「ケアの社会学」を読む・37・うまく死んでゆけるか?

このシリーズはそろそろ終わりにしたいのだが、頭の中でいろんな問題が錯綜してしまって、なかなか結論にたどり着けない。こんなことばかり書いていたら、せっかくの数少ない読者にも見放されるかもしれない。
たいして変わりばえのしないことばかり書いている、と思うのだが、それでもここで投げ出すことはできない。
上野千鶴子氏のこの本を読みはじめてすぐに、「こりゃあだめだ」と思った。そして、読めば読むほどにその書きざまが不愉快になってくる。でも、この本を批判すれば、それを通して人間の根源や普遍が抽出できるかもしれないとも思った。
東大のえらい先生が書いているからといって、とくにわかりにくいということもない。僕は、難しい文章でも「わからない」とはいいたくない。それは、わからないのではなく、わかろうとしない態度だ、と思っている。つまり、愛の問題だ、と。
内田樹先生の書くことだってしんそこくだらないと思うが、この先生が嫌いであるのではない。その内容に対する批判を通して真実を抽出しようとしているだけだ。いつだって内田先生の書くこと自体だけではなく、その向こうにあるものを考えている。
小林秀雄の書くものに関しては大好きだし批判するつもりもないが、小林秀雄を追いかけようとは思っていない。小林秀雄の先にあるものを考えたい。小林秀雄論なんか書いてもしょうがない。
僕にとって「テキスト」を読むことはひとつの「実験」であり、そこで起こる化学反応から新しい真実を抽出してゆく行為であって、テキストそれ自体から学ぶのではない。
その代わり、「わからない」といって投げ出すことはしないし、「くだらない」とだけいってすませることもしない。それは、愛の問題でもある。
上野氏のことも「ただの騒々しい田舎っぺのブスじゃないか」とさんざん書いてきたが、それだけではすませていないつもりだし、だから、ここで投げ出すことはできない。
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1・生き物はみずからの状況を受け入れる
被介護老人が自分のことを「すでに生きることができない存在になってしまっている」と自覚しているのなら、それは自然なことだろう。そういう老人に対して上野千鶴子氏が「介護を受ける権利を自覚し主張せよ」と扇動するのは、もうすぐ死んでゆく存在であるみずからの状況を否定して生きることにしがみつけ、といっているのと同じである。
そんな老人が生きることにしがみつくのは生き物としても人としてもけっして自然なことではないし、心穏やかに終末期を過ごす方法にもならないだろう。
「すでに生きることができない存在になってしまっている」と自覚するのなら、生きることにしがみつく気持ちなんか捨てて死との親密な関係を築いてゆくしかないだろう。それこそが人の一生の自然ななりゆきであり、だからこそまわりも介護せずにいられなくなる。
人が介護をせずにいられなくなるのは、死との親密な関係を生きたいからだ。人間とは死との親密な関係を生きている存在だからだ。そういう人間であることの根源との出会いに立ちあいたいからだ。
終末期の老人だろうと健康な若者だろうと、人間とは、死との親密な関係を生きるほかない弱い生き物であるにちがいないのだし、そこにおいてこそ生きてあることのカタルシス(快楽)が汲み上げられ、人と人の連携が生まれてきているのではないだろうか。
もうすぐ死んでゆくしかない老人がそのことを拒んで生きることにしがみついていたら、頭の中で暴風が吹きまくるだけだろう。そんな老人を、誰が介護したいものか。
老人でなくとも人間であるのなら、誰もがもうすぐ死んでゆく身であり、明日も生きてあるかどうかわからない身なのだ。
生き物は、死に対する親密さとともに生きてある。それが生き物であることの宿命であり、生きてあることの醍醐味にもなっている。
したがって、人間が生きてあることの根源において介護される権利も義務も存在しないし、それでも介護せずにいられなくなるのが人間なのだ。
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   2・生きられない存在であるということ
人間は、根源において「生きられない」存在である。生きてあるとは、「生きられない」ということである。それが、命というものの本質である。命あるものは必ず死ぬ。「生きられない」ことを命というのだ。命ある生き物の「生きてある」状態とは、「生きられない」状態でもある。命が、「死なない=生きられる」状態であることなど、一瞬たりともない。
死ぬということを抱えているのが、生きてある状態なのだ。
生き物とって生きてあることは、すでに与えられてある過去である。われわれは「すでに生きてある」のだ。われわれにとって生きてあることは、過去の思い出にすぎない。
そうしてこの生きてある状態は、目の前にぴったり死が張り付いている。生きることは、死と出会い続けることである。
