「羞恥心」と「恥の意識」


羞恥心は、世界中の人間が持っている。
そしてそれが大人のたしなみだと思うと間違う。羞恥心は、子供や原始人の方が豊かに持っている。
なぜならそれは、弱い生き物の特性だからだ。それは、弱い生き物として生きるほかない乳幼児期に芽生えてくる。そしてまた、弱い猿として生きるほかなかった原始時代に獲得した人間的な特性だともいえる。
人と人の関係の根源は、「なんだろう?」といぶかり問いかける心の動きを交感してゆくことの上に成り立っている。そこから羞恥心が生まれてくる。
まず「なんだろう?」という反応がなければ、心なんか動かない。相手のひとことにたちまち怒ったり傷ついたりする人がいるが、それは、「なんだろう?」という問い=反応がなくて、即座にすでに自分の中にある価値意識(自尊心)で判断してしまっているからだろう。その自尊心で怒ったり傷ついたりしている。ひとまず判断を留保して「なんだろう?」と問うてゆく心の動きがない。
判断を留保して「なんだろう?」と問うてゆくことを「羞恥心」という。「羞恥心」とは、世界に対する「とまどい」のことである。
そして自分の中の自尊心が満足するか傷つくかで即座に判断してゆくことを「恥の意識」という。「俺に恥をかかせやがって」といっても、それは羞恥心ではないだろう。
自尊心が傷つくという「恥の意識」は、「羞恥心」のことではない。「羞恥心」のない人間ほど「恥の意識」が強い、ともいえる。
「羞恥心」は、自分のプライドが傷つくとか、そういう問題ではない。
現代人は、根拠のない自尊心をもとにした「恥の意識」だけがあって、世界に対して戸惑いはにかむ原初的な「羞恥心」が希薄になってきている。
「恥の文化」は日本列島の伝統であるとうぬぼれている場合ではない。その根拠のない自尊心をもとにした「恥の意識」こそが伝統及び人間の本性(自然)を喪失している心にほかならない。



今どきは、その根拠のない自尊心の根拠を求めて、神だのスピリチュアルだのと騒いでいる。自分は特別な存在だ、と思いたい人間には、どうしても神や霊魂という根拠が必要なのだろう。
まあ、歴史のはじめにおいては、自分たちの集団の正当性に根拠を与えてくれる存在として、この世界を支配する「神」がイメージされていった。そしてその延長で、自己の存在の正当性と確かさに根拠を与えるものとして「霊魂」がイメージされるようになってきた。
なんのかのといっても、自分の中の霊魂を意識しているから、森の木にも霊魂(精霊)が宿っている、などと思うのだ。はじめに霊魂という意識がある。霊魂という意識がなければ、そんなふうには見ない。
人間の直感は、世界を「画像」として見ているのであって、「物体」としては見ていない。だから歩き始めた赤ん坊を外に連れ出しても怖がらないで歩こうとするのだし、われわれだって、アスファルトの道路の下に土があるか空洞になっているかということなど意識することなく、基本的なはそれを「画像」として見ながら歩いている。
この世界は、その中に何が宿っているかどうかと思う以前に、たんなる「画像」としてわれわれの前に現れる。われわれの視覚は、「画像」として焦点を結んでゆくのだ。物体なのに、「画像」としてまず焦点を結んでしまう。それでは不完全だから、「なんだろう?」と思う。
いいかえれば、最初から中身のある物体だと決めてかかっているのは、焦点を結んでいないからである。観念的にそう決めてかかっているだけなのだ。そう決めてかかって、霊魂が宿っている、と思う。
「画像」として焦点を結ぶことができるものは、霊魂など発想しない。霊魂をイメージするのは、「画像」として焦点を結ぶ体験が希薄だからである。
人間は、なぜ「画像」として焦点を結ぶことが下手になってきたのか。いろんなことが原因としてあるのだろう。自然を支配できるようになったからということもあろうし、何より共同体(国家)ができて、みずからの正当性に執着しつつ他者や他の共同体を排除してゆくという意識が強くなってきたからだろう。つまり、「自尊心」が肥大化してきたからだろう。
「自尊心」は、世界を「画像」として焦点を結んでゆくという意識のはたらきを減衰させる。そうして、世界は「物体」であるという前提のもとに、その中に宿る「霊魂」をイメージしてゆく。
