「羞恥心」の歴史


二本の足で立っている猿である人間は、みずからの身体と環境世界との関係に「とまどい」を持っている。そこから「羞恥心」が生まれてくる。
一歳を過ぎて歩いたりしゃべったりするようになってきた幼児は、羞恥心が芽生えてくる。それをよくお母さんとの関係に変化が生まれてきたからだとかと説明されるが、そんなことより二本の足で立って歩くようになったりしゃべるようになったりしたことの方が大きい。お母さんとの関係以外のところでそんな反応をするようになってくるのだ。そのとき幼児は、ようやく自分で世界と関係することができるようになってきて、人間として身体が世界と向き合って存在していることの「とまどい=羞恥」に気づいてゆく。
人間は、基本的に、言葉と二本の足で立って歩くことによって世界や他者と関係している。一歳を過ぎると、この二つの基本を獲得してゆく。
現在の発達心理学では、乳幼児の心理を「身体の快=不快」というような物差しで語りたがるが、そういうことではない。彼らだって生き物としての「個体」であり、最初から「身体と世界との関係」を生きているのだ。心理学者のいう、「自己と世界が未分化」などという時期などはない。一個の生き物として、生まれてすぐのときからすでに自己と世界は分かたれてあるのだ。
「自己と世界が未分化」の生き物などこの世に存在しない。
まあ石ころは地球の一部だといえるかもしれないし、石ころが地球だともいえる。しかし生き物は、そういうわけにはいかない。この身体が世界から分かたれてあるという与件を負って存在しているのであり、だから身体が動くのだし、人間ともなればそのことのかなしみや羞恥やとまどいはどうしても感じてしまう。生まれたばかりの赤ん坊さえも、だ。



人類は、もともと世界に対して「とまどい=羞恥心」を抱いている存在だった。それは、世界に対する親密さと拒否反応の両極を揺れ動いている心である。人間は、世界に対する意識のスタンスが一定していない。大きく揺れ動く。原始人は、その振幅からさまざまなニュアンスの音声を発するようになり、やがて言葉が生まれてきた。
人間にとって二本の足で立ったままじっとしていることはとても居心地が悪い状態である。それは、不安定で、しかも胸・腹・性器等の急所を外にさらして攻撃されたらひとたまりもない姿勢であり、本能的な恐怖を呼び覚ます。つまり、世界に対する怖れが極まっている状態である。しかしそこから歩いてゆけば、身体のことを忘れて、意識が世界に親密になってゆくことができる。そうやって「旅」とか「観光」という生態が生まれてきた。
人間に「身体の快(心地よさ)」などというものはない。いいかえれば、身体のことを忘れてしまうのが「身体の快(心地よさ)」なのだ。それは、意識が身体から離れて世界に焦点が結ばれている状態である。
人間の心は、世界に対する拒否反応が極まって意識が身体に張り付いてしまう状態と、身体のことを忘れて意識が世界に焦点を結んでいる状態とのあいだで振幅している。その振幅の現象として猿にはない羞恥心のような心の動きも起きてくるわけで、原初の人類がなぜ言葉の起源となるさまざまな音声を発する存在になっていったかといえば、それほどにさまざまな心の動きを持つようになっていったからだ。
原初の人類の行動や心の動きを、ただ「生き延びるため」とか「自然と一体化していた」などと図式化して決めつけるべきではない。そしてこれは、現在の発達心理学における子供に対する理解の問題である。いやもっと、誰にでも当てはまる「人間とは何か」という問題なのだ。
人間の普遍的な行動原理は、「生き延びるため」ということにあるのではない。それもひとつの観念のはたらきにすぎない、というだけのこと。また、赤ん坊がお母さんと一体化していることも、原始人が自然と一体化していたということもない。
誰だって生き物であるかぎり、生まれたときからすでに一個の孤立した「個体」としてこの世界と向き合って存在しているのだ。
かんたんに「一体化」などといってくれるな。それは、病理的な心の状態なのである。
原始人の心は世界(自然)と一体化していたのではない。親密さと怖れのあいだを大きく揺れ動いていた。この振幅の大きさこそ人間と猿の違いだった。
赤ん坊がお母さんに抱かれてよろこぶことだって、お母さんと一体化していることを感じるのではなく、お母さんの体ばかり感じて自分の身体のことを忘れていられるからだ。
どんな生き物も、一個の個体としてこの世界に存在している。この世界と一体化している生き物など存在しない。制度に飼いならされた文明人の観念がときにそんな錯覚を起こす、というだけのこと。スタジアムのマスゲームの人たちが体験している恍惚と、赤ん坊がお母さんに抱かれているときのまどろみは、同じではない。それは、この世界に孤立して存在している個体としてのまどろみなのだ。
「自己と世界が未分化」の生き物などいるものか。生まれたばかりの赤ん坊の心をそのように規定して平然としている今どきの発達心理学など、ぜんぶ間違っている。
生まれたばかりの赤ん坊は、生き物=個体としての無力さを嘆きながら、人間的な振幅の大きな心を身につけてゆくのだ。それが幸せであるにせよ不幸であるにせよ。
原初以来人類は、心の動きの振幅が大きな猿として歴史を歩んできた。その振幅の大きさが、人類史に進化発展をもたらした。知能が発達したとか生き延びようとする意欲が旺盛だったからというような問題ではない。



