「ケアの社会学を読む」・38・介護をされる身になるということ

   1・状況を受け入れるということ
どうせこちらはもうすぐ死んでゆく身なのだから、この世の中がどうなってゆくかということも、どうなってゆかねばならないかということも、あまり興味はないないわけですよ。
未来の社会は、未来の人たちのものだ。われわれのものじゃない。
人類の理想なんて、われわれが決めることじゃない。
僕はひとまず明日死ぬかもしれない身だと思っているから、この社会をどうするべきかということなどいえる資格はないと思っているし、いいたいとも思わない。
僕は、内田樹先生や上野千鶴子氏がもうすぐ死んでゆくジジイとババアのくせに、どうしてこの世の中はどうなるべきかというようなくそ厚かましいことを声高に叫ぶことができるのか、まったくもって理解できないのですよ。
そんなこと叫んでも、けっきょく自分にとって都合のいい社会像を描いているだけなんだよね。あるべき社会像を描いてみせて、みんなの尊敬を勝ち取りたいんだよね。
彼らは、どんな社会になってゆくのだろう、とは考えない。どんな社会になってゆくべきか、と考える。それはもう、どんな社会になろうと知ったこっちゃない、といっているのと同じなのである。
どんな社会になるべきかといっても、歴史はその通りにはならない。しかし、そういえば人から尊敬されるということはあり得る。人間の社会が、こんな社会になるべきだと構想した通りになってゆくのなら、人類はとっくに理想の社会を実現している。
人間は、たとえ住みにくい社会でもその状況を受け入れてしまう生き物だから、けっして理想通りにはいかない。
彼らの関心は、あくまで自分が尊敬されることなのである。
ほんとに未来の社会のことを考えるのなら「どうなってゆくのだろう?」と考えるのであって、「どうなるべきだ」とは考えない。
どうなるべきだと声高に叫ぶことは、少しも誠実な態度ではない。無責任といえば無責任である。その人が神として全人類を支配できるというのなら別ですけどね。
言い換えれば、そうやって神のような態度を取るから尊敬されるのかもしれない。そして多くの知識人がそういう競争をしているのかもしれない。そうやって民衆の心(=尊敬)を奪い合っている。
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   2・あるべき社会のかたちなんか、おまえらが勝手にが決めるな
まあ、こうなるべきだと発想する人ばかりの世の中なのだから、そういう人たちのせめぎ合いの結果として新しい社会が生まれてくるのだろうか。
原発を推進する人もいれば反対する人もいるし、どちらでもいいと思う人もいるし、今となってはもうしょうがないじゃないかという意見もある。そういうさまざまな意見のせめぎ合いの結果として、どこかに落ち着いてゆくのだろう。
しかし僕は、社会はこうあるべきだ、ということはよういわない。たぶん、僕と同じようにほとんどの人が、推進するべきだということもなくすべくだということもよくわかっていない。
だってわれわれは、政治家でも科学者でもないんだもの。
社会はこうあるべきだ、だなんて、どうしてそんなことがいえるのだろう。責任なんか誰もとれるわけでもないのに、どうしてそんなことがいえるのだろう。とれるわけでもとるつもりもないからいえるのだろうか。
どちらに転んでも、それによって人生を台無しにしてしまう人が出てくる。そういうときに、人類のためだからしょうがない、お国のためだからしょうがない、とあなたは思えるのか。
右翼も左翼も、みんなそういって自分を合理化する。
しかし僕は、誰も人類のために生きねばならない義務もお国のために生きねばならない義務もないと思っている。
だから、未来の社会はこうあるべきだ、というようなことはよういわない。
この社会は、おまえらの理想のためにあるんじゃない。
みんな、それぞれの領分で精いっぱい生きている。未来の社会を決定する権利は、誰にもない。言い換えれば、その権利は誰にだって等分に与えられてしかるべきだ。そして誰ひとりの権利も無視するわけにはいかない。
おまえらの理想が勝手に決めるな。この社会の未来は、なるようになってゆくしかない。そういう「なりゆき」を受け入れるのが人間性だと僕は思っている。そういう人間性は、誰にも等分に与えられている。
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   3・人間性の基礎として
どんな世の中になろうと、人はその状況を受け入れる。
原初の人類は、住みよいところを目指して拡散していったのではない。住みにくいところ住みにくいところへと拡散して、とうとう地球の隅々まで住み着いてしまった。
人間はどんなひどい状況も受け入れてしまう。
古代には世界中にたくさん奴隷がいたし、封建時代の農民なんか、そりゃあひどい暮らしだったことだろう。それでも人間は、みずからの状況を受け入れてしまう。
20世紀になって日本やドイツがあんなひどい戦争をしてしまったのも、人間が状況を受け入れてしまう生き物だからだろう。そうしてそのときユダヤ人もまた、みずからのそのひどい状況を受け入れてしまった。
われわれが終末期の老人になったときも、その状況をちゃんと受け入れることができるのだろうか。
みんなが受け入れている社会なら、受け入れることができる。
しかし現代社会においては、誰もが「市民」として「状況をつくる」ことに参加してゆこうとしている。世の中はこうしなければならない、と発言したがる人は多い。知識人だけじゃなく、一般庶民だってそういう思考をしている。
世の中はこうあるべきだ、という思考そのものが「受け入れる」という心の動きを失っている証しである。そう思考することが現代社会の正義かもしれないが、それによって終末期を過ごすことは難しい。現代人は、終末期になってもなお、自分が死んでゆくという事実を受け入れることができないで、さまざまな混乱を引き起こしている。
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   4・死んでゆくものの覚悟
人間は、どんな不幸も受け入れることができる。われわれは、そういうことを終末期の老人から知らされる。
われわれは、この生が幸せだからこの生を受け入れることができるのではない。どんなに不幸であってもこの生そのものを受け入れてしまうのだ。終末期の老人や障害者は、そういうことを教えてくれる。そのことに向かって献身してゆくことを、介護というのだ。
終末期の老人を幸せにしてやることなんか、誰もできない。
障害児の子供を持った親が幸せであるはずがない。障害児自身だって幸せであるはずがない。それでも彼らは、みずからのその状況を受け入れている。「状況を受け入れる」ということにこそ、人間であることの最後の尊厳がある。
幸せをつくるとか幸せだと思い込むことがえらいんじゃない。
人間はどんな状況でも受け入れる、ということこそ、われわれの最後の希望である。介護とはそのことに向かって献身してゆくことである。
したがって、介護される身になるということは、上野氏のいわれるような「介護される権利を自覚し主張する」などというお気楽な事態ではないのである。
介護されるものの覚悟だって要求されるのだ。ひと通りの人生を生きてきたものであるのなら、そういう覚悟をちゃんと身につけておけ、といわれても仕方がない。
そして「どんな状況でも受け入れる」ということは、大人の覚悟ではなく、あくまで人間の自然だということ。そういう自然に還ることができるか、とすべての老人が試されている。この社会が試されている。
僕は、もうすぐ被介護老人になるかもしれない人間のひとりとして、あえていう。被介護老人に「介護される権利」などといって甘やかす必要は何もない。まわりが介護せずにいられない存在になれないのなら、どこかの山奥にうち捨てられても文句はいえないのだ。
介護される権利なんか、誰にもない。介護などということは、「介護せずにいられない」衝動の上にしか成り立たないのだ。介護をする義務なんか、誰にもない。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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