つれづれ

休業中の備忘録というか、雑記帳をときどき書いておくことにします。
ある人とのメールの交換で、「視覚の焦点を結ぶ」という問題について考えさせられることがあり、これはとても大きな問題だと思ったが、うまく考えることができないままで終わってしまい、それが心残りになっています。
で、そのことをもう一度つらつら考えてみて、「羞恥心」ということがキーワードかな、と思いました。
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日本人の精神文化を考察した『恥の構造』などという本があるが、そういうことではない。
人類の普遍的な問題としての「羞恥心」のことが気になる。
羞恥心は、アメリカ人にもフランス人にもドイツ人にもある。べつに、日本人の専売特許ではない。
ネオンサインまでつけて堂々とセックス専用のところとして合意されている「ラブホテル」は日本独自のものらしく、いったいどこが「恥の文化」だという話である。
キリスト教圏の国では夫婦以外のセックスは神との契約でひとまず禁止されているから、そんな場所を大っぴらにつくることはできない。そういう部分では、彼らの方がずっと羞恥心を持っている。「神に見られている」という意識があるから、そうそう平気でラブホテルをつくることはできない。
おそらく羞恥心とは、「見られている」という意識なのだ。
まあ、制度的な「恥の構造」の文化などというものにはあまり興味がない。
人間存在が根源において抱えている「羞恥心」に興味がある。
羞恥心は人間であることのあかしだともいえる。
生まれつきかどうか知らないが、羞恥心の強い人とそうでない人がいる。
その人の羞恥心が現れるのは、何もセックスだけのことではない。
基本的には、身体と世界との関係の問題だろう。



生まれたばかりの子供は、ぼんやりと何かが見えているのかもしれないが、視覚の焦点は結ばれていない。
最初に焦点を結ぶのは、お母さんのおっぱいだろうか。
たぶんこれは、見えるとか見えないというような問題ではない。
「認識」の問題だろうか。
意識がその対象に向く、ということ。
それに焦点を当てて「見ている」ということは、それから「見られている」ということでもある。
焦点を当てて「見る」ということを知るから、焦点を当てて「見られている」ということも知る。
「見られている」ことに気づくことによって、羞恥心が芽生える。
対象に焦点を結んで見ることには、羞恥心がともなっている。
他者と話をしているとき、「見ている」と同時に「見られている」状態でもある。これを、自分の方から「見ている」という意識だけで、「見られている」という意識がはたらかなければ、羞恥心はない。
目の前の他人がどうのこうのと分析・吟味しているとき、目の前の他人から「見られている」という意識は希薄になっている。
他人を分析・吟味するのが上手で熱心な人は、羞恥心が希薄だともいえる。
羞恥心のある人は、むやみに他人を分析・吟味しない。
「焦点を結ぶ」ということは、分析・吟味することではない。
他人を分析・吟味するということと、ひとまず他人になってみる、ということは違う。
ひとまず他人になってみる、ということは、他人から「見られている」という意識であり、それが羞恥心になる。
それは、他人は自分をどう見ているか、ということではない。「見られている」という意識が羞恥心なのだ。
他人が自分をどう見るかということなど、わかるはずもない。しかし、「見られている」という意識は持つことができる。
他人から感心されほめられても、ひどく恥かしいときはある。「見られている」というそのことが恥ずかしいのだ。



「見られている」という意識がなくて、「見せる」ということばかりに熱心な人もいる。「見られている」という意識が希薄だから「見せる」ということに熱心になる。
「見せることに熱心」なことと「見られていることに無頓着」なことは、一枚のカードの裏表である。どちらも羞恥心と「見られている」という意識が希薄である。