かんたんに世界は「物体」であると決めつけてもらっては困るのだ。「物体」であるはずのものを「画像」として焦点を結んでしまうから、「なんだろう?」という問いが生まれる。
人間の物理学に対するあくなき探究心は、この世界を「画像」として焦点を結んでしまうことの上に成り立っている。物理学のエキスパートは月や太陽を「物体」として見ているかといえば、そうではなく、彼らこそわれわれよりももっと平べったい板のような「画像」として見ているのであり、そこから「なんだろう?」という物理学の探求がはじまっているのだ。
それを「物体」として見ることなど、科学的な視線でも何でもないのだ。これは、霊魂がどうのという以前の問題である。
たんなる「画像」である対象に「霊魂」が宿っていることなどイメージのしようがないのであり、それが、原始人や子供の視線なのだ。
「画像」としてうまく焦点を結べないことは、人間性の衰弱である。そういう衰弱した心を支えるために、神がどうの霊魂がどうの死後の世界がどうのと騒いでいるのだ。



この世の中には、神がいて霊魂が存在することにしないと生きられない人たちがいる。彼らは、自分は特別だと思わないと生きられないほどに人間性が衰弱しており、そのための根拠として神や霊魂をイメージしてゆく。
人間には、どうすれば生きられるかという問題など存在しない。「すでに生きてしまっている」この事態をどう処理すればいいのかと戸惑いはにかんでいるだけなのだ。
しかし、焦点を結べない人たちには、「すでに生きてしまっている」という実感はない。それは、この生に焦点が結ばれていることによってもたらされる実感である。そういう実感がないから、自分は神に選ばれた人間だという自覚が必要になる。
「すでに生きてしまっている」と思えば、「どのように生きるか」ということなど発想のしようがない。「すでに見てしまっている」と思えば、「どのように見るか」ということなど発想のしようがない。すでに「画像」として見てしまっていたら、そこに何かが宿っている、などと思いようがない。
われわれの意識は、身体が生きたあとから生きはじめる。したがって、「どのように生きるか」ということなど発想のしようがない。原始人や子供は、そういう人間の自然とともに生きている存在なのだ。
「どのように生きるか」ということを発想しない存在は、生きることの「規範」としての「神」も「霊魂」も発想しない。
意識は、視覚の焦点を結ぼうとするのではない。すでに焦点を結んでしまっている。そこから意識がはたらきはじめる。
ところが、ふだんは焦点を結んでいなくて、意識しないと結べない人がいる。そのような人が、「どのように生きるか」と発想し、神や霊魂をイメージしてゆく。
彼らのふだんの意識は、環境世界に対して「開放状態」になっていて、焦点を結んでいない。だから「どのように生きるか」と発想する。それは、「どのように焦点を結ぶか」という心の動きにほかならない。
意図的に焦点を結んでゆくということは、とても難しい。というか、原理的に不可能なことなのだ。だから、「神」という規範であらかじめこの世界を規定しておく必要があるわけで、自分はその規範を知っているものになろうとする。彼らの「自分は特別だ」という意識は、「自分は神の規範を知っている」という自覚になってゆく。
この世界に焦点を結んでいない心は、自分の中に「神=規範」を持っている。
現代人は、人によってさまざまな濃淡があるものの、誰もが心の中のどこかしらに「神=規範」を持ってしまっている。焦点の結び方があいまいな分だけ、「神」を持ってしまっている。
焦点が結べない彼らには、この世界の濃淡がない。だから、「神という規範」で濃淡をつけてゆく。
焦点を結ばないことは、この世界の何もかもを等質に見渡せるし、脳は何もかもを記憶してゆくことができるが、その代わり焦点を結ぶという羞恥心も感動もない。
人間の脳は、いやなことや必要のないことは忘れるようにできているが、彼らは何もかも記憶してしまう。そのようにして、ときに際限もなく憎悪が膨らんでゆく。
焦点を結ぶから、必要のない脳細胞は死滅してゆく。しかし焦点を結ばない人の脳細胞は、何でもかんでも生き残ってしまう。彼らの生には、必要なものも、必要でないものもない。すべては等質である。というかその判断を、焦点を結ぶことによってするのではなく、自分の中の「神の規範」によってしている。