人間の行動原理は、「生き延びようとする」ことにあるのではない。振幅の大きな心の動きとともに、行動原理など持たないのが人間の行動原理なのだ。
「生き延びることなどどうでもいい」と思うことだって人間の行動の契機になりうるし、それは生き物としての本能から逸脱しているのでもない。生き物の本能は、生きてある「今ここ」に焦点を結ぶことにある。生き延びようと発想すること自体が、本能から逸脱した観念のはたらきにすぎない。
まあ、「死後の世界」がどうのということも、一種の「生き延びようとする」心の延長上で発想されているのだろう。そしてそれはまた、「今ここ」に焦点を結ぶ心のはたきが希薄になっていることでもある。現代人の心は、未来のスケジュールばかり追いかけて「今ここ」に焦点が結ばなくなってきている。そういう時代の気分とともに「スピリチュアル」がどうのと叫ばれている。「今ここ」に焦点が結ばれていないから、「死後の世界」や「生前の世界(生まれ変わり)」が気になる。
また、乳幼児体験として、心が環境世界に対して「開放状態」になったまま焦点が結ばなくなってしまう、という育ち方をする場合も多い。親が、そういう育て方をしてしまうわけだが、そういう育て方をしてしまうような社会や時代の状況になっているともいえる。
現代社会には、うまく対象に焦点を結ぶことができなくなってしまうという病理がある。そうやって、人の気持ちを推し量るとか人の気持ちになってみるというようなことができなくて、人間関係がぎくしゃくしてしまったりしている。追い詰める方はそれでもいいが、追い詰められる方はたまったものではない。追い詰めている方は、相手に焦点を結べないのだから、追い詰めているという自覚などさらさらない。それどころか、自分が被害者のつもりでいたりする。クレーマーとか新大久保のヘイトスピーチのデモなどは、まさにこのようなケースだろう。
彼らは、相手の気持ちを推し量るというようなことはせず(できず)、相手を分析・吟味して、ひたすら裁いてばかりいる。人を裁く能力や意欲だけは、ひといちばい発達している。現代社会は、そういう人間があふれている。
とにかく、焦点が結べない、という問題がある。この世界の景色がどのように見えるかということは、あんがい誰もが人と同じように見えているつもりでいるが、じつは人によってずいぶん違う。視力の問題としてではなく、焦点の結び方として違うのだ。
べつに「生き延びる」などというテーマを意識する以前に、この世界がどのように見えているかでその人の行動が決定されていたりする。
「生き延びる」というテーマで人の思考や行動が決定されているだなんて、どうしてそんな下品で嘘くさいことを真実であるかのように語りたがるのだろう。現代人がひとまずそんな観念のはたらき方をしているといっても、それが人間の普遍(自然)だとはいえない。