自分を「見せる」ことに熱心な人は、見せている自分だけを見られていると思っている。他人の視線なんかそれだけだと他人をなめている。というか、他人の視線に対して鈍感なのだ。
しかし他人は、あんがいそれ以外のところを見ていたりするし、他人が何を見ているかはわからない。わからないのに、「見られている」ことだけは確かのように感じるときに羞恥心が起こる。
彼らは、「見られている」という意識をうまく持つことができない。だから、「見せる」ことによって「見られている」という意識を自分でつくりだす。そして「見せている」ものだけを「見られている」と思っている。



見せたがりは、現代人の特徴的な生態のひとつらしい。それは、生き物としての「見られている」という意識、すなわち「視覚の焦点を結ぶ」というはたらきが弱くなってきていることのあかしだろうか。
これには、時代の問題であると同時に、家族関係としての乳幼児体験の問題でもある。
世界に対して焦点を結ぶことは、生き物としての死活問題である。世界に対して焦点を結ばなければ、襲ってきた外敵を察知することができない。
シマウマが、ライオンがそばにいても平気で草を食んでいるのは、ライオンが見えていても焦点が結ばれていないからだろう。しかしひとたびライオンが動き出せば、たちまち察知して(焦点を結んで)逃げ出す。
生き物の生は、対象に焦点を結ぶことの上に成り立っている。ただ視力がよければそれでいいというような問題ではない。
人類はこの世界の生態系の頂点に立って、天敵に対して焦点を結ぶ必要がなくなってきた。
平和な時代になると、視覚の焦点を結ぶことや羞恥心が希薄になってくる。
一見平和そうな家族は、乳幼児の視覚の焦点を結ぶことや羞恥心を奪ってしまう。
家にいるときはテレビをつけっぱなしにしておかないと落ち着かない人がいる。それは、自分の視覚も聴覚もつけっぱなしにしておくということである。つけっぱなしにして、焦点を結ばない状態である。
焦点を結ぶとは、「心が生起する」ということであり、OFFにしてあるからONになる。
つけっぱなしにしておくとは、ONになることの緊張もときめきもない、そういう平和状態である。
平和になると視覚や聴覚が衰退するのではない。視覚や聴覚が解放状態になって、焦点を結ばなくなるのだ。焦点を結ばないことの平和、恍惚。
これを乳幼児体験に置きかえると、親に心が囲い込まれてしまっている平和=無風状態で、視覚も聴覚もつけっぱなしになっている状態、ということになる。
OFFからONになるという体験がない。シマウマが動き出したライオンに気づいて逃げ出す、というような体験がない。
「見せる」ということに熱心になるのは、いつも「つけっぱなし」の状態にしておくということである。
脳細胞は必要がなくなればすぐ死滅してしまうものらしいが、現代人の脳は、死滅しないでいつもつけっぱなしになっている脳細胞がたくさんあるのだろう。そういう余分な脳細胞も死滅しないでいつもつけっぱなしになっているから、記憶力はおそろしくいい。
同時に、いつまでも忘れないでいつまでも憎悪を引きずるということにもなる。社会的な成功者でも、ふだんは穏やかな顔をしながら心の底にいつもそうした憎悪が渦巻いている人がいる。そうして成功できなかった人はそれを心の底に押し込めることができなくて一挙に噴出してストーカーなどになったりする。まあ、新大久保のヘイトスピーチのデモも、憎悪が起きる脳回路が死滅しないまま温存されているのだろう。
憎悪なんかどうでもいい脳回路なのに、彼らの脳にはそれが死滅しないまま温存されている。いつも「つけっぱなし」で生きてきたからだ。
誰だって、一瞬ムッと来ることはある。それを、忘れることができる人と、忘れられなくなる人がいる。いつも「つけっぱなし」になっている人は忘れられなくなる。そうやってヘイトスピーチのデモに出かけている。
憎悪が噴出して頭の中をぐるぐるしてしまう。脳の中のどこかに、すでに憎悪のシステムが出来上がっていて、それが死滅しないまま成長してきた。
「つけっぱなし」の脳……親がそういう無風状態に閉じ込めてしまった。あるいは、いつも不安にせかされている状態に追い込んでしまった。彼らは、その両方の状態しか知らないで、両方の状態を往還して生きている。そうやって、あれこれの脳回路がいつも「つけっぱなし」になっている。
