蛇足

ほんとに心を入れ替えてひとまずこのブログを中断しないといけない状況があるのだけれど、なんだかぐずぐずしていて、もうひとつだけ書いておきます。
これまでのこのブログを書く醍醐味は、書きながら「あ、そうか」と気づく体験があったことにあります。それにせかされて7年間書き続けてきたようなものです。
まあ、人と人の関係も、それがあるから面白い。いろんな意味で「あ、そうか」と気づかせてくれる人は魅力的だ。
しかし、そんな体験をさせてくれる人はそうそういないし、ものを考えてそんな体験に出会えることも、いつもあるわけではない。
世の中にすでに存在している知識をたくさん知っている人を、「博学」とか「もの知り」というのでしょう。そういう人は、書くことがいくらでもあるのだろう。しかしこのブログがその路線を目指すのは、年齢的にいっても、もう手遅れです。
「あ、そうか」と気づく体験がなければ、僕にはもう差し出せるものはない。
「あ、そうか」と気づくことは、かんたんなようで、かんたんではない。そんなことくらい子供でも体験しているが、大人はもっとしているかといえば、そうともいえない。
よいか悪いかとか、美しいか否かとか、世の中にすでに存在している規範や基準がある。それにしたがえばだいたいまちがいはないが、「ああそうか」と気づくこともなくなってくる。まあ世の中は、そうやって動いているともいえる。そうして、世の中の物差しにしたがったおしきせの服を着ておしゃれをし、おしきせのものを食って美味いといい、おしきせの娯楽に飛びついては楽しいといってはしゃいでいる。
世の中にすでに存在している規範や基準をたくさん知って、それにしたがって生きている人を「大人」というのだろうか。
「あ、そうか」と気づくことは、かんたんなようで、かんたんではない。大人だけでなく、幼児体験としてすでにそれを喪失している人もいる。しかしそういう人はそのぶん、すでに世の中に存在している規範や基準をため込む意欲も能力も豊かである。そうして社会的な成功者になってゆく人も多いが、その反面、そのために精神を病む人もいる。
人に対しても物事に対してもたくさんのことを知っているが、「あ、そうか」と気づくことがない。それは、心が動かない、ということだろう。そういう人は、人と話をしても表情が乏しいか、逆にいつも表情をつくっていたりする。すでにある心(=観念)だけで、新しく心が生まれるということがない。
ほんとに自然で豊かな表情は、新しく生まれる心とともにある。「あ、そうか」と気づいて、それが表情になってあらわれる。
「あ、そうか」と気づくことは、学問だけのことではない。
たとえば「花が開いた」ということに対してだって、それを生まれて初めてのことのように体験する人もいれば、すでに自分の中にため込んだ規範や基準で観察している人もいる。
前者において心が動き、後者の心は停滞している。その規範や基準をもとにしてあれこれ思うが、「あ、そうか」と気づくことはない。
小さな子供にとって生きてある「今ここ」で出会うことはすべてはじめての体験だが、大人は、すべてをすでに知られていることとして解釈し体験してゆく。そのほうが生きるのに有利だということもあるが、彼らには「あ、そうか」と気づく体験が失われている。
誰にだっていろいろ思うところがあるのだが、思ったからといって心が動いているとはいえない。規範や基準をいっぱいにため込んでいればそれを物差しにしてあれこれ思うが、「あ、そうか」と気づく体験はない。
あれこれ思えば、心が豊かにはたらいているともいえない。
「あ、そうか」と気づく体験がないから、あれこれ思う。「あ、そうか」と気づく体験を怖がっているのか、とにかくその体験をしたがらないし、できない。
小さな子供は「あ、そうか」と気づく体験とともに生きているから、むやみにあれこれ思わない。あれこれ思わないような表情をしている。そして、あれこれ思わないから、表情が自然で豊かだ。
あれこれ思うから心が豊かだとはいえない。あれこれ思うのは一種の病気だというか精神的な欠陥だともいえる。