だから人は、「生きられないもの」になろうとする。「生きられないもの」になるとは、死と出会い続けて生きてある、ということだ。
生き物は、死と出会って生きてあることを受け入れている。それは、死と出会って死にときめいている、ということでもある。死にときめいているから、「生きられないもの」になろうとする。
「生きられないもの」として生きるところから、人間的な文化や文明が生まれてきた。
人間は「本能が壊れた」存在ではない。ほかの生き物よりも本能的であることによって、人間的な文化や文明を生み出してきたのだ。
この社会の人々がどれほど観念的に「命の尊厳」だの「生きようとする本能」だのと合唱しても、われわれの行動様式は「死に対する親密さ」の上に成り立っている。そうでなければ、誰が冒険や恋や学問や芸術やスポーツをするものか。
一部の芸術派の知識人は、死に対する親密さがエリート芸術家の専売特許のようにいうが、そうじゃないのだ。すべての人間的な行動が、「死に対する親密さ」の上に成り立っているのだ。
生き物は、根源において死に対する親密さを持っている。死に対する親密さこそ生き物の本能なのだ。
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   3・「命」とは、生きられないシステムである
生き物には「生きようとする本能」などそなわっていない。なぜなら、「すでに生きてある」からだ。「すでに生きてある」ものを、生き物という。
「すでに生きてある」ものが「生きようとする」衝動を持つことは、原理的に不可能である。そんなことはあり得ないのだ。飯を食っているときに、飯を食いたいと思うのか。
飯を食うことは、腹いっぱいで飯が食えなくなる状態に向かう行為である。同様に、生きてあることは、やがて生きていられなくなる前段階のことである。そしてそれは、次の瞬間のことかもしれない。すなわち生きてあることは、「生きられない」ことなのだ。すなわち、生きてあることは、生きようとする衝動を持つことの不可能性の中に置かれている状態なのだ。
世の中の人は、どうして「生き物には生きようとする本能がそなわっている」と本気で信じることができるのだろう。僕は、不思議でならない。生物学的に物理学的に、生きようとする衝動が起きてくることはあり得ないのだ。
命とは、「生きられない」システムである。
飯を食うことは、飯を食おうとする衝動を消去してゆく行為である。だって、飯を食っているときに飯を食いたいと思うことなんかできないのだもの。飯を食いたいと思わないことが、飯を食うことなのだ。
生きたいと思わないことが、生きることなのだ。生きたいという衝動を消去して「すでに生きてある」になることが、生きるという行為なのだ。
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   4・「ひとり」であっても「ひとり」ではない
ひとりで生きてゆけるのなら、ひとりで生きてゆく。
人間が群れをつくったり恋をしたり家族をいとなんだりするのは、ひとりでは生きられない存在だからだろう。
人と一緒にいるなんて、鬱陶しいことだ。たとえ恋人どうしだって、ずっと一緒にいたら、やがてケンカがはじまったり幻滅が起きたりしてくる。そうして「ひとりになりたい」と思う。
一緒にいることは、一緒にいることの鬱陶しさを消去している状態である。鬱陶しさを消去しなければ、一緒になんかいられない。
人間は一緒にいたい生き物だから一緒にいることができるのではなく、一緒にいることの鬱陶しさを消去する文化生態を持っているから一緒にいることができるのだ。
ロビンソン・クルーソーは、無人島に置かれて、ひとりで生きてゆくことのできる能力を獲得していった。このことを逆に考えれば、群れの中に置かれたら、誰もがひとりで生きられる能力を捨てなければ群れは成り立たない、ということだ。
貧乏人は狭い長屋や団地にひしめき合って暮らしている。誰もがひとりでは生きられない存在だから、その状態に耐え、その鬱陶しさをやりくりする文化を持ってゆく。
それに対してビバリーヒルズの住民は誰もがひとりで生きられる存在だから、家と家が離れて、どの家も孤立し独立している。
人間は、一緒にいたい存在ではない。ただもうひとりでは「生きられない」弱い生き物だから一緒に暮らし、一緒に暮らす文化生態を持つようになってきたのだ。
人間は「ひとり」であっても「ひとり」ではない。先験的に他者との関係の中に投げ入れられて存在している。
「おひとりさま」であっても「おひとりさま」ではないのだ。
したがって、人が共同体や家族をいとなんだりすることを否定することはできない。それはたしかに鬱陶しいものではあるが、その鬱陶しさからこの生がはじまるのだ。共同体や家族はなにも大切なものでも素晴らしいものでもないが、受け入れるしかない。