そばにライオンがいることなどひとまず忘れて草を食んでいる、という状態がない。
彼らには「心が生起する=焦点を結ぶ」ということがないからおそろしく鈍感なところがあると同時に、むやみになんにでもこだわるという過敏すぎる面との両方がある。
彼らは、むやみになんにでもこだわるから、むやみに不安になったりする。不安を解消するためのもっともいい方は、自分が神の代理人になって正義の側に立ち、他人を裁くことである。
彼らは、不安でたまらないから、新大久保の韓国人を裁かずにいられなくなる。
彼らは、「心が生起する」ということを知らない。だから、韓国人と許し合いときめき合うというようなことは望まない。韓国人を身動きできなくしてしまう以外に解決の方法を知らない。「心が生起する」ということなど、イメージできない。
彼らは、他人を吟味・分析して裁こうとする意欲は旺盛だが、自分の中で「心が生起する」という体験がないから、他人の中でも「心が生起する」という体験が起きることをイメージできない。「許し合いときめき合う」ことなんかイメージしない。裁いて動けなくしてしまう以外に和解の方法はないと思っている。
まあ、浮気した男を罵り倒して浮気できなくさせてしまおうとする手法と同じだ。そんなことをしても逆効果だということが、彼らにはわからない。彼らは「心が生起する」ということを知らない。
彼らは、「見られている」と気づく体験がない。いつも見られていた(監視されていた)か、見てほしいのに見てもらえなかった、という体験しかない。
いつも見られているつもりで気取っている心と、いつも見られたくてあれこれ着飾ったり見せびらかしたりしている心は、同じ心の裏表にすぎない。どちらも「あ、見られている」と気づく体験はない。
彼らは、「見られる」ことは「見せる」ことだと思っている。
彼らには、「気づく」という「今ここ」で心が生起する体験がない。羞恥心は、その「気づく」という体験から生まれてくる。



「見られている」と気づく意識が希薄なのは、他者に焦点が結ばれていないからである。
視覚の焦点がどのていど結ばれているかということは、人によってさまざまである。
何もかもはっきり見えているのに、意識が対象に焦点を結ばない。
焦点を結ぶとはまあ、まわりのほかのものがぼやけて見える、ということであり、何もかも「はっきり見えている」ということこそ焦点が結ばれていない状態である。
何もかもはっきり等質に見えるというのは、病的な意識である。
それは、人類が生態系の頂点まで上りつめたからだろうか。
もともと人類は二本の足で立ち上がることによって猿よりも弱い猿になったのだから、外敵に素早く気づくという、視覚や聴覚の焦点を結ぶということは死活問題だったはずである。
視力や聴力は、強い生き物が獲物を探す能力として発達する。空を飛ぶ鷹が地上の獲物を探すように。またそのとき、視界の範囲は、まんべんなくクリアに見えていたほうがよい。一点に焦点を結んでしまうと、見落とすことが多い。
弱い生き物は、全方位的な視力や聴力よりも、一点に対する「気づく=焦点を結ぶ」能力が発達する。あまり遠くまで見え過ぎたり、小さな音にも敏感になり過ぎると安心して暮らせない。人類は、そういう能力はほどほどに抑えながら、「気づく=焦点を結ぶ」能力を発達させながら生き残ってきた。
人類の視力や聴力は、どんどん退化してきた。今でも退化し続けている。それは、生態系の頂点に立ったからではない。弱い生き物だから、視力や聴力が退化し、そのぶん「気づく=焦点を結ぶ」能力が発達してきた。今でも人間は、基本的には「弱い生き物」として存在している。弱い生き物として能力が、人間的な文化や文明を発達させてきたのだ。
ゴキブリの視力や聴力がすごいということはなかろう。しかし、人間の気配に「気づく=焦点を結ぶ」能力はおそろしく発達している。人間社会で暮らしながら進化してきたのだろう。森のゴキブリは、おそらくあんなにも発達していない。