あれこれ思うのは、「あ、そうか」と気づく体験を喪失した精神の貧しさだともいえる。
そりゃあ、世の中の大人は、いろんなことをあれこれ思っていますよ。これは正しいとか、これは美しいとか、これは間違っているとか許せないとか。しかしそうやってあれこれ思っているからといって、彼らの心が豊かだとはいえない。「あ、そうか」と気づくことが何もない。そういう体験をすでに失っているから、その表情がすこしも魅力的じゃなく、ブサイクだ。
あれこれ思う精神のみすぼらしさ、というのがたしかにある。
あれこれ思えば心が豊かだとはいえないのだ。
あれこれ思って、自分の心は豊かだとうぬぼれている人がいる。そうやって自分をまさぐってばかりいる。それはしかし、世界や他者に対して「あ、そうか」と気づく体験がない、ということだ。
意識が自分から離れて世界や他者に向かってゆけば、あれこれ思うこともないが、「あ、そうか」と気づく体験をする。そういう人にとっては、世界も他者もつねに新しい未知の対象として現前している。
既知であるところの自分の物差し(規範・基準)にしがみついて世界や他者に対してあれこれ思うということが病気なのだ。そんな精神は、立派でも豊かでも何でもない。ただの病気(障害)だ。
彼らは、世界や他者が未知の対象であるということを知らない。それは、心の貧しさだ。
小さな子供のように、あれこれ思わないことこそ豊かさなのだ。
あれこれ思わない心は、「あ、そうか」と気づく体験をする。
世の中には、あれこれ思うことが自分の心の豊かさとか頭の良さであるかのようにうぬぼれている人がたくさんいる。
あれこれ思う人にかぎって、かんたんなことに気づかない。
たとえば、他人にも心があるという、そのいちばんかんたんなことにも気づかない。自分がこういえば、他人がどう思うかということをわかっているつもりでいる。人がどう思うか人の勝手であって、人の思い方に決まりなどないことがわかっていない。自分が叱れば部下や子供は反省すると決めてかかっている。そのとき部下や子供の表情には「あほか、このおっさん」という反応とか、追い詰められて生きた心地がしないというような反応があらわれていることに気づくことができない。気づきたくないのか、気づけないのか、反省すると決めてかかっている。心は新しく生まれてくるものだということを知らない。だからそういう人は、何でも知っているようでいて、他人から見ておそろしく鈍感なところがある。彼らは、他人の気持ちを汲み取るということができない。他人の心の動きすらあらかじめ決まっているつもりでいる。自分自身があらかじめ決められてある心しか持っていないから、他人の中で「心が生起する」ということなんか思いも及ばない
子供のような裸一貫の心になって「あ、そうか」と気づいてゆくことは、大人にとってはかんたんなようでけっしてかんたんではない。
とくに世の中の当たり前すぎることは、たいていの人がすでに決定済みの定理のように考えてしまっているから、そのまちがいにはなかなか気づかないし、まちがいを認めようとしない。
「あをによし」は「奈良」の代名詞だとみんなが決めてかかっている。だからそこに「はるかに遠いものに対するあこがれやかなしみ」がこめられていることに、誰も気づかない。子供のような何も知らない(あれこれ思わない)気持になれば、誰だってその音声からそういうニュアンスを感じるのに。
「大和は国のまほろば たたなづく 青垣山籠れる大和しうるわし」の「たたなづく」は「山が連なる」という意味だと誰もが決めてかかっている。この歌の「たたなづく」には、父である天皇から奈良盆地に入ることを拒否された瀕死のヤマトタケルの「それでも私は大和を愛してやまない」という悲痛な叫びがこめられているということに、誰も気づかない。
「なづく」は「なつく(愛着する)」、「たたなづく」という言葉を「ひとえに愛着する心」と解釈することは、あんがいかんたんである。「連なる」と解釈するよりはるかにかんたんだ。しかしかんたんだからこそ、それに気づかない。