いいかえれば、焦点を結ぶ脳は、必要かどうかという判断をしない。すでにそれは焦点が結ばれ決定されている。だから「神の規範」など持っていない。
人間はもともと「神の規範」など持っていない存在だった。そんなものに頼ることもなく、すべての行動も思考も、そのつどの「今ここ」で焦点が結ばれ、すでに決定されていた。
言葉は、みんなで何かを決定してゆくために生まれてきたのではなく、誰の中でもすでに決定されている思考・感慨を共有しているかどうかと問い合ってゆく機能として生まれてきたのであり、共有されていると確認されたものがその集団の言葉になっていった。
まあ、心よりも先に体がすでに決定している、ということだろうか。何に焦点を結ぶかは、観念ではなく、無意識というか、生き物のとしての本能=自然のレベルですでになされてしまっている。現代人は、そういうはたらきが希薄になっているから「神の規範」で決定してゆくということをしなければならない。



ここでいう「羞恥心」は、制度的な「恥の意識」とは違う。
「恥の意識」は自尊心(自尊感情)の上に成り立っており、羞恥心は自尊心を忘れている心である。同じ「恥」という文字がつかわれているから似ているような印象だが、じつはまったく逆の両極の意識だともいえる。
意識が世界に対して焦点が結ばれているときに「羞恥心」が起きる。そして焦点を結べなくなった心において自尊心が肥大化し、「恥の意識」を強く持つようになってくる。
自尊心が傷つくと「キレる」というかパニックを起こす人がいる。現代社会ではそういう人がどんどん増えてきているのだとか。ちょいとふてくされるだけならまだいいが、犯罪にまで発展することがある。
新大久保のヘイトスピーチのデモだって、自尊心を守りたい一心でやっているのだろう。彼らの、その根拠のない自尊心は、日本に住む韓国人によって傷つけられているらしい。
おそらく、その中の若者の多くは、乳幼児体験としてこの世界に焦点を結んでゆくという心や視覚のはたらきを獲得することに失敗した者たちなのだろう。
自尊心を持て、とあおる言説がある。しかしその自尊心からヘイトスピーチが生まれてくるのだし、自尊心が強いからすぐ「キレる」のだ。それらは自尊心がそこなわれたときの「恥の意識」である。
「恥の意識」と、原初的な「はづかし」の「羞恥心」とは違う。
彼らのあの根拠のない自尊心はどこから来るのだろう。それは大いに興味のあるところであると同時に、それは、人間がほんらい持っている自然な心=感情ではけっしてない。
自尊心は、世界に対して焦点を結べない心から生まれてくる。
焦点を結ぶとは、世界や他者に気づく意識である。
それに対して焦点を結ばないことは、世界や他者を裁く意識である。
あるときから人類は、みずからの集団の正当性の上に立って、他の集団を排除して裁くということをするようになってきた。おそらくこれが共同体(国家)の発生であり、自尊心の発生でもある。
隣接して敵対する集団があり、そこに意識の焦点が結ばれていたら、安心して暮らせない。それはもう、焦点を結ばない対象として排除してしまうしかない。自分自身に焦点を結び、他者には焦点を結ばない。それが、「自尊心」である。
焦点を結ばないことは、見ないことではない。しっかりと分析・吟味し、憎悪や軽蔑の視線を向けることだ。それによって、「自尊心」が保たれる。
たとえば、ヘイトスピーチの若者たちは、日本に住む韓国人に焦点を結んでいるか。「韓国人という概念」を分析・吟味し憎悪しているだけである。ひとりひとりの人間に焦点を結べば、もっといやな日本人はいくらでもいる。
そりゃあ、「韓国人という概念」に対しては、今のところ誰だってあまり良い印象は持っていない。焦点を結ばないで「概念」として見ればそうなる。
韓国内の「日本人という概念」対する印象だって同じだろう。日本人に対して焦点を結んでいるとは思えない。
まあ、もともと世界中が隣接する国に対しては、焦点を結ばないで「概念」として見てしまう傾向がある。そうやって、「自尊心」を満足させている。
「自尊心」を満足させるためには、他者に焦点を結ばないで、ただの「概念」や「物体」として見てしまった方がいい。あるいは、憎悪したり軽蔑したりすればいい。