原初の人類も、「見られている」ことにとても敏感だった。それは、自分が焦点を結んで見てしまうこととセットになった能力だった。
弱い生き物は、見え過ぎたり聞こえ過ぎたりしたら、不安で生きられなくなってしまう。その代わり「気づく=焦点を結ぶ」という「心が生起する」能力が発達する。
人間は、ゴキブリと同じように「気づく=焦点を結ぶ」能力を発達させてきた。
猿のくせに、猿よりももっと弱い猿だった。
人間は、生態系の頂点に立ったから視力や聴力が弱くなったのではない。弱い生き物として「気づく=焦点を結ぶ」能力が発達したからだ。
今でも人間は、根源的本質的には弱い生き物なのだ。そこにこそ、人間の人間たるゆえんがある。
「気づく=焦点を結ぶ」能力が発達したから「言葉」が生まれてきた。
他者と出会って、より深く豊かに「気づく=焦点を結ぶ」から、思わず「おーい」とか「やあ」という言葉=音声が口の端からこぼれ出る。これが、言葉の起源である。
思わず音声=言葉が口の端からこぼれ出るような心の動きを持っているのが人間なのだ。
人間がより豊かに深く「気づく=焦点を結ぶ」心の動きを持っていることは、人間が弱い生き物であることのあかしである。
つまり、「気づく=焦点を結ぶ」という人間的な心の動きは、弱い生き物である乳幼児の段階で獲得できなければもうどうしようもない、ということである。
正しい人間になろうと強い人間になろうと賢い人間になろうと、そんなことでは獲得できない。
人間がどのように乳幼児期を通過するというかということは、とても難しく重要な問題なのだ。なのに近頃では、じつはその問題であるはずのことを、かんたんに遺伝的な病理にすり替えてしまっていることが多い。親の影響でそうなったはずのことを、生まれつきの遺伝だという。はたしてそれで問題が解決するのか。
親のせいで子供が「気づく=焦点を結ぶ」能力の希薄な人間として育ってしまう例はいくらでもあるはずだ。
だからといってその親だってそのまた親から育てられたのだから、誰が悪いということでもないのだが、まあ、そういう乳幼児期の通過の仕方という問題はたしかにある。
つまりは人間の歴史の問題だということだろうか。
「気づく=焦点を結ぶ」という能力は、弱い生き物として獲得される。だから、乳幼児期にしか獲得できない。
人間の乳児は、どんな生き物よりも弱い生き物である。だからこそ、そこで獲得される人間的な能力があり、そこで失敗してしまうことがある。



弱い生き物だから、「気づく=焦点を結ぶ」能力が発達する。
弱い生き物は、「見られている」ということに気づく能力を持っていないと生きられない。
人間は、世界そのものから「見られている」存在である。
汚い部屋が気持ち悪いということは、汚い部屋から見られていることの気持ち悪さである。
焦点を結びながら「見る」ということは、その対象から「見られている」ことでもある。
見られていることの居心地の悪さは、弱い生き物だから感じる。
羞恥心は、弱い生き物としての身体的な危機意識でもある。
弱い生き物は、「見られている」ことに気づく。それが外敵であれば逃げるだけだが、自分が興味を持って見ている対象から見られていると気づいたとき、そこで生じている関係の濃密さに戸惑ってしまう。
お母さんのおっぱいは、何も考えずに本能的に飛びついてゆく。ほかの人間や対象に対しても、最初はなかば本能的に敵か味方かとか好きか嫌いというような判断をしているのだろう。
しかし一歳を過ぎたころになってくると、「これはいったい何だろう?」というような興味が旺盛になってくる。本能ではなく、判断ができないまま「なんだろう?」と興味を持ってゆく。自分にそういう心の動きがあると気づけば、自分もまたそのようにして見られる可能性があることを想像する。そのように見られていると思えば、なんとも居心地が悪い。
人と人はそのようにして見つめ合っている、と思うところで羞恥心が湧いてくる。
人間は、本能的な敵か味方かとか好きか嫌いかだけではすまない視線を持っている。もちろんそれは、弱い生き物ゆえの本能的な視線の延長としてそうした「なんだろう?」という視線になってゆく。歩けるようになったり言葉を交わせるようになってくると、関係に対する意識が急に発達してくる。