人は、生きてあることの「嘆き」から生きはじめる。空腹という「嘆き」から食いはじめる。苦しければ息を吸う。「わからない」という「嘆き」にせかされて「何・なぜ?」と問う。
じっとしていることができなくて体が動いてしまう。原初の人類は、二本の足でじっと立っていることの不安定さや居心地の悪さにせかされて、歩くという行為を洗練させていった。
生きてあることは、いたたまれないことだ。そのいたたまれなさにせかされて、「生きる」という行為が生まれてくる。
生きてあるとは、「生きられない」状態のことである。「生きられない」ものが集まって人間集団をつくっているのだ。
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   5・ひとりになれない
生きてあるということは、他者との関係の中に投げ入れられてある、ということである。
人間は「ひとりになりたい」と思う生き物であるが、それは、先験的に他者との関係の中に投げ入れられてある生き物だからだ。その鬱陶しさ(嘆き)にせかされてわれわれは、「ひとりになりたい」と思う。われわれは、「ひとりになりたい」と思うほどに、すでに他者との関係の中に投げ入れられている存在であり、他者との関係を受け入れてしまうほどに「ひとり」ではいられない存在、すなわち「生きられない」存在なのだ。
人間は「ひとりになりたい」と思ってしまう存在だが、「おひとりさま」でございと気取っていられる存在でもない。他者との関係を受け入れてしまう存在なのだ。だから、鬱陶しい共同体も家族も受け入れてしまう。
上野氏は、女が生きにくいのは共同体や家族のせいだとかみつく。「おひとりさま」であるのなら「そんなもの知ったこっちゃない」といえばいいだけなのに、かみついてばかりいる。じつは、ひといちばい「おひとりさま」ではいられないひとなのである。彼女は、社会から置き去りにされることを怖がっている。だから、社会にかみついて、社会との関係を生きようとする。
「おひとりさま」であることは、社会から置き去りにされたものたちが知っている。人間は、そういう受動的なかたちでしか「おひとりさま」にはなれないのである。なりたいと思ってなれるわけではない。
「おひとりさま」になりたいのなら、社会から置き去りにされた存在になるしかないのだ。
誰よりも社会にしがみついている田舎っぺのブスが「おひとりさま」でございと気取っているなんて、笑わせてくれる。まあブサイクな女をやっているということにおいて「おひとりさま」であるともいえるが。
そうして「おひとりさま」でいられなくて、社会が悪い家族が悪いと騒々しくかみついてゆく。「おひとりさま」であることは、「すでにおひとりさまではない」ということなのだ。
社会から置き去りにされたものは、自分がすでに他者との関係の中に投げ入れられてあることに気づく。仕事とか金とか、そういう社会的な立場から離れて裸一貫の人間になったとき人は、より切実に深く豊かに他者にときめいてゆく。そういうところで、人間的な恋や友情が生まれている。
上野氏はたぶん、社会にかみつき社会にしがみついてゆくことで、間に合わせの恋や友情を得ている。社会的な制度的形式的な恋や友情。それは、裸一貫の人間の恋でも友情でもない。裸一貫の人間になれないものは、社会的な制度的形式的な恋や友情をつくってゆくしかない。
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   6・すでに他者との関係の中に投げ入れられてあるということ
マルクス主義をはじめとして、いつの時代も反体制の言説は世の中に受ける。誰もがひとりになれなることを怖がっている世の中だから、そうやって社会にかみつきしがみついてゆこうとするのだろう。
しかし、終末期の老人になれば、社会から置き去りにされ、誰もが社会とは無縁の裸一貫の人間になるしかない。社会とは無縁の裸一貫の人間は、社会のことなど知ったことではないし、社会が存在することをそのままのかたちで受け入れている。社会を変えようと社会にしがみついてゆくことなどしない。なぜならそれは、裸一貫を自覚することではなく、介護される身としてすでに他者との関係の中に投げ入れられている状態だからだ。
現実に介護が受けられない貧しく孤独な老人であれ、体がうまく動かなくて「生きられない状態」であれば、その「生きられない」ということが、他者との関係を意識している状態である。「生きられない」とは、他者との関係に投げ入れられてある、ということだ。人類は、そうやって他者との関係を紡ぎながら集団を構成するという歴史を歩んできた。
「生きられないもの」が、他者との関係に気づき他者にときめいてゆくのだ。
終末期の老人になれば、どうしようもなく他者にときめいてしまう。裸一貫の人間は、「生きられないもの」として、どうしようもなく他者にときめいてしまう。