軽蔑とか憎悪という感情は、「自尊心」から生まれてくる。人間は、共同体(国家)の発生とともに「自尊心」を持ったことによって、憎悪や軽蔑という感情をふくらませてきた。
そしてその「自尊心」が揺らいだときに「恥の意識」が生まれ、「恥の意識」を払拭しようとして「憎悪」の感情が生まれる。



「自尊心」の強い人は、自分はとくべつな人間だと思っている。
何を根拠にしてそんなことを思うのか。
自尊心が強いからといって、その人がとくべつ魅力的な人間であるとはかぎらないし、人にちやほやされて生きてきたのでもない。自尊心とは、そういう体験に対する欲求や飢餓感であって、そういう体験の結果ではない。顔かたちがブサイクだからナルシズム=自尊心が希薄かといえば、そうともいえない。それでもその人は、自分はとくべつな人間だと思いたい。そう思わないと、生きていられない。
おそらくはじめに、世界に対して焦点を結べない、という意識の傾向があった。それが乳幼児体験だとしたら、そんなことを意図したわけではないだろう。
焦点を結べないということは、生き物としては、外敵の存在に気づくということがない状態である。この傾向は、親の意識が伝染する場合が多いらしい。そして社会もまた、人の心をそのように誘導する構造になっている。
自分を特別な人間だと思いたいのは、現代社会のマジョリティである。人によってその濃度の差はあるにせよ。
だから、「自尊心を持て」という言説が幅を利かす。
世界や他者に対して焦点を結べない心を持ってしまうことは、外敵の接近に気づけないという状態である。だから、外敵が存在しない状態に身を置こうとする。外敵が存在しないくらい神に選ばれた正しい存在である、という自覚を持とうとする。このように、「自尊心」の肥大化は、「焦点を結べない心」から発している。
自尊心とは、自分は生き物として天敵のいない存在だと認識してゆくことである。だから天敵に気づく必要がなく、意識を世界に対して「開放状態」にしておける。いいかえれば、焦点を結んで外敵の接近に気づいてゆく能力がないのだから、そのような存在になるほかない。そのような存在になるために「世界を支配する神」と結託してゆく。
自尊心は、どのようなかたちであれ、「世界を支配する神」と結託している。ヘイトスピーチの若者も、世のため人のためとのたまう人格者や政治家も、自尊心を満足させるために「神」と結託している。彼らは、意識を開放状態にして世界を隅々まで見渡しているが、「今ここ」の「あなた」に焦点を結んでゆくことはできない。
彼らは、天敵のいる弱い生き物として生きるセンスがない。だから、神と結託して自尊心を肥大化させてゆく。赤ん坊のあいだはそれでもいいが、社会に出てひとりで生きてゆくためには、そのセンスはどうしても必要である。二本の足で立っている人間は、その弱い生き物として生きるセンスで関係を結んでいる。しかし自尊心の強い彼らは、人にちやほやされるか人を憎悪したり軽蔑したりすることでしか関係を結べない。人にちやほやされる道に邁進して成功者になってゆける人はそれでもいいが、それができなければ、憎悪・軽蔑の道を歩むしかない。そうやってヘイトスピーチのデモに出かけたり、引きこもりになったり、ストーカーになったり、セクハラ・パワハラやDVで憂さを晴らしたりするようになってゆく。そしてそういうことをするのは、自尊心が強く「恥の意識」が強いからであり、弱い生き物としての「羞恥心」があったらけっしてしない。
世のため人のために立派なことをするのも、ヘイトスピーチのデモで叫んでいるのも、同じ人種なのだ。彼らは、自尊心が強く、恥の意識が強い。
「自尊心を持て」という言説が幅を利かしているのは、「今ここ」のこの世界や他者に焦点を結べなくなっている現代社会の病理である。
「自尊心を持て」とか「恥を知れ」ということと、「お前には羞恥心というものがないのか」ということとはまた別の問題なのだ。
「自尊心」や「恥の意識」などなくてもいい。しかし「羞恥心」を持っていないと人と人の関係はうまくいかないし、魅力的な人間にもなれない。まあ、人間としての品性の問題である。
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