寄ってゆくのでも離れるのでもない関係に対する戸惑う意識。「気づく=焦点を結ぶ」能力が発展すると、羞恥心が芽生えてくる。
原始人は、世界(自然)と一体化していたのではなく、世界(自然)に対してくっつくことも離れることもできない羞恥心を持っていた。これは、根源的には現代人だって同じである。われわれは、世界(自然)を「なんだろう?」と問うてゆき、世界(自然)からも「なんだろう?」と問われている。そういうくっつくのでも離れるのでもない関係を、他者に対しても世界(自然)に対しても結んでいる。
対象に対して「焦点を結ぶ」ということは、「なんだろう?」と問うことであって、分析・吟味して敵か味方か好きか嫌いかと決定することではない。
人間は、「なんだろう?」と問う心を持ってしまった。そういう心が「生起する」存在になってしまった。
人間は、真実を知ろうとする存在であるのではない。「なんだろう?」と問う存在なのだ。自分が「なんだろう?」と問い、他者や世界からも「なんだろう?」と問われている存在なのだ。そこから羞恥心が生まれてくる。
真実を知って決着をつけようとしているのではない。「なんだろう?」といぶかる存在なのだ。興味津々でいぶかり、興味津々でいぶかられていると気づくから、羞恥心が生まれてくる。
「なんだろう?」と問う人は、羞恥心を持っている。
それは、真実を知って決着をつけようとすることとは違うのであり、「存在することの戸惑い」の上に人間という概念が成り立っている。
真実を知って決着をつければそれでいいというものではない。真実を知った瞬間に、すでに新しい「なんだろう?」という問いの中に立ってしまっている。それを、「羞恥心」という。



真実を知っているとか、人間の正しい生き方を知っているとかといって自慢したり安心したりしている人がいる。しかし人間は、そんなことを知ろうとする存在ではないのだ。
科学の真実など、つねに書き換えられている。おそらく永久に書き換えられてゆく。ほんものの科学者は、現在わかっていることを「真実」だなどとは思っていない。暫定的にわかっていることにすぎない、と思っているだけだろう。彼らには、そういう羞恥心がある。
何かがわかるということは、その上に新しい「なんだろう?」という心が生起することなのだ。
人間は、「なんだろう?」という「戸惑い=羞恥心」とともに存在している。そういう心が生起してしまう存在なのだ。
人間の正しい生き方を知っているつもりで他者を裁いてばかりいる人がいる。彼らは、正義や真実がないと不安なのだろう。彼らは、何かに焦点を結んで「なんだろう?」という心が生起することはない。すでに存在する正義や真実の中で生きている。焦点を結んで「なんだろう?」と問うことがないから、すでに存在する正義や真実で間に合わせてしまう。それで間に合えば世界は安泰だし、それを否定することなど許さない。
彼らの心は、世界や他者に向かって焦点を結んでゆくことがない。焦点を結ばないから世
界や他者はクリアに見える。焦点を結べば、まわりの景色はぼやけている。彼らは、世界がクリアに見えているからこそ、「なんだろう?」という「戸惑い=羞恥心」がない。
「なんだろう?」と戸惑うからこそ、焦点を結んだときに「ときめき」が起きる。原初の言葉=音声は、そうやって発せられた。
目の前の世界や他者に対して、既成の基準や規範を当てはめながら感動したつもりになることくらい、そうむずかしいことでもない。しかしそれは、感動した(つもりの)自分をまさぐっているだけである。彼らが、既成の基準や規範をいったん忘れて「なんだろう?」と問うてゆくことはない。人間的な感動とは、対象に対して「戸惑い=羞恥心」を持つということだ。感動することをよく「鳥肌が立つ」などというが、それは、生き物としてみずからの存在の根拠を失った「戸惑い=羞恥心」によって起きる。
人類は、共同体(国家)の成立とともに、既成の真実や正義や規範や基準などをつくってゆき、対象に焦点を結べない人が現れてきた。
はたしてそれは、進化か退化か?