上野氏は、どうしようもなく他者にときめいてしまう契機が希薄である。だから、他者にかみついたり仲間を集めたりしながら、他者との関係をつくってゆこうとする。「すでに他者との関係の中に投げ入れられてある」という自覚が希薄だから、関係をつくろうとする。そうやって社会にかみつき、受け狙いの反体制の言説をまき散らしている。上野氏にとっては、社会も他者との関係も、「すでに存在するもの」ではなく「つくる」ものであるらしい。そうやって作為的にしか生きられない人種なのだ。
内田樹先生だって同じだけどさ。
作為的にしか生きられない人種だから、はた迷惑な騒々しい被介護老人になってしまうのだ。どうしようもなく他者にときめいてしまう、という契機を持っていなくて、いつも他者を値踏みして生きているから。
こんなことをいいながら僕は、実際に上野氏に会ったら、このグロテスクなブスに思わずときめいてしまうかもしれない。人間なんて、そんなものではないだろうか。根源的にそういう存在の仕方をしているのではないだろうか。
他者が美しいからときめくのではない。「生きられない」存在である人間は、その存在そのものにときめくのだ。
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   6・「生きられない」存在であるということ
原初の人類は、密集しすぎた群れを解体できない状況に置かれた。そうしてその鬱陶しさを、誰もが二本の足で立ち上がってみずからの身体スペースを狭くし、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」を確保し合ってゆくことによって克服していった。またそのとき二本の足で立ち上がることは、不安定な姿勢のままみずからの胸・腹・性器等の急所をさらして、四本足で行動していたときよりもはるかに弱い存在の猿になってしまうことだった。つまり、直立二足歩行の起源は、そういう「生きられない」存在になることによって密集した群れをいとなむことのできる文化生態を獲得してゆく出来事だった。
人間が限度を超えて大きく密集した集団をいとなむことのできる生き物だということは、それほどに「生きられない」弱い存在である、ということを意味している。どんなに地球上に君臨していようとも、人間であることのコンセプトは「生きられない」存在として生きることにある。
人間は、どの動物よりも濃密に「生きられない」存在として生きるというコンセプトを持っているから、文化や文明が発達し地球上の君臨するようになったのだ。
人間が飛行機を発明したのは、ライオンや猿よりもずっと深く「空を飛べない=生きられない」ことの嘆きを抱えている存在だからだ。
人間は、生きようとするのではなく、「生きられない」と嘆いている存在なのだ。生きられないから生きようとするとか「生きられる」ものになろうとするのではなく、「生きられない」という嘆きそれ自体生き、それを共有しながら大きな群れをつくっている。
人間は根源において、「生きよう」とか「生きられるもの」であろうとする衝動を持っていない。だから人間は、「生きられない」状態に身を置こうとして冒険をするし、自殺もする。
人間にとって生きることは、ひとつのギャンブルなのだ。先のことなんかわからないし、生きられない現実であっても受け入れてしまう。生きられない現実を生きることにこそ、人間として生きることの醍醐味がある。だから男はしょうもない女に惚れてしまったりするし、「ダメンズ」の男にセックスアピールを感じている女もいる。
人間存在は「生きられない」ことの嘆きの上に成り立っている。そして、すべての生き物にとっても、生きてあることは「生きられない」存在であることなのだ。ただ人間は、他の動物よりもその「嘆き」が深いわけで、そこにこそ人間性の基礎がある。
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   7・死んでゆくということ
人間存在の根源のかたちが「生きられないもの」として生きることにあるのなら、生まれたばかりの赤ん坊や終末期の老人こそ、もっとも人間であることの根源を生きてあることになる。
だから昔の人は、赤ん坊や老人を、より神に近い存在だと認識していた。
乳幼児期に「生きられないもの」として生きるトレーニングに失敗していると、終末期の過ごし方にも失敗する。
「おひとりさまの老後」を読めば終末期の過ごし方の問題は解決する、というわけにはいかないのである。
上野氏は、騒々しくぶざまな終末期を過ごさない人だろうか。
まるで、終末期の過ごし方の問題は解決しているかのようないい方をしていやがる。その解決しているつもりになっていることこそぶざまでグロテスクなのだ。
上手に死んでゆけるつもりでいやがる。そのつもりでも、いざ終末期になれば、その「未来」がわかったつもりになるというみずからの性癖に裏切られねばならない。