彼らは、他人の心すら決定済みのことであるかのように決めつけている。それは、「心は生起する」ということを知らないということであり、さらには、他人にも心があるということがわかっていない、ともいえる。すでに決定済みの規範や基準であれこれ思うばかりで「生起する心」がない人が、他人の中で「生起する心」を想像しようもないし、「あ、そうか」と気づきようもない。
えらそうにあれこれ思い、えらそうな物言いをあれこれ並べても、いちばんかんたんなことが何もわかっていない。まあ、そういう人にかぎってボケ老人になる。
あれこれ思っても、心が豊かだとはいえないのだ。
むやみにあれこれ思わないからこそ、「心が生起する」ということが起きる。
脳が活性化するということに、知識人も庶民もないし、大人も子供もない。あれこれ思うということは、脳のはたらきが停滞しているということでもある。「あ、そうか」と気づく体験がない。あれこれ記憶するはたらきは盛んだが、「あ、そうか」と気づくはたらきがない。大人になるというのはだんだんそうなってゆくということだし、幼児体験としてそういう偏頗な脳のはたらきを持ってしまう人もいる。
子供を育てるのは、怖いことだ。あんまりわかっているようなつもりにならないほうがいい。わかっているつもりになって子供の心を囲い込んでしまうことによって、むやみな記憶力やむやみにあれこれ思う心ばかり肥大化しつつ、「あ、そうか」と気づく体験を失ってゆく。
愛憎が激しい、ということは、心が豊かだということではないのである。
原始人には、むやみな愛憎もあれこれ思うこともなかった。その代わり、そのつど豊かに「あ、そうか」と「心が生起する」体験を持っていた。
現代人が「家族」という単位を持つことは避けがたいことだが、用心しないとかんたんに子供の心を囲い込んでしまう。それは、記憶力や知能を発達させるのに有効であると同時に、「あ、そうか」と気づく心を奪ってしまう危険もある。
「あ、そうか」と気づくことは、視覚が焦点を結ぶ、ということである。用心しないと、発達段階の、まずそこでつまずいてしまう。そうして、世界がすべて等質に見えてしまう。極端な例を挙げれば、人の顔が見分けられない、ということも起きてくる。ちゃんと見えているのに、見分けられない。そんな世界を生きている人がいる。まあ、他人なんかぜんぶ自分の人生の飾りだというくらいにしか思っていない人がいる。そうして、自分の人生の飾りになっていないからお前は許せない、などという。自分の人生の飾りとして愛し、飾りにならないといって憎む。
人があれこれ思ったり愛したり憎んだりすることは、決して人の心の自然でも何でもない。それは、精神の病(障害)なのだ。彼らには、「あ、そうか」と気づいて「ときめく」ということがない。そうやって視覚が焦点を結ぶということがない。
視覚が焦点を結ぶから、羞恥心も起きてくる。彼らの羞恥心のなさは、あきれるばかりだ。
人間の羞恥心というのは、1歳を過ぎて歩いたり話したりするようになってくればもう、徐々に芽生えてくる。世界に焦点を結ぶということができる子供は、羞恥心も持ってくる。結ばない子供は、いつまでたっても羞恥心が芽生えてこない。焦点を結ばなければ、そういう心が芽生えてくる契機がない。これは、世の親は気をつけたほうがいい、と思う。羞恥心の芽生えを奪ってしまっている親がいる。
人間の心は、世界に対して焦点を結ぶから、世界に対する羞恥心を持っている。焦点を結ぶことは、恥ずかしいことであると同時に、ときめくことでもある。
原始人は世界(自然)と一体化していたなんて、嘘だ。原始人の心は、世界に対して焦点を結び、世界に対する羞恥心を持っていた。
人間は、猿と違って、世界に対する羞恥心を持っている。だから、衣装をまとうのだろう。それは、原始人や古代人が世界と一体化して暮らしていたわけではないことを意味する。
他者や世界のことなど、何もわからない。だから「あ、そうか」と気づくのであり、それは羞恥心である。