それにしたがえば、弱い生き物として世界に焦点を結んでゆくということをしないですむ。この世に外敵は存在しないということは、ひとまず「至福」の時間に違いない。
彼らは、弱い生き物としての不安の中で生きてゆくということができない。
それは、人間が生態系の頂点に立ったことによって生まれてきた心だろうか。しかしそんな状態だけで生きてゆくことは、実際問題として、決してかんたんなことではない。人に対するときめきがないのだから、人に嫌われることも多い。そしてそういう挫折を繰り返して、自分も人を憎むようになってゆき、やがては引きこもりになったりする。
新大久保のヘイトスピーチのデモは、一部の若者たちの引きこもりの衝動にガス抜きの効果をもたらしているのだろうか。
彼らは、人にときめくことがなく、人を裁く思考回路を旺盛に持っている。これでは、憎しみが生まれてこないはずがない。憎しみとは、人を裁く心である。それが正義であれば、そんなに立派か?そうやって神の代理人になって人を裁くことが、そんなにえらいのか?
世界や他者がクリアに見えているということと、世界や他者に「気づく=焦点を結ぶ」ということとは違う。前者は強い生き物の特性であり、弱い生き物は、世界がクリアに見えていない不安の中を生きながら「焦点を結ぶ」心の動きを体験してゆく。
新しく生まれる心とは、「なんだろう?」と問う心である。すでにある規範や基準で分析・吟味して裁いてばかりいたら、その体験はない。すでにある規範や基準で分析・吟味するしか能がなくて「気づく=発見する」という体験がないから、どんなに偉くなってもしょせんは二流の学者でしかない。
原始人や生まれたばかりの子供のような心は「なんだろう?」と問う。それは、弱い生き物としての本能的な「焦点を結ぶ」意識から生まれてくる。



羞恥心は、たがいの「焦点を結ぶ」心が出会う体験から生まれてくる。「いまここ」で生まれてくる心がなく表情が生き生きしていなければ、相手から興味を向けられることもない。
「見られる」ことは弱い生き物としての身体の危機であるが、逃げ出すこともできずにその危機の中で戸惑い立ち尽くしてしまうことを羞恥心という。そうやって「なんだろう?」と問うている。この羞恥心を原点にして人類の文化・文明は発展してきた。
また、羞恥心の上に立ってくっつくことも離れることもできない関係を持っているから、人間的な大きな集団をつくられてきた。
羞恥心を持てなければ、人間は人間であることができない。羞恥心のない人間は嫌われる。なぜなら限度を超えて大きなこの人間集団は、羞恥心を持たないと成り立たないような構造になっているからだ。
そういう構造を持っているから、羞恥心を持った人が魅力的に映るし、人間の文化は羞恥心の上につくられている。
羞恥心のない人間は、世界や他者を分析・吟味し裁くことばかりしている。「なんだろう?」といぶかりながら新しく心が生まれるという体験がない。この世界がまんべんなくクリアに見えているが、焦点を結ぶことがない。つねに「すでに知っている」という場に立って、「なんだろう?」と問うことがない。「焦点を結ぶ」ということがないのだから、それはもうそうなのだ。
乳幼児期に弱い生き物としての特性を獲得することに失敗すると、社会的な成功者として生きることはできても、弱者として生きることがうまくできない。弱者の立場に置かれると、精神がパニックを起こす。そうやって、新大久保のヘイトスピーチのデモになったり、引きこもりになってDVを繰り返したりするようになる。
なんにせよ、人間的な特性は、弱い生き物としての「嘆き=羞恥心」を生きることことにある。それによって文化・文明が発展してきたし、大きな集団をいとなむことが可能になっている。
弱い生き物としての「嘆き=羞恥心」が、言葉をはじめとする人間的な文化をもたらした。それは、世界をクリアに見通し分析・吟味する能力ではない。世界や他者に焦点を結んでゆく能力なのだ。そうやって世界や他者に対して「なんだろう?」と問うてゆき、世界や他者からも「なんだろう?」問われている。そういう関係から言葉が生まれてきたのであり、その「羞恥心」が人間を人間たらしめている。
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