原初の人類は「生き延びる」というテーマで二本の足で立ち上がったのではない。そんなテーマがあったらけっして立ち上がらない。その不安定な姿勢は猿よりももっと弱い猿になることだったし、胸・腹・性器等の急所を相手にさらしているのだから、攻撃されたらひとたまりもない。そしてそれは、相手と向き合っていることによって安定する姿勢でもあった。「他者と向き合って立つ」という関係を持っているのも、人間と猿の違うところのひとつである。ともあれ、「生き延びる」というテーマを持っていたら、こんな姿勢を常態化してゆくはずがない。
では何が彼らをそうさせたかといえば、みんなして立ち上がってゆくような集団の状況があったからだ。彼らにとっては、未来に向かって「生き延びる」ことよりも、「今ここ」の密集状態の中で仲間と体をぶつけ合いながら暮らしていることが鬱陶しくてならなかったのであり、気がついたら誰もが二本の足で立っていた。そして二本の足で立って身体が占めるスペースが狭くなると、もう体をぶつけ合わなくてすむようになっていた。そのようにしてその姿勢でいることが常態化していった。
それは猿よりも弱い猿になって生き延びる能力を喪失することであったが、それでも「今ここ」で他者と体をぶつけ合わないですむということはもっと大事だった。
人間は、「生き延びる」というテーマで二本の足で立ち上がっていったのではない。
「今ここ」の他者との関係をスムーズなものにしたかっただけであり、そのためには「生き延びる」というテーマなど捨ててもかまわなかったのだ。それはつまり、「今ここ」に対する視覚や心の焦点が結ばれている状態を維持したかった、ということでもある。
世界や他者に焦点を結んでゆくということこそ、生き物にそなわった根源的な心の機能であり、本能なのだ。
それは、「生き延びる」ための機能ではない。「今ここ」でこの生を完了してしまう機能だと考えるしかない。そうでなければ、「生き延びる」というテーマを捨てられるはずがない。というか、彼らには「生き延びる」というテーマなどなかった。何はともあれ「今ここ」をなんとかしたかっただけだ。
原初の人類の二本の足で立つという姿勢は、「生き延びる」ためではなく、「人と人の関係をやりくりする」というテーマの上に成り立っていた。つまり、人間が二本の足で立っている猿であるということは、第一義的には人と人の関係に対する意識の上に存在している、ということを意味する。
起源においても、「生き延びる」ためなら余分な個体を追い出せばよかっただけである。しかし彼らは、それをしないで二本の足で立ち上がっていった。
人類700万年の歴史の最初の数百万年は、知能も身体の大きさも進化しなかった。それでも二本の足で立つという姿勢を維持してきたということは、そのあいだずっと「人と人の関係の意識」で歴史を歩んできたということだ。生き延びるために四足歩行に戻るチャンスは、たっぷりあったのだ。それでも戻らなかったのは、人と人の関係を第一義の意識で生き続けてきたからだろう。



大きな集団をつくれば生き延びるのに有利かといえば、そんなことはない。足手まといの個体が増えて、かえって天敵の餌食になりやすい。そして足手まといの個体から先に餌食になってゆくかといえばそうではなく、集団を守ろうとするリーダー格の個体が犠牲になることの方が多い。それが、現在まで続く人間集団の基本的な性格である。
人類の集団は、足手まといの個体を抱えながら大きくなってきたのだ。「生き延びる」というテーマなど持っていなかったから。
人間が大きな集団をつくっていったのは、ときめき合ったからだ。それ以上のそれ以外のどんな理由があるというのか。生き延びるのに都合がよかったからではない。
原初の人類が二本の足で立ち上がって起きてきたことは、人と人の関係に大きく心が揺れ動くようになったということだ。
生き延びるためなら、安定した群れの中でまどろんでいればいい。猿社会は、そうやって維持されている。しかし人類の群れでは、その安定に倦んで、群れの外をうろつく若い個体が現れてくる。そしてそんな個体どうしが出会ってときめき合い、やがて新しい群れが生まれてくる。そのようにして人類は地球の隅々まで拡散していった。
人間は、そうやって飽き飽きしたり嘆いたり豊かにときめき合ったりする猿だった。その、人と人の関係に対する心の動きの振幅の大きさ(=羞恥心)が、猿とは違う人間的な集団のかたちを発展させていった。言葉だって、この振幅の大きさから生まれてきた。
人間は、生き延びるために集団を大きくしてきたのではない。それは、たがいに「羞恥心」を持って正面から向き合う関係をつくっていったことの結果である。「羞恥心」がはたらいてむやみにくっつきあわないから、どんなに密集して大きくなっても、なんとか耐えることができた。そしてその関係は、原初の二本の足で立ち上がったときからはじまっている。
チンパンジーは、およそ100個体以上の群れはつくれない。それ以上になったら、一緒に行動するときに体がぶつかり合ってヒステリーを起こしてしまう。彼らには、ぶつかり合うまいとする羞恥心はない。
言葉を交わすことは、向き合ったままくっつきあわないでいられる最良の方法である。
おそらく、人間の言葉が発達したことだって、たがいに二本の足で立つ姿勢を安定させるという効果があったからだろう。最初は、「伝達する」とか、そんな目的のための道具でも何でもなかった。ただもう、向き合って立っているときのうれし恥ずかしを表出し合う道具だった。その音声にどんな意味があるかというようなことではなく、ただもう音声を交わし合うことそれ自体によって安定する関係のあやがあった。
人間の自然=本能は、生き延びようとすることにあるのではない。あくまで「今ここ」の人と人の関係に一喜一憂しながら生きている存在なのだ。たとえ現代人であっても、じつはそのことに失敗すれば生きていられない存在の仕方をしている。
二本の足で立つ猿としてこの世に存在することの「とまどい=羞恥」、この気持ちは、ほかの猿にはわからない。
そして、正義の側に立って人を裁くことばかりしている一部の現代人にもわかるまい。
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