優先させてしまう。
これは、人間としての品性の問題だろうか。
人間の文化は、弱い生き物として生きるところから生まれ洗練発達してきた。品性とか品格というようなものはつまるところ「羞恥心」の問題であり、そのことに日本人もアメリカ人もない。
それは、強い生き物が振りかざす正義や真実の問題ではない。そういうものを持っているつもりになれば、意識を開放状態にしていられる。そしてそういうものを振りかざして際限なく憎悪をふくらませたりもする。
弱い生き物として存在していることの「気づく=焦点を結ぶ」能力こそが人間であることの深さや豊かさをつくる。そしてその基礎は弱い生き物として生きるほかない乳幼児期につくられる。もしかしたら誰もがそのように通過してきたはずだが、現代社会はそのまま成長してゆくことが困難になる構造がある、ということだろうか。
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