とくに社会的に成功したものたちは、みんな自分が上手に死んでゆけるつもりでいる。上野氏だけじゃないのだ。そういう人間のいうことを真に受けて、プチ成功者である「市民」たちもその気になってゆく。
みんな、うまく死んでゆけるつもりでいる。
しかし、実際に魅力的な被介護人になれたりうまく死んでゆけることができる人はほんのひとにぎりであるのが現代社会なのだ。
うまく死んでゆけるつもりになってしまうことそれ自体が、じつは、うまく死んでゆけないことの原因になっているのだ。
終末期のことは、終末期になってみないとわからない。そしてその「わからない」という思考というか心の動きが、たぶん、「生きられないもの」になる終末期には必要になってくる。
終末期とは、人生の未来を喪失している時間である。であれば、未来のことはわからない、という前提で生きるしかない。未来がどんどんなくなってゆく時間である。
人は、未来に死んでゆくのではない。未来がなくなって死んでゆくのだ。「いまここ」において消えてゆくのだ。終末期とは、「いまここ」が死とともにある時間である。
したがって、死とともにある「いまここ」に親密になってゆくことができなければならない。終末期とは、死に対して親密になってゆく時間である。そうして、死と「いまここ」が親密なものとしてぴったり重なっているのが、死の瞬間なのだろう。
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   8・伝統的な死生観
日本列島の古代の人々は、「死んだら何もない黄泉(よみ)の国に行く」と言い習わして、死んだあとの未来を消去していた。彼らは、「いまここ」で死んでゆく、というタッチを持っていた。
しかしそれは、そういうかたちで「いまここ」のこの生を充実させてゆこうとしていたのではない。民衆の言い習わしが、そんな作為的観念的な目的意識で生まれてくるはずがない。ただもう、知らず知らず誰もがそう思うようになっていっただけのこと。
誰もが「生きられないもの」として生きる社会だったから、「未来」とか「永遠」という時間をリアルにイメージできなかっただけのこと。生きてゆくことはだんだん未来という時間がなくなってゆくことだと思っていたし、そのことを不幸なことだとは思っていなかった。つまりそのようにして、死に対する親密な感情を持っていた。
死が不幸で忌避すべきものだと思っていたら、とうぜん天国や極楽浄土や生まれ変わりを信じようとしてゆくだろう。
しかし彼らにとってこの生は、あくまで「嘆き」の対象だった。だから、死後の世界をこの生の延長のようにはイメージしなかった。
また、この生が「生きられないもの」としての「嘆き」とともにあるからといって、それを拒否してはいなかった。このあとには天国が待っているという代償は求めなかった。その「嘆き」とともにあるこの生を受け入れていた。
その「嘆き」をこの生の通奏低音として抱えつつ、その「嘆き=自分=この生」を忘れてしまう体験をして生きており、忘れてしまうことそれ自体がある意味でよろこびだったというか生きるいとなみだと自覚していたのだろう。
「死んだら何もない黄泉の国に行く」とは、死んだらこの生の嘆きをきれいさっぱり忘れられる、ということだ。彼らにとっては、幸せやよろこびを求めることよりも「忘れてしまう」ことの方が大切だったのであり、言いかえれば「忘れてしまうこと」が幸せやよろこびだった。
彼らにとって死は、死後の世界という「未来」に向かうことではなく、「いまここ」の中に消えてゆくことだった。そうして、生きてあること自体が、「いまここ」を味わいつくすことだった。だから、「死んだら何もない黄泉の国に行く」と言い習わしていった。
それはべつに、生きてあることを充実させるための方便だったのではない。ただもう、そうとしか思いようがないような生き方や死に方をしていただけの話である。
何はともあれこれが、日本列島の歴史的な生き方や死に方の流儀なのだ。そういう死生観が、われわれの無意識の中に、きっと息づいている。
介護を受けている終末期の老人は、「いまここ」の中に消えてゆこうとしている。だから彼らは、明日も生きてあることを勘定に入れながら「介護を受ける権利」を自覚するということはしない。
少なくとも日本列島の伝統にはそういう自覚が生まれてくる必然性はないし、自覚していたら人はうまく死んでゆくことができない。
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しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
